●第67回徳島県高等学校演劇研究大会講評

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《はじめに》
 三日間の上演・運営に関わられた参加校の皆様お疲れ様でした。また、関係者、スタッフの皆様ご苦労様でした。おかげさまで、なんとか審査の大役を果たせたという思いです。
 本番の口頭での講評はかなりはしょりましたのであまり分からず参考になりにくかったのではないかと思います。
 お約束いたしましたように、文章での講評をお届けいたします。各校の今後の活動の参考になればと思います。自校の講評だけでなく、自分の目で実際に見た他校の講評も読まれて、自分の感覚と違うところを比較検討してもらえれば幸いです。ああ、こういう味方もあるんだ、いや、ここはそうじゃないだろうとか。人によって目のつけどころが違いますから。
 私は、会場でも申しましたように、多少脚本を書いてきましたので、その経験からの判断と、演劇部活動を続けてきた観客の立場から、判断して講評を書きました。いくつか読み違いがあるとは思いますが、私はこう見ていたんだと言うことでご容赦ください。なお、上演校により、講評の長短がありますが、これもご寛恕くださるようお願いいたします。 では、始めます。 

《各校講評》
上演1.城ノ内高校『ユルくないとネ!』
 ●題名が面白い。?何がユルくないとネ!なのか好奇心がわく。こうした観劇する前に観客の好奇心を刺激する謎めいた題をつけるのは観客を引きつけるにはきわめて有効。それだけで観客を味方につける第一ステップであろう。内容やテーマをずばり、あるいは反語的に(この題名は最終的には反語的だったと言うことが分かる)あらわした、いわゆるキーワード的な付け方を工夫するのは大事である。
●幕開け。朗読の中で明るくなる。部室風景。机の群れがそれぞれやや分離して いくつか並ぶ。上手には学習机とポットとか、背後の黒板には『ユルくないとネ!』と、書かれた紙が貼られているのが観客の目に飛び込んでくる。ああ、これかと思い、でもこれはなんだろうと。それぞれのグループみたいに勝手にいろいろやっている情景描写。やがて独り新入部員ののこがセンターに進み、一礼して説明を始める。
●「人権新聞」の編集しているレベラーズ部を舞台に、人権フェスタでの出し物をどうするかを巡って、今我々を取り囲む息苦しい空気や状況を描き出している作品。様々なエピソードを周到に計算して書かれている理知的な作品だと感じた。と同時にそれが弱みにもなっている感もある。複雑な構成を計算して組み立てた分、安定するが反面不自由さがます。その不自由さを不自由と感じさせないためには俳優の演技力が必要だが、少し安定していなかったように見えた。台詞の二音節目を強く言ったりあがったりする変なリズムを生む台詞回しとか、早口になり台詞が聞き取れないところがあるとか、首振りながら台詞を言う癖が会ったり、台詞のないと切り演技が薄くてただ次の台詞を待ってる感みたいなところや、類型的な演技とか、全体に積み重なっていくと集中している感じが薄れてきてお芝居がぼんやりしてくる。
 ●複雑な構成を新入部員をナビゲーターとして、わかりやすく案内させる手法をとった。まあやむを得ないと言えばやむを得ない。ただし、構造がそうなった分、人物が「役割」化して浅くなっているのは否みがたい。
 ●部のレベラー部自体の説明。そうして、部員をだいたい二群にわける、けっこういい加減なチーム「み」、まじめなチーム「こ」の対称性を説明、そうして、いい加減チームのに独り異質な、詩を朗読する生徒なみの存在を出す。チーム「み」とか『こ』とかいうのは本名とは全く関係なくわざわざニックネームをつけ、頭を順に「ユルくないとネ」として、下に「み」と「こ」を配分して、いわばコードネームにしてある。もっともっと部員がふえたらどうすんだろうといらざる心配をしてしまう。このニックネームによるチームわけには、実は管理するにおいがあり、意外に実はゆるくないことが徐々に明らかになる。こういう風に管理するといっそう人物が役割化するんで、演出はよほど気をつけないと行けない。もっと戯画化するなり、怪作ふうに処理した方が良かったかもしれない。
●紹介が終わり、顧問がやってきて本筋のドラマが始まる。どうやら人権フェスタの出し物を検討していたようだ。顧問は堅苦しいイメージを払拭するパフォーマンスということで、ダンスか劇かとかゆるキャラをだせと強引かつ一方的に要求して去る。ここらあたりやや抑圧的な感じを出している(最後には管理職に切れるんだけど)。
●で、新入部員がレベラーズってなんだと質問、そこでまじめな先輩が説明する。ま、これはやっておかないと普通使わないから分からないところ。で、その先輩がの話が、さらに前部長の非常にできる町子先輩の受け売りだと言うことが明らかになり、さらに詩を朗読していた部員コードネームなみの姉であることが知らされる。ナミは不機嫌というより怒りモードでそそくさと帰り、姉と不仲であることが分かり、「ユルくないとネ!」いう言葉が、苦しいとき、だめだと思ったときはこれを思い出して町子が残した言葉だと知る。部訓のような。悪くはない感覚だが、それが部訓みたいに今の部員たちをじつは縛っているようだと気づかされる(ネこのうん、でも、何かさ・・・というなずんだ台詞。)。
●競歩で帰る部員の歩き方、微妙に競歩と違う感じがするんですけど・・・。
●で劇でもやるかとチーム「こ」、で劇中劇が始まる。性同一性障害の話なんだが、現実に最近なんかちょっとにたシチュエーションが起こした猟奇殺人事件があったんで、わらえるけどちよっとひくかなぁ。「坊や大きくならないで」の音楽。キッと生徒はぼけるだろうなあと思っていたら、案の定ぼけたのは何となく笑えました。「人間はもう終わりだ」も人権フェスにパフォーマンスしろというを強烈に揶揄してていいが、ちよっとテーマを説明する役割を担うのが気にはなる。「人」、「骨」のゆるキャラは笑える。
●このあたりまで見ていると、動線の不自由さと言うか単調さがやや気になってくる。基本的に机に向かってすわつていて、会話してて、何か前に出て一発芸というパターン。装置の配置からどうしてもそうなるが、演技を不自由にしているのかもしれない。微妙なところです。ただ、パターン化してしまうと説明になるので要注意です。
●ゆるキャラ批判の先生のエピソードから同和問題への言及のあたり、本論である。ネこの「ほんとに大事な問題を話すときに、いつも明るく笑ってなんかいられないよ」の台詞に「ゆるキャラ」を強制してくるものたちへの批判として出される。では、「ユルくないとネ!」との関連はどうかと言うことが、かんがえられ、さらにテーマは深くなっていく。
●顧問へのおちゃのサービスから町子先輩のいとが少しわかる。人間には一日一回お茶を飲んでほっと息をつく時間が必要だ。それは当然部訓?へ繋がるのだが・・。
●なみとのこの会話。なみというコードネームは町子先輩がつけたことが分かるが、それをきっかけに、「ユルく」あることをいわば強制され押しつぶされていくなみの怒りが爆発する。ここの長台詞で語られる情景は「森」。「翠(みどり)の群生」と言っている。すなわちコードネームなみの本名「翠」である。それに帰りたいという、翠の前には赤茶けた焼け野が原、すなわち現実しかみえない。「なみ」であることを強いられる苦痛と、本当の自分である翠を取り戻したい強い渇きのような苦しさがあふれる詩的な台詞だが、だがそれまでの流れの基調と違い、いわゆる「大きな言葉」で書かれたものでそれまでの台詞と違い唐突で違和感が生じる。ま、それも狙いだろうけれど、違和感を消して連続させるには、台詞はむしろ、淡々と平坦な言い方がいいのではと思う。思わせぶりな湿度がある言い方をすると説明になりそう。乾いた無表情がよろしいのでは。赤茶けた焼け野が原に立ち尽くすなみにはそれがふさわしいのでは。
●チーム「ミ」のダンス。も少し切れっ切れになりたいですね。某大先輩の顧問曰く、「踊るなら上手に踊れ、歌うなら上手に歌え」。
●遊びが、テーマとうまく絡まってきている。いかがなものかいえん隊とか基本的に、ブラックというか、風刺的な笑いのテイストがある。知的なからかいが乾いたユーモアを生み出しているのは良い。直接的な批判の言いっ放し言葉ではなくて、風刺の言葉になっている。

●ネコの長台詞。もっと淡々と早口でハイスピードで加速していった方がいいかも、ひらがなのせりふあたり。聞いている人たちの表情が死んでいる。ちゃんときく、したをむかない。ナミが行方不明の連絡を受け、勝田先生の管理職に対して切れたゆるキャラ批判、町子先輩の部訓への自己批判、慈善病院の白い・・の詩、等にテーマがたちあらわれて来る。政治や社会、あるいは身の回りによく出てくる現象と言葉の乖離、それは「ゆるキャラ」を強制してくるのと同じで、私たちの現実を別の「ゆるキャラ」の回路に回収させていく働きを持ち、善意とは関わりなく、私たちと物事の関わりを狂わせていく。人権教育と同和教育という言葉の掛け替えだけでないものを表す。いわば、システムが言葉の真実をはぎ取っていく。台詞にもあるように「ゆるきゃらとか、明るく楽しくとかばっかりいうっていると真剣に考えて話し合うことができなくなる」そういう状況にさらされているのを明示している。
●この状況が続くと、特に今のテレビやネット見ていると。次に来るのはというよりもうきているんですけれど、いわゆるハンナ・アーレントがいった「凡庸な悪」だろうと思います。ごく普通の人が、どんどんとシステムに囚われ、というか無自覚に成り、やがてはそれを熱心に遂行するユダヤ人虐殺を遂行したアイヒマンのように。一番怖いのは慣れですね。日本人はすごく流されやすいし、忘れやすい。意識して自分を偽り、やがていつしかそれが本当の自分となる怖さがある。町子先輩は多分その象徴で、題名の持つ皮肉さがそれを際立たせている。善意でしめした「標語」が、最終的に翠をなみとして追い詰めていったように。
●帰還した「なみ」とネこの会話でそのあたりが表現されているようだ。ただ一つ救いは、現実はきれいでも何でもない森で聞いた鳥の歌声。森に行ったところで「なみ」は「翠」にはなれなかったのだが、ただ一つ「ああ、これがうたごえなんだ」とおもう。それは、「慈善病院の・・」の詩に繋がる。「今、私には出来た 私のいないあとのツグミの歌をも ことごとくよろこぶことが」やがて死ぬ私のいない世界で響き渡るツグミの歌。それを愛しく思える覚悟というのは、強い。いや、魂は永遠にとか言うのではなくて、私がいなくなった世界に営みを続ける人間への信頼と言うことだろう。テロやらなにやらきな臭くて抑圧的、排外主義や、憎悪の連鎖が渦巻くくそったれな現実ではあるがそれに対抗するには私たちに残されている最後の手段は、やはり人間への信頼でしかあり得ないだろう。それがなくなったとき、もはやツグミも歌うことをやめるはずだ。エンディングの音楽にもそれがあふれている。
●とにもかくにも、そうした様々な要素を、上手に組み立てた脚本だろうと思う。だか、そうであるからこそ、俳優の力が今ひとつ弱かったために、全体として要領よく説明した感が出てしまうのが惜しかった。とにかく、ビシバシ鍛えてやってください。少々抑圧的でもいいですから(*^▽^*)。まずは台詞の変なリズムを取り去りましょう。長台詞やると一発で分かります。

上演2 富岡東 「里崎さつきの冒険」
●家庭でどうやら母親とトラブルがあって家出した(というかプチ家出っぽいです)サツキとみやこが、空き家で冒険を繰り広げるという話の予定であっただろうか、冒険してないです(-_-)
●終わりまで見るといわゆる夢オチだろうと判断できる。二つの世界、夢と現実で行きて還りし物語なんですが、なぜ行ったのかがよく分からないことと、どうやって行ったのか、その世界で元の自分とどう変わったか、あるいは変わらなかったか、還ったときとの違いがあまり明確でない。後悔していることが変わったことだとすれば、ちょっと情けない。後悔してその先はが問題だろう。
●幕開け、広い舞台の中央部分に段ボールが何個かごちゃごちゃ置いてある。多分、この段ボールに色々ネタになるのをいれとるんやろなあと予想がつく。それだけでは寂しいので、せめて小物とか、家出したとき持ってきたリュックとか色がついているものが欲しいな。部屋の境が分からないのはあとで困るのではと思ったら、二人が登場してから、案の定舞台の広さに苦戦をしていた。どうも、上、下に連続した部屋か入り口があるようだが、何せ舞台全面が一部屋だという感じになっているので、大ホールかよと思わず突っ込みをしたくなる。
●舞台の広さが手に負えない場合の対策を考えよう。普段の練習では、多分教室ぐらいの広さと天井の高さでやっているはず。身体の感覚はその空間の容積になじんでしまい、声の出し方や距離感、響かせ方や動き方まで広さと高さに順応し、ホールなど広い場にすぐに順応して身体の感覚を切り替えるというのはなかなかに難しい。校庭でやるとか、屋上でやるとかという方法もあるが、多分意識が拡散してしまいうまくいかないだろう。お芝居のタイプにもよるが台詞中心のお芝居では広さに身体を慣らすより、空間を狭める工夫をした方が増した。たとえば。
1.他の学校がやっているように。パネルを立て回して部屋とする。この場合、上手から下手まで壁が続いている必要はない。一番わかりやすくなるけれど、お金と人手と技術がいる。なければパス。
2.幕を使って狭める。これも他の学校がやっていた。大黒を締めるだけでも閉塞感が出て、実際には広さは変わりなくても見ている観客には空間が狭くなる感じがある。ただし、ホリゾント幕の使用はあきらめる。それでも、俳優の身体感覚で広すぎると思ったら、ひき割り幕、あるいは中幕を閉める。これなら奥行きは半分になる。その分横長になって上下の広さが気になるかもしれない。袖幕を、出来るだけせめて上下を詰める。あとは、装置の置き方を工夫すればよい。演技エリアの端に)ちょっと何か置くだけで囲まれた感が出てきて狭く感じる。ただし、この場合もホリゾント幕の使用はあきらめる。どうしてもホリゾントを使いたければ、客席に向かって一番手前の袖幕から、だんだん狭めていき、ひき割り幕でぐっと狭めるて、ハの字型にすると、出ハケの場所も幾通りも使え、奥行きがある分以外に使いやすい。
3.舞台を広く使わなければならない場合もあるときは、照明でエリアをくぎったら良い。ホリゾントを使っても使わなくても、また2の場合と併用しても良い。このお芝居の場合は、部屋はそんなに広くなくてもいいから、センターと、上下へ重なってもいいし重ならなくてもいいが、四角いエリアを照明で区切ってもらえばいい。一つずつ使用すれば三つの場所になるし、二つぐらい合わせると、上手あるいは下手にやや広い空間が出来る。エリアの外はお約束で、まあ、いわば袖扱い。ただし、本当の袖までは距離があるから、そこのあたりで集中力を欠いた演技で袖に入ったりすると、ああ、素に戻ってるというわけで芝居を壊すからそれは要注意。
4.装置の配置は重要。それにより物理的な演技エリアが決まると同時に、観客の心理的な空間をも決める。だから、うまく配置すると、観客は舞台の広さが気にならなくなり視線を役者に集中する。大小、高低、前後、左右、ナナメに置いたり平行に置いたり、ビジュアルでうまく誘導すること。工夫がいります。
5.声の届かせ方というか声の距離感のコントロールはその意味で大切です。相手の役者の距離に常に注意してください。
●さて、お話について話を戻すと、最初の方の話の流れはぐだぐだと無駄話が続いて緩い雰囲気があって期待が持てる。遊びの部分だけれど、遊び切れていないところがある。家出という訳で、非日常な世界だから、組織ごっこもきちんとしたら良い。もちっとはじけないと舞台の雰囲気が寂しくなる。サツキのハイテンションとみやこのだるさの対比はもう少し強めでもいい。発声を明確に。語尾を伸ばす癖がある。台詞のキャッチボールにもう少しリズム感が欲しい表面的にはなんかちょっとわくわくする感じというぐらいはないと。いっそ、明るい家での感じに特化するというかそのテイストがもっとあればいい。せっかく段ボール置いてあるんだから、もっともっと変なものを入れとして、いったいこの家なんなん?つう非日常的なへんてこ感を出した方が遊びやすい。さびたフライパンとか馬のかぶり物とか出てくるが遊びきれない。かぶり物ならかぶることでもっとおかしさが出てくる。
●疑問。「日記かかないといけないらしくてさ」という台詞がなんか分からない。最初の設定とずれているのかもしれない。「洞窟」とか。「あんなうさんくさいプロジェクトしんようできないしとか」別の方向性があったようだ。そちらで走った方がお話としては荒唐無稽に成り面白かったかも。
●秘密基地。コードネームとか遊びの材料はいっぱい出てくる。でもそれを使いこなせていない。
●やがてあっさりとみやこ離脱。雨が降り出す。このあたりから何をしたいのかお芝居がよく分からなくなる。救急車のようなサイレンがなる。ああ、これは伏線だろうと思う。事故かいなと。このあたりからさては夢オチ?と思い始める。
●みやこが日記を読むがその前にサツキが全部言っているので意味があるのかと思う。多分これは後になってサツキの日記を読んでいるんだろうなと。ということは、サツキは死んでいるか意識不明か行方不明?
●よく分からんなと思っていると、さらにわからん情景。みやこがサツキを訪ねてきて花をプレゼントする。何で花かという問いにごめんねと謝るが。病院の見舞いかとも思うがそれでは時制が違ってくるはずだし、謎だ。
●さらに又謎が父さんの写真、20歳ぐらいかなという話、で、それがどのような意味合いを持っているかと思いながら見るとなぜか外へ出られなくなっている。帰りたくなったのに帰れない。もうこんな生活いやと叫ぶ。でもって母がみやこと一緒にごめんなさいってないてる情景が浮かぶ。みやこが、あのときちゃんとサツキを止めていればという。あのときっていつよ。止めなかったのでいまどうなのよ。とどうも意識不明で病院にいるみたいだが、それにしても何で意識不明になったのか。さっぱり分からない。母に謝るサツキの台詞もかなり謎。実際に何が起こったかは依然として分からない。
●最後サツキの日記。最終日とある。何かのプロジェクトなのか。家に帰るときがやってきたとある。家出ではそういう書き方はしないだろう。迷惑をかけ反省したとあって、きっとこれからも繰り返すだろう、だがそうした私は成長していく。はた迷惑な話である。というか何があったのか不明で、なぜか突然目を覚ます。まあ夢オチ。
●これでは何がなにやらということです。多分最初の設定が違っていて書き直す内に前の設定とごちゃごちゃに成り整理しきれず、いったい何が問題で何をしているのかがくだくだになってしまった。すなわち、脚本の構造が出来ていなかったと言うことです。あるいは、計算違いをしたと。作者には分かっていると思いますが、それが表現として観客が見たとき訳が分からないものになってしまったと言うことでしょう。
●構造が出来ていないから、展開がよく分からない。やはり、最低限、なぜ家出したのかということはどこかできちんと状況を明らかにすべきだろうし、冒険をもっともっとしないと題名の意味がない。そのためには、独り芝居は苦しいので、みやこと母も出す必要がある。そうして、夢オチは本来禁じ手であるんだが、それをあえて使うならばもっと徹底的に夢の不条理というか脈絡のなさ、繰り返し、理由もない場面転換、たとえば教室の隣がいつの間にかスーパーだったり自分の家だったり、時間や空間がまるっきりズレながら繋がる感じ。見知らぬ登場人物と一緒に行動したりとか、そういう特性を徹底的に使うと、夢というよりは、不条理の悪夢という感じが出て冒険の名に値する。
●たとえば、同じシーンが少しずつずれてループするとか、母が色々な自分に敵対するものとして現れてきたり、都が協力者やいつのまにか敵の手下になったりとか、しかもそれを説明なく展開するとか。語り手の視点がサツキからいつの間にかミヤコになるとか、あるいは、最後に目が覚めた時に、実はそれも夢の中で(いわゆる夢から覚めた夢)、さらに、その夢はサツキではなくてミヤコが見ている夢で、しかもそれが冒頭のシーンに続くとか。終わりのない悪夢という感じにすると、実に冒険っぽくなるだろう。組織ごっこはその意味で捨てがたい。父の写真のエピソードもそのまま捨てられてしまった。この父への思い、多分もうなくなって母子家庭だろうけれど、その重いが母との間をぎくしゃくさせているとか。材料を組み立て直すというか整理し直して組み立て直すと、たとえば家族の再生とかいうテーマが浮かび上がるかもしれない。全体を通すメインのラインをつくれば自ずからまとまりが出てくるはず。基本的に冒険なら、主人公があちこち移動しながら次々と事件に出会わなければいけない。なによりも、なぜ主人公は冒険に出るのかが明確でなければ行けない。あえて家出をかくしてもいい。徐々に明らかにする手もある。訳の分からない敵が次ぎ次におそってくるし、訳の分からない遊びを強制されるしと。不思議の国のアリスや鏡の国のアリスのような感じで処理すればずいぶん違う。鍵は不在のお父さんの謎でしょうね。再度挑戦してみてください。行き止まりの洞窟のはずが、なんかのきっかけで別の世界へひらく、と、そこは・・・とかいうと夢オチでなくても良くなります。お母さんが首をちょん切っておしまい!と叫ぶ女王になってるってのはなかなか面白いと思うのですが。


上演3 鳴門高校『十七歳の夜』
●尾崎豊の曲にインスパイヤされた作品。え、今時尾崎豊っすかと現役顧問に聞いたら、いるよー、入れ込んでるの、でも登校拒否よといわれて、納得したんだかしないんだかやれやれです。ともあれ、今も通じると言うことですね、多分。
●中退したもとクラスメートの誕生会を学校でやろうというかなりごと強引な設定。当然二月の午後六時。夜だでよ。つう微妙な設定の中で展開される迷える子羊たちのドラマ。
●開幕。装置が面白い。観客席の方向が広がるハの字型に展開する机と椅子のボリューム。舞台奥が教卓という設定。かなりごと計算された装置。悪くはないが、登場人物は当然向こう向けに座るから会話するとき身体をひねってしなければならない。横座りにすればいいのだが、机と椅子の数が多すぎて、いろいろと不自由そうだ。向こう向けに座ると顔が見えないのもちょとイタイ。
●台詞の言い方に波がある人、身体が揺れる人、下向いてしゃべる人、ちょっと類型的なパターンに陥ってる俳優が多い。気をつけなければ。特に台詞の言い方は厳しくチェックしないと、本人は多分無意識の癖になっている。変なリズムが生じて、表現を邪魔するので他の人がチェックしてあげるように。やり方は簡単、目を開けていると動きに惑わされるので、目をつぶって台詞だけ聞くことに集中するとすぐ分かります。波にはいくつかパターンがあるから、あなたは、台詞の時こういう言い方をするんで気をつけるようにと。
●冒頭部、二月の夜6時頃。辺りは暗い。女生徒がビラらしきものを机に配置している。後の伏線の動作。そこへ買いもの袋もった男生徒登場。明かりをつける。なぜかお菓子などを買ってきているらしい。女生徒慌てて退場。男生徒ジュースやお菓子を取り出そうとするところへ、明かりがついたのをみただろう見回りに来た担任。慌ててジュース類を隠して、担任と進路について少し話す。尾崎豊に心酔している生徒。大学行かずに東京で夢を追いかけたいと言う。あきれた担任、早く帰れよと去る。残された生徒ここで本を出して、やおら尾崎豊の歌詞を読み出す(実際には部分的なメモとのことだが)。
●ここまでの展開は悪くない。冒頭の女生徒も思わせぶりだし、担任の登場で男子生徒の行動原理がはやばやと設定できている。担任がその話を引き出す振り方がややわざとらしいけれど。何月生まれだとか、あと4ヵ月で18歳だなとか。普通は、18歳とかなんとかは言わないでしょう。卒業まであと一年しかないぞとかはいうけれど。まあ、これはその後に出てくる話題の下敷きと言うことはあるんですけど。
●男生徒が読む尾崎豊の詩の「壁づたいに歩けば」が中心テーマになっていくのだが、ここではそこまで分からない。でも、17歳の地図のこの文言が前振りとしてはなかなか効果がある。
●置き忘れていた携帯電話が鳴る。慌てて探すところへ、また独り買いもの袋抱えて登場。携帯は先ほどの女生徒のものと分かる。さてどうするかで、新しく来た生徒(この生徒の本である)が本に気づき、そこから17歳の地図、さらに家出なのか離婚なのかよく分からないがいなくなったこの生徒の父の話、あるいは進路の話になる。先ほどの女生徒やシャーのコスプレをしている生徒や中退して本日17歳の誕生日を迎える元生徒も加わり、夜の誕生会が開かれる。が加わりというふうに展開していく。いろいろ遊びもあるがその中でだ何段に明らかになるのが、いろいろと迷っている17歳の自分たちが18歳というやがて来るべき未来にいったいどう対峙するのかというテーマである。
●高校生にとっては18歳は高校三年生、社会へ、大学へ、専門学校へとある意味放り出される前の最後の学年である。進路に直面してどうしようか悩み、挫折を体験してしまう年齢でもある。友だちの17歳の誕生日の夜、やがて来る自分自身たちの17歳の朝に対していろいろ思いを巡らすのは当然のことでもある。そういう意味で、この作品は、高校生の通過せざるを得ない一つの関門に目をつけているといえる。
●テーマの肝は、尾崎豊の文章を引用した中の「壁づたいにあるけば」である。題名の17歳の夜、困惑して迷っている登場人物たちの象形でしょうが、身もふたもなく言ってしまえば、一晩寝たら18歳の朝です。否応なく、18歳の朝は来るんです。では、17歳の夜の中にある少年少女たちはどうすればいいんでしょうか。ここに作者は来年の参議院選挙から適用される18歳選挙権を組み込みます。単に、個人の生き方だけでなくて、それが社会との関わりで問われることを考えるために組み込んだといえます。まさに、今でしかできない脚本です。ビフォワーです。1年後はアフターですね。むしろ、そちらの方がよけドラマチックですが。
●18歳選挙権を考えてもらおうと、生徒会の手先(^_^;)のこのビラ配布とか、生徒か一様の登場とかいろいろありまして、いつの間にかそれを考えるという雰囲気になる。進路から社会を考える方向へ変化していく。中退して今は働いている生徒を登場させてのもその狙いがあってのことだろうと思う。みんなえらい。前向き。というか、ちょっとご都合主義な感じもある。
●壁役の大人の担任も抑圧的かと思いきや、意外にものわかりがいい。前向きに皆、いろいろと論点をいろいろ検討する。ここらあたりは、ごめんなさい。嘘くさいです。選挙にいくかいかないか、まあありがちだけど少し公式的。啓発映画の感覚だと思いました。
●基本的に未来は白紙で、地図があるわけではない。歩いた後に、それも壁伝いにおっかなびっくりあるいたその足跡が地図であろう。高村光太郎の道程を思い浮かべる。ナビケーとしてくれる航路図などあるはずもなく、あると思うのは錯覚で、白紙の未来を歩むためには、まさしくただ壁伝いに歩くしかない。今の現在をかくじつにして、少し先へ足を伸ばす感覚かな。真っ暗な迷宮で壁に片手を当ててあるきながら出口を探す感覚。そして、それは30年後の47歳お父さんに「今も壁伝いに歩いているのかな」という台詞に続き、若者も大人も、人はすべからく「壁伝いに歩く」しかないんだと言っている。かっこよくはないが、かっこいい。
●ラスト。教師が(書道部の顧問という設定)なぜか、筆と墨を持ってきて主人公に、今おまえは何を歌うつうて、ここに書いてみろと。いや、かくはいいんだが、それが布で上から降りてくるというのはないのではないかと思う。実際に墨痕淋漓とかかせばいい。そうあるべきだと思う。
●なにをなすべきか、なにになろうとしているのかというぼんやりした焦りや不安や悩みは表現できていると思う。もっと、それを突き詰めていけば良いと思う。若干表面的すぎた感があった。




上演4 脇町高校 『会議』
●別役実「会議」より、と言う副題で分かるように元の長大な原作を味を損なわずねコンクールの尺に合わせたテキストロジーの力は並ではない。労力と力に敬服。戦後70年(原作では30年)を記念し、社会に対する民主主義思想の浸透を調査する、それには、民主主義思想とはなんぞやというと話し合いや、会議、つまり我々が持つ《会議本能》であるからして、今からその実験を通して検証すると称するなにやら怪しげな心理学研究所の所員と称する女性(原作では男性)が登場。会議本能を刺激してそれを観察すると主張。自然に本能的に行われるべきで、そのため監視カメラと隠しマイクでただ観察するのだとしょうし、作業員たちに指示して会議の場所を設営し始めるのだが・・・。言葉のレトリックで、会議がなかなか始まらず、やがて会議そのものが崩壊していく、言論そのものがなりたたず民主主義が形態だけはそのままに内実が死んでいく、現代の社会そのままな不条理的空間が出来ていく怖さがある作品。何せ、憲法無視して忙しいから会議しないよ、私らかってにやるからそのつもりでっていうお国ですから。
●幕開け。やや下手よりに電柱。途中で切れている。省略かな。でも、本当はきっちりつながっていてほしい。電柱より上手よりに上から黒電話の受話器がぶら下がっている。コミュニケーションの象徴だろうか、ブラントしているので不安定でもあり、きれいいる感じもある。ただし、もう少し下の方に垂れ下がっているのがいいかなと思う。
●作業員たちが設営するために、無駄話をしながら会議用テーブルを持って現れる。ビニールのレインコートみたいなのを来ているが、制服のつもりであろうか、雨が降っているわけでもないので正直この衣装の意味がよく分からない。もう少し乾いた感じのする作業着が良いかなと思う。
●台詞の出しかただが、ちょっと思わせぶりな出し方をする人がいる。どこへ行き着くか分からない不条理さを醸し出そうとしているのだが、それはちょっと違うのではないかと思った。思わせぶりな怖さはホラーだけれど(一概には言えないが)、からっとした明るさで、今何をやっているか分からない混迷を表現した方がいいと思う。もつと乾いた感じでだしたらと思う。立ち位置ちよっと狙いすぎか。いかにもっという感じをあたえてはいけないと思う。研究員はもっと確信を持っててきぱきとしゃべる感じが欲しい。やがて、それは混迷していくのだから。
●会議を崩壊させていく、詐術的な言葉のレトリックは、「相手の片言隻語を捕まえての揚げ足取り」「問題や話題のすり替え」「一間根拠のありそうで実はないいいがかり」「非を認めない居直り」「いったん終わった話題の蒸し返し」「同じ話題の繰り返しやループ」「あれする あれでよとかいうあいまい化」「些細なことをつっつき全体を見えなくする」などなど。だんだんと徒労感が強まりイライラしてくるが、それが使われることばが普通の生活言語で小さい言葉。私たちが普通に、お互いにコミュニケーションする共通地盤が崩落していく感覚。だんだんに脱線していってねじれていく。それも、登場している善意であると思われる人たちのお互いの言葉がねじれる。言葉の意味や語られていることをいったん立ち止まり吟味して遮断するべきは遮断したら良いのだが、別方向から詐術的ロジックを仕掛けられると、ふっと誘導され、それに乗っかり、議論は漂流する。こうした、善意の無自覚さは徒労感を含むいやな雰囲気というか空気感を醸しだし、それに毒された形で追随していく人々はやがて積極的に会議を破壊していく。意識的な分たちが悪い。さらに、どうも最初から悪意を持っていると思われる登場人物(女5と男2)が意図的に絡みいわば言葉の表の意味が剥奪され、だんだんと不穏で凶暴な意志が浮上し支配される。観察者であるべきはずの研究員ががんじがらめに成り最後には指弾されてナイフで刺されて殺されてしまう。ちなみにこのときの照明説明的で不要だと思う。登場人物たちは、いわゆる責任感のない凡庸な悪に成り下がる。しかも自覚はない。
●悪意のあると思われる女5は刺した男(男2)をどうして止めなかったかと皆に対してそれこそ不条理そのものの居直りをする。根拠は「この人(指された研究員)が私たちを絶対に刺さないって言い切れるんですか?」というむちゃくちゃなものだが、「絶対に」という、それこそ絶対に否定できない魔法の言葉で押し通す。いわばシステムだ。「いいですか。ここでは何もなかったんです。」と会議の簒奪と死を宣告する。どっかの国と同じく会を開かせない意志があるかのようだ。唯々諾々と従う人々。
●ラスト、残された人たちは、我に立ち返る。魔が通りすぎようなものだ。会議もなかったあんな人たちもいなかったというものに対して、そうではない私たちは知っている、会議はあった。あの人たちがやってきて人が殺された。いまここでもう一度話し合う必要がある。私たちにあるのはここだけだ。ここを失ってはいけないと会議を開くところで終わる。だが全員ぼんやりと顔を上げる。多分、通じるかどうか分からない受話器を見ているのかもしれない。で、終わるのだが、原作では「顔を上げ、一瞬ふと厳粛となって・・・」で終わる。ちよっとしたト書きの差だが、ぼんやりとしたままでは、単なる行き先不明の不安感でしかないが、「ふと厳粛となって・・」の演技が入ると、まだ頑張って対峙し続けるという希望が少し出るのにと思う。それとも原作から40年たって、今はもはや、われわれはぼんやり見上げるしかないのであろうか。
●総体的に言って、台詞や動作に思わせぶりな感じが目立ち、いかにもと言う感じがお芝居を重くした。台詞自体がイライラして徒労感が出るように組み立てられているから、もっとたんたんとやっていいと思う。その方がより自然に観客の心にイライラ感や徒労感が生まれる。台本の力に俳優の台詞や身体の表現力が、健闘はしたがついて行けない部分が目立った。

上演5 城東高校『我ら、テスト撲滅委員会!』
●使われていない体育倉庫で、来たるべき生徒総会で、テスト廃止の緊急動議をして、生徒総会ジャックを敢行、テストを撲滅すべく蒸し暑い夏に陰謀(?)をこらすお話で結構
楽しい。
●ただ、その楽しさの要素が変なキャラクターを持ってきたところに負っていて、あまりその方向性に走ると、台本の構造ときちんと絡む必然性がない場合、会話や話が不自然になりやすい。つくりものの感じが強くなる。この作品の場合類型的で少し変態キャラ?をあえて創っている。怪しげな宗教を創始したというかはまっている生徒、ポケモンオタク。成績トップで虫がとーっても苦手な生徒、陸上で県一位の実力者。キャラが立ちすぎて単なる役割になっているが、ここままでやるとマンガチックで楽しいかな。あまり勧めはいたしませんが。
●幕開け。色々グタグダ置いている体育館倉庫。もう少し配置を工夫して、秘密基地あるいは砦のイメージを出しても良かった。照明暗い中。生徒のガヤ、生徒総会終了の声と、それに「ちょっと待ったー」で明るくなり、テストをなくそうとテスト撲滅委員会のアピールで始まる。
●オーバーな演技、変な発声、ぐねぐねうごく身体。もう少し普通にしてもいいかなあ。キャラを無理して創ろうとしている感じ。とりあえず、波がある台詞の出し方はなんとかチェックして直しましょう。語尾がすーっと消えたり、ぶつ切りで出したりするのも。全部台詞にへんなリズムを作り出します。他の人が目をつぶって聞いてやると分かるのでチェックし合いましょう。コミカルな感じを出そうとするのは分かりますが、力がいりすぎると逆効果。すーっと力を抜くこともしてみては。
●反対にまじめなことを話し始めるとスピード落ちたり、下向いたりでただ暗くなる。どうも、演技するときこういう心情はこういう言い方や演技の仕方でという固定観念があるようにも見える。それは類型的な演技です。自分の本当の演技ではない。借り物になります。胸に手を当てる演技や、足を少しはたかって立つ立ち方、立ち位置のバランスを考え好きでいることなどパターン化の一つでしょう。

●テストを撲滅する理由が肝なんだけど、壁役の生徒会長にプレゼンをするという仕組みが、今ひとつ生きていない感じ。テストの本質というよりも勉強するしないの話になっている。生徒側に立てばそうなるのも無理はないとは思うが。
●それは、テストの定義が作者の中で定まっていないところから来るんだろうと思う。多分、学力の物差しのテストというイメージで書いていると思われるが、もう少し、幅の広い意味で使われることば。運動の場合の説得の仕方に典型的に出ているが、理論的なものは勉強したら能力は伸びるということで、テストとは全く関係なく、むしろテストはその後で、たとえば他者との競争という形で出てくるだけ。テスト反対という理由にはならないから、そもそも一から話にならなくて、会長さんの論理に一蹴されてしまうだけ。
●会長もその意味ではテストを学力的なものとしてとらえている。能力を測る上で一番公平。その能力は勉強。という台詞で明瞭。対してそのテストが計るのは勉強だけで、本当の才能は測れていないと成績トップの生徒は言う。本当の才能なんてのは計れるものか怪しいと思いますが。第一才能の定義は?ということで、日常の生活言語レベルでの「テスト」や「能力」「勉強」を捕らえているので、厳密な定義があるわけではなくて少しずつズレがあるわけです。お互いのもつそれぞれのイメージずずれているままで会話をしてもすれ違うだけです。まあ、当たり前ですが。
●正木の論理もテスト廃止とは繋がっているようで繋がっていない。勉強したいがする時間と経済的余裕がないということ。では、テストをなくしたらそれが解消されるかというとそれは全く別の問題になりますね。
●要は、社会での評価の問題と、学校内での成績評価のテストを直接リンクしたから微妙なズレが商事、お話の焦点がずれていったということになろうかと思います。発想が面白いんで変に理屈つけるんでなく、とにかくテストされるのが生理的にいやなんだと、わがまま理屈で押し通して、もっとばかばかしく創った方が良かったのではないかと思います。エビザル教をもっと徹底的に体系づけて狂気を入れると面白そう。
●ま、テストと勉強することは少し違うんだと言うことの認識に至るのはかまわない。当たり前のことだから、自分が進んでやる趣味の世界のことを考えてみたら分かる。テストがは必要ない勉強の世界が広がる。ま、余計な~検定とかでランク付けしようとするものもいるが。
●やはり、もう少し、なぜテストが必要とされるのか、それは本当に必要かというところをもう少し突っ込みたい。でないと、ラストのニュースが本当に生きてこない。
日替わりメニューぐらいにころころ変わるテスト方式に翻弄される生徒の目が生きてこない。テストされる側でなくて、テストする側に立ったときどうするのかという視点があれは゛ふかくなったことだろう。たとえば公演の時キャストを決める場合、オーディション形式でしたりするが、それはテストではないか。また、このコンクールは四国大会出場のためのテストではないか。では、コンクールやめろというのか言わないのかとか。
あるいはテストがあるから勉強できるというテスト依存と言うべきものをもっとつっこんみるとか。
●ラストはちょっと引っ張りすぎた感があった。話が大体終わった後はちゃっちゃと幕を下ろした方が良いだろう。


上演6 城西高等学校 『新生竹取物語』
●行きて帰りし物語、しかも家出と富岡東と同じパターンだが、こちらは竹取物語を絡めてファンタジーの過去とリアルな現在との行き来のお話。
●幕開け。舞台中央にベンチが一つ。やはりちょっと空間が広すぎて手こずっている。基本的にベンチのあたりで芝居をしているので、移動が大変。空間を狭める工夫がいる。
●台詞の出し方が無理矢理絞り出すような感じで苦しそう。大仰な演技も、いつも起こっているような出し方も再検討の必要がある。
●二つの世界の切り替えのシステムはなぜかぽこっと出てくる『お守り』。お菓子をベンチの隙間に落として、それを探してるうちに出てくるんだが、少し苦しい。そのお守りと、登場人物に関係性が明示されてないからたまたま拾ったお守りの中身をのぞいたらワープとか、やや無理筋。お守りの中身を見るのは罰当たりとか言ってもめる内に破れるのだが、今の若者にそんなな感覚があるのだろうか。ちょっと疑問。それ以前の設定では、別に違う世界に行かなくてもいいようだけどなぜかいってしまう。というのはちょっとご都合主義かな。まあ、竹取物語出すためには仕方ないとしても。このあたりの設定の工夫が必要だと思う。
●竹取の翁とおぼしき人にであうんだけれど、その際の台詞の言葉が安易。昔の人のようでいて実はそうではない。まあリアルな昔風のしゃべり方などは出来ないわけで、平安時代という設定の人だし。しかし、「最近の若者」とかいうふうな台詞はないだろうと思う。時代色をきちんと出したいのなら、もう少し言葉を工夫しなければならないだろう。ドラマや映画で平安時代をえがいた作品(もちろんその頃の言葉そのままではないのは明らかだが)をみて雰囲気作りを考えよう。
●翁、台詞の語尾が伸びる癖がある。年寄りらしさを出そうとしているかもしれないが。籠だけでなく籠の中に竹やタケノコの作り物を入れておくとか、農具を持っていいるとか(これは木材で作らないといけないかも)それらしい小道具があってもしかるべき。にぎりめしを包んでいるのは何だろうとか(竹の皮につつまれていたらいいんだけれど)、かぐやの人形はこけしかいとかしかもちいさいしとか、翁の家庭での衣服はゆかたみたいだなぁ、とか、使用人が帰ってくるいえがこれまたむっちゃ広いとか、ひたすら、こけしの頭なでていたなとか、いろいろ突っ込みどころがある。もう少し、丁寧に作り込まなければ。
●会話のテンポがあまりよろしくない。台詞を待ってただいっている感じ。
●脚本の設定の問題だろうが、どうもこの作品世界の構造がよく分からない。単純にA現実と、Bファンタジーとしての過去との行き来と思っていたら、変な台詞が出てきて混乱した。翁と出会った後で「怪しい人物」が登場しかぐや姫の代わりに心の病気にかかっている翁を助けてやれといって羽衣(?!)を渡す。これを着ればたちまち月のように美しい美女となるだろうと言うのだが、「帰る家、ないんでしょ」とか「帰りたくないんでしょ・・知ってる」とかのたまうのだが、これはどうしても主人公を現実の世界で知っているものの台詞としか思えない。しかも、ファンタジーの過去の内情もよく分かっている。ということは、この「怪しい人物」は、過去と現在の二つの世界の上位にあるもう一つの世界にすむ、すなわちいわゆる神の視点に立つ登場人物としかいえない。で、もって次に。
●翁の家に行ってかぐやとして翁に対応する主人公、このあたりのアホらしさは楽しいが、使用人がいて、その使用人が「ねえ、そこにいるんでしょ。何であなたがここにいるの」と、過去に同じく紛れ込んでいる現代の友だちをみつけ、語りかける。当然現代の友だちの素性も知っているし、いて欲しくなかったという。あなたがかぐやにならないのと友だちがたずねると、使用人はそれは最終手段とのたまう。何でしょう、このSF的展開。神の高みに立つ、怪しい人物や使用人は、タイムパトロールか、世界の管理人か?うーむわからんと思いながらみていると、翁は私もつかれた。おまえもつかれただろうから帰れという。「誰かを巻き込んでまで逃げていたいかと言っておろう」という。ああ、やはりこいつは時間か次元かは知らないが逃亡者で、竹取物語の妄想を利用してここに隠れていたのか。その時空を作り出していたのが「お守り」か。しかしなあとよく分からない。
●友だち(望月)と「あやしい人物」の関係もよく分からない。腹の探り合いみたいな台詞を交わすが。「あやしい人物」が「お守り」を渡して去る。現実への帰還。
●結局のところ、背景となる世界観が書き込まれてない分、人間関係の怪しさというか、よくわからなさが浮き彫りになって、結局何をしたかったの?という作品になってしまった。作った人は分かっているだろうけれど、それが表現として観客に伝わらないのでは、観客を置き去りにしてしまっていると思われても仕方ないだろう。ゆるーい雰囲気はそれなりに出ていたのでその点は評価するが、いかんせんこういうストーリー系ではもう少し緻密な構造を形にしてださないと辛い。


上演7 池田高校 世界の謎ともうひとつ(既成)
●今大会、唯一の既成脚本。脇町高校の「会議」が翻案扱いだったので、既成はこれ一つ。徳島は創作脚本率が法外に多いのだが、顧問創作はともかく、正直生徒創作は辛いのが多い。あえて、創作でなくても優れた既成脚本をやるのも十分意味があると思うのだが。もっとも既成脚本の選択には結構罠があり、どうしようもない脚本を選ぶのはまあ、そもそもアウトだが、自分たちの演出力、演技力とちょっとレベルが違う作品を選んだときもなかなかに難しい。レベルがあったときが最も成果が上がるが、まあそんなことはなかなか判断できませんからね。ともあれ、生徒だけでやっている部活、既成脚本のいいなーとちおもう脚本をやるのもいい選択肢だと思いますよ。
●で、もって選んだこの脚本。クイズ選手権を場として、題名にもあるもう一つという人間の生き方はなんだろうよという結構おおきな問題を疾走感とテンポでなんだかうやむやに納得させるような脚本。うーん、そんなことではちょっとねと言いたいですが、それはともあれ。
●で、そういうことは、脚本レベルであって作品としては別で、ようは疾走感がまずはなくてはならない。とりあえずクイズの臨場感ですか。演技的に言えば全体的に発声に変なリズムがあってテンポと疾走感を邪魔する。リアクションがあまりよくなくてちょっとなんだか。台詞の出し方も変なリズムがある。語尾が上がる。台詞のラストが下がる。二音節めが上がる。よくあるパターンだが集積すると結構辛い。全体的にテンポと疾走感を殺してしまう。
●えーと、台詞を言うとき、片足が浮いている方がいました。基本的にはこういう姿勢は自信がない時に出てくるのですが、気になりますね。どうらーせよと言われても困るのですが、きっちりたつのは意外と難しいと言うことです。
●まあ、基本的に疾走感が面白い。というかそれだけといっては酷な台本だけれど、逆に言うとそれを表現できればよいと言うことにはなる。走っている今という感じ、説明もあまりないのはよろしい。ただ、エピソードの組み立てが、疾走している分わかりにくいけれど、説明的であるかなと思う。「ものには名前がある」と登場人物のひとりがちょろっというし、題名からてらしあわせると、世界をいかに認識するかのお芝居のように見受けられる。ま、もう一つというところが、生きている自分自身のポイントであろうけれど。
●そういう意味で、テンポがあるようでなかったなと言うのが正直なところです。
●クイズという、いろんな世界の現象の知識を問う現象を扱うことにより、私たちの今を問うような作りだが、クイズは当然単なる知識で、世界と対峙して生きていくちからとは関係ない。スフィンクスのエピソードが核心だがそれだけでは作品世界を支えるにはもろい構造だろう。
●いろんなエピソードの組み立てが疾走するための道具として使われる。「名前を聞こう」「名前をつけよう」という台詞に現れる、世界をいかに認識するかという意識が先鋭に現れるが、ではその世界はどのようなものであるかがよく分からない。台本的には実はそれはどうでもいいことで、とにかく挑戦する営みを疾走感で表現するのが目的かもしれないと思った。
●名前もない世界をいかに生きるかというのがポイントではないかな思うし、それはラストの方の台詞の「わたしたちはほんとにむだなことをしているかもしれません。。でも知識とか知恵とか人間の創ったことを大事にしたい」、ラストの台詞「でも、なぞは続いていて、世界は謎に満ちています」という台詞で表現されている。
●そういう脚本の仕組みはともかく、俳優がその世界を支えきるにはすこし厳しかったかもしれない。ラストの「謎は続いていて、世界は謎に満ちています」という台詞をきちんと言い切れたかどうかは少し疑問。ごめんなさいね。負担が多きかたと思います。ひと言、脚本家には、やかましいわと言ってやりたいですね。
●脚本の品質と、上演する俳優たちの品質がうまくあえば相乗効果を上げます。この舞台は、少し齟齬があったのではないかと思いました。どちらが上と言うことはありません。微妙に合わなかったのではないかと思います。


上演8 徳島市立高校 『18%未満
●題名秀逸。スクールカーストに縛られて息苦しく生きざるを得ない三人の女生徒たちが、彼女たちを圧迫する不在の生徒をそれぞれ語ることにより、彼女たちを巡る人間関係の息苦しさと情況その中のちょっとした希望を丁寧に描いた作品。
●台詞の組み立て方と言い、構造の組み方と言い、力のある作家だと思います。俳優たちもよくくんれんされててそれぞれの役割をきちんと果たしていると思いました。ちよっとテンション高すぎてコントロールできていないかなと思う人もいましたが、おおむも、水準を遙かに超えていたと思います。でも、なんですよね・・・。
●開幕。作り込んだ舞台装置が圧倒する。生徒会室の閉塞感。前面に滞る風船の量。おおっと思うのですが、ちょとうっとうしいというか、動線が不自由だろうなあという思い。舞台をきっちり狭めて、への字型に室内を構成。前方に風船の量があるから、俳優の動けるスペースはあまりない。善し悪しであろう。閉塞感は圧倒的にあるけれど。
●脚本の構造は、作りすぎるほどがっちりと作られている。生徒会。生徒会長のいわば支配するスクールカーストに従属する三人の生徒会役員。文化祭を目前にして、不在の生徒会長から指令のあった風船を明後日までに作らねばならないという、時間制限の枷がかかった作業に直面しているという構造。ちなみに事前に配布された脚本の台詞と違い、本番数量ががっつり増えていた。まあ、そこまで増やさなくても大丈夫とは思ったが。
●しっかりした構造が組み立てられている。1.不在の会長をそれぞれ三人の会話から組み立てる。よくあるパターンできっちりくみあげれば直接出すのよりもその造形をより組み立てられる。2.制限時間の設定。文化祭に使う風船を明後日までに用意しなければならないという、タイムリミットの設定。これもよく使われるパターンで、四国の某県の高校はよく使っていましたね。とにかく便利です。でもって、そういうとき必ず遅延の構造が出てきます。というか使います。くだくだいうてやらないやつ、外部から干渉があって遅れるとか、まあ、ちゃっちゃとやって作業が完成したら、身もふたもないですから、なんとかして遅らして、その間ドラマを継続しようというあざとい構造です。何回か見たら、けたくってやりたくなります(*^▽^*)。ちゃっちゃとやれよなと。今回、登場人物のひとりがけつこうやる気がなくサボタージュしますが、はいはいというところですね。使い古されたパターンなので使用には要注意かと。まあ、徒労と思われるその条件の下で制限時間が設定されて、作業をしなければならない、というだるい状況の中で反抗する本音を出しやすいのはある。
●でも、気をつけなければいけないのは、構造がお芝居を固めて図式化してしまうこともあり、お芝居の展開を意外に不自由にしてしまいます。まあ、その反面がっちり組み立ててグタグダにならない安定したお芝居にすることが出来るのですが。
●どういうことかというと、三人登場人物がいますので三人の雑談から基本的に不在のスクールカーストの頂点の人物の造形描写が三方向から浮かび上がる予定なのですが、三人の雑談からでなくて、それぞれの始点からの描写ということになりますと、どうしても三回の繰り返しとなるしかないことになります。パターンの繰り返しですね。少し陳腐になります。そうして、この台本では、それぞれの生徒が、それぞれの生徒ではなくて、スクールカーストの生徒に成り代わって台詞をいう構造にしています。しかも三回。これは、他者の会話から本人を浮かび上がらすのではなくて、本人に成り代わってしゃべっているわけですから。三回も本人がモノローグを言っていることと変わりありません。これは、説明です。他者の言葉で浮かび上がらせるならばそれを徹底した方がよかつたと思う。直接的に言ってしまうとなんだかなと。また、厳しいかも分かりませんが、それまで別の役を演じていた俳優が成り代わったとき同じ呼吸同じ演技でやるのはやはり変だと思います。やるなら、変化しなければ、といっても困難な課題ですしあえて重ならせてやったようにも思えます。それならそれでもいいんですが、観客としてはそこまでは感じ取れないかな。
●更に、繰り返しとともに、装置的にも動線が狭くて不自由なので、同じ動作、風船を膨らましながら破裂するまでという(三回目は破裂ではなかったが)動作の中で台詞をしゃべるというパターン化に陥らざるを得ない。このあたりも惜しいなあと言うところ。
●構造をきちんと計算してかっちりと組み立てた分、それが逆に災いして自由度を減らしたというか、過度に閉塞感を強めてしまった感がある。微妙なところだけれど。いたずらに閉塞感をつよめると、観客は息苦しさしか感じない。それが目的だといえばそれまでだが、少し、その空気を逃がした方がいい。装置の組み立てとか、脚本の構造とか、そうでないとただ、ひたすらに見るのが辛いお芝居になってしまう。そういうお芝居、リアルであればあるほど観客の共感というか見る辛さを減らす工夫が必要になると思います。
●カーストの下位の生徒たちの自己認識。18パーセント未満・・果汁の割合。ネガティブだが、濃すぎるからそれぐらいでいいやという感覚がリアルだとおもうが、ちよっと切ないですね。20パーセントの酸素濃度よりしたになると、酸欠になる。ほとんど酸欠状態な女の子たちのリアルかなと思う。それでもその中で生きていこうとするのがけなげではある。その先があまり明るくはなさそうだが、風船を膨らませる範囲で行けそうな可能性を暗示している。それがリアルさを醸し出しているし、救いではある。


上演9 城南高校『牙と修羅 旅は道連れケモノ連れ』
●闇飛脚牙走り習い汰河と、南蛮屋敷に幽閉されていた雪之丞コンビが、襲いかかる敵の追跡を受けながら、江戸から京まで東海道を駆け抜けるロード・ムービー的エンターテインメントのお芝居。
●まずは、高校演劇で時代劇をそれもまじめにエンタメ的な作品として上演し続けるのはなかなか出来ることではない。その継続的な努力にまずは敬意を表す。
●このような作品の場合要求されるのは。まずは波瀾万丈ストーリーのおもしろさ。裏切りに次ぎ裏切りで誰が真の悪の黒幕か分からない、観客への裏切りのストーリーが作れるかどうか。 主人公・ヒロインの魅力があるかどうか。何よりも、悪役の魅力が大切で、悪に魅力ないと薄っぺらくなって興趣がそげる。殺陣のおもしろさと完成度も要求される。もう少し、シリアスっぽい殺陣が欲しいところだが、安全性を考えるとやむを得ないところかも。ただ、殺陣は要はあたかも舞踊のように、動きの華麗さやスピード、静止の緊張感、等々きっちりした様式美が必要とされる。なかなか訓練して見栄えがするまではかなりの時間がかかるから、世代交代していく高校生にある程度の水準を保たせるのはなかなか容易ではないと思われる。もう少し、腰がきまらないと辛いかなというところも散見。江戸時代での武家の衣装、、実は着物は胴長短足で腹が出ている人の方が様になる。現代の長身でスマートな高校生がやると、特に男は衣紋掛けに着物を通している感じがあり貧相に見える。腹に何か巻くなどして着物を着たときのたち菅にも注意を払った方が見栄えがする。今回の作品では、殺陣がいずれも平面で行われている。色々工夫して、頑張っているけれど、高足などを利用して、階段などを設置して、高低差を利用した高さの殺陣があるといっそうはでばでしさがます。時代劇は殺陣があってなんぼのものと言うところもあるし。
●衣装とか、装置とかなるべく派手やかに質感をだしチープにならないように。もっともお金の面で困難なこともあろうが。そのあたりをけちるとちよっと辛いところがあるから工夫してみてください。
●ストーリー的には、なかなかこっていて、伴天連は出てくる、人狼は出てくる、転び伴天連の悪役はいる、あやしい尼僧はいるわ、吸血はあるは、しかも、それぞれの関係が入り乱れている。何となく昔の新諸国物語を思い出してしまった。「紅孔雀」とか「八幡船」といっても分からないだろうなぁ。むしろ60分の尺ではまにあわない、てんこ盛り状態。多分きちんとやれば、2時間半から3時間くらいは必要だろう。必然的に飛び飛びに場面を繋がざるを得なく、間をいかにもな時代劇的音楽で繋いでいくしかなくて、どうしても説明的にならざるを得ない。場面転換がやたら多いので、どこの場所か分からなくなる危険性があるため、めくりを使用していたが(まあ、場面の説明ですね)、この位置はもう少し、舞台中央よりでもよろしいのではないか。ちよっと外れすぎていてうっかりすると見落としてしまう。
●細かい点でははてなと思うこともあった(たとえば家を田畑を売り飛ばしてもなかなか百両にはならないんじゃないかとか。短銃の音がちょっと江戸時代じゃないなとか)が、フォースみたいな超能力を発したときの殺陣とか、川越のしょうもないギャグとか、変身シーンの処理とか、川越の波や本を燃やす炎の小道具(これには感心)けっこう隅々まで目をくばっていたように思える。ずっとやり続けているだけに、手慣れた構成である。
●髪がほとんどそのまま現代のままだったり、裸足でやってたり(殺陣が滑るので安全性のためと聞いた)はもう少し工夫が欲しい。転び伴天連の悪役は衣装が伴天連っぽさをいかしたやつだとなおいいかな。
●地獄門を開く、大事なシーンだから装置も欲しいし、もっと作り込んで欲しいところ。要は、ビジュアルにもうすこし力を入れて欲しい。財布と相談ですけれどね。
●楽しめる、あるいは愉しまさせるためさらなる疾走感と観客サービスを期待します。

 
上演10富岡高校『CVS Capriccio』
●コンビニエンスストアを舞台にして、息苦しい壁に覆われている現代日本の情況を撃つ作品。
●もはや、都市部における(田舎町にもあるけれど)インフラともいえるコンビニを舞台にした着眼点は良い。消費社会の端末に、行き来する日本人の今をとらえる舞台として選んだ着眼点は評価されて良い。
●幕開け、監獄ロックにのせて、デッキブラシを持ちながらダンスする、色彩豊かな衣装の人々を背景で圧している、ほぼ舞台一面を覆う段ボールの壁。このビジュアルの存在感は良かった。あ、でも、ダンスもうちょいがんばって欲しいかな。
●基本的に台詞の作りが台詞と言うよりはシュプレヒコールです。出し方も言いっ放しでただ情報だけを一方的に発信する。コミュニケーションではなくなって、対話ができない。これでは限界があるし、役者の身体性がもったいない。単なる道具にしかならなくなる。このような表現方法は逆に台詞にそれほどの意味があたえられなくなり図式が表に出てくるだけだ。
●むしろ、ミュージカルとして組み立てていった方が、役者の身体性を行かせるのではないか。身体性を先行させて、それに台詞を載せていくほうがまだしもましなのではないかと思ったまあ、かなり面倒な作業になることは間違いないけど。。
●構成上、消費社会の象徴のコンビニの情景とイイタイコト政治的あるいは社会的なことのシュプレヒコールの組み立てとなっている。それらを論理的なつなげる努力が必要であろう。
●情報をあたえすぎてもそれを観客が消化できるとは限らないのでそのあたりの計算が必要。
●対話型といってはおかしいが、その部分で語られる情景は壁の内側の平和と安定、および、進撃の巨人よろしく、壁に攻め寄せてくるものへの不安である。もちろん、それは現在の日本が置かれた状況とリンクする。
●この作品の眼目は、壁の段ボールを使っては壊し、壊しては形を組み立てる作業と、様々な身体訓練的な運動である。カラフルな衣装が、それらを明るく見せ、肉体的動作と台詞の連動を愉しませる。両者の関連に全く意味がないところが良い。これらももっと訓練すればさらに効果があるだろう。ちよっと無様なところもあるが、もがきあがいている姿だと思えばそれなりに表現として意味はある。
●ダンスと音楽が多用されるが、効果があるところもあり、そうでないところもありと。場面転換などに使うと意外にダンスに意識が引っ張られ、シーンのつなぎ方の意識が遠くなる。場面がばらばらになる逆効果もある。特に有名な曲を多用しているのでそのイメージに引きずられる。難しいところです。
●コンビニをメインにしているのがだんだんずれていっている。もう一度コンビニに収束させ、それらすべての情況をひっくるめ、コンビニは売っているという風に落とし込んでいった方が良かった。コンビニを介して社会風刺や批判を徹底させた方が良かったのではと思う。いろいろな小ネタがありすぎて情報のオーバーフローをおかさないようにもっと絞って、対話の場面を増やしておいたらと思う。


上演11 城北 『さらに、めっきり噓めいて ~Love & Peace~』
●息苦しくじんわりとした抑圧感が蔓延する時代に、大きな声でもなく、激しい抵抗でもなく、ただ静かに、だが深く強い意志と柔らかではあるが凜とした姿勢で世界とあくまでも対峙し続ける営みを続けていこうとする人々を描いたお芝居である。
●選んだ題材がなんと「祈祷部」。想像力をかき立ててくれる仕掛けというか道具立て。おお、それなら呪い専門の裏祈祷部、実は生徒会副会長直属の闇機関「イノルンジャー」と文化祭予算の争奪戦で数々の暗闘を続けていくとか下らんことを考えたりするが、もちろん全く違いますが、見る側の好奇心をちくちく刺激して能動的に見てみようという意欲を引き出す仕掛けと言って良い。もちろん、突飛なだけでは駄目で、それだけだと単なる受け狙いの設定に過ぎなくなる。そういうのは結構多い。そうではなくて、テーマやそのお芝居の核心的部分と密接に繋がっていなければならない。ここでは、祈祷部はこのお芝居のコアとして設定される。
●「白菊によせて」の歌に乗せて開幕。歌については後述。薄暗いなかパネルで囲まれたエリアがある。蝋燭型ペンライトを身につけた四人がゆっくりと無音で机などを運び舞台を設営していく。世界ができた。四人はエリアを囲み静かにたたずむ。あたかも世界を見続けている何者かのように。ただ、ちょっとペンライトの光が弱く点のようにしか見えないので世界を見続けているという感は弱いかな。暗転。というふうに舞台を創るオープニングというのはわりとよく使われる手法だが、静かに、しっとりと運ぶ動作や見続ける姿勢に緊張感があるので確かな落ち着いた感じをあたえる。ま、エンディングで世界を解体するだろうと予測もつくかもしれないが、いわばプロローグ、エピローグという構造でしっかり囲んだともいえる。
●明転すると、パネルに囲まれたエリアに世界ができている。特に台形(底辺が客席側)ににエッジを切った光のエリアがあり、舞台の広さを殺し、パネルと相まって観客の視線を集中させる効果があった。
●部室のようで二人の生徒の会話が始まる。背の高さがでこぼこな(先輩が背が低く後輩が背が高いというのは偶然だろうけれどいい感じになっている。逆だとちょっとまずい)いい具合に力が抜けたこの会話の呼吸が良い。特に先輩役の俳優の台詞の出し方や呼吸が抜群で、鍛錬の成果が見られる。会話の流れは、最初祈祷部という部であること、御祓い加持祈祷はしない、祈ってるだけという二点が明らかにされるだけで後は、特段のこともない日常のなんてこともない会話がしばらく続く。この柔らかい空気を醸しだし、全体のベースを創る会話はきわめて重要で俳優の力が十分でないとなんか単なる手続きになってしまうが、しっかりと演劇的な世界の素地を創ることができていたと思う。なかなかやるのーというところ。
●で、そういや今日はスーパームーンね という台詞をきっかけに徐々に核心部分へ近づく。ただ、そういや というところが、それまでの話題に比べてすこーし強引な感もあった。ソフトランディングできるつなぎがあればさらに気づかれないうちに核心部分に観客を誘導できると思う。まあ、許容範囲ではあるけれど。●やがて、ヘビの話になり、靴箱で死んでいる白いヘビ、白ヘビは神様だ、とか、干上がった池で野鳥やカラスに殺される魚の話とかが割合無駄なくテーマの伏線として語られていく(もちろん観客にはこの時点では伏線とはわからない。ただ、日本の縮図とかいう台詞がちょろっと出て暗示はされる。)。そしてそれはあまり深く追求されることなく、別の話題へするりとうつる。ここらあたりのさりげなさはじつはなかなか書く側にとっては難しい作業で、どうしても深く書き込みたくなる誘惑と戦う。書き込みすぎるとこの柔らかい空気をかき乱すので、ここらあたりの呼吸はうまいと思う。
●準備ができたので、いよいよ、祈祷部ということの核心へ。祈る。毎日。それが祈祷部。よく分からない後輩の問いに対して先輩は答える。後輩は、何のために祈るのかと問い、祈るのはなかなか大変だと思う、だから先輩は普段の些細なことではなくて大きなことのために祈ってるのではないかと問う。それに対して、違うと否定し。ただ耳を澄ましているだけという。ささやきを。神経を研ぎ澄ませてただ耳を澄ます。(霊的な声はささやきでしょうというところで 霊的な声 というのは完璧な説明であるのでできたら別のことががいいかなあと。観客に教えてしまってはちょっとまずいかな。霊的ということばは大きい言葉ですのでもっと小さい言葉に。)後輩のぼけぐあいというか初心者ぐあいのものいいが割合に「祈る」ことの説明臭さを和らげる効果があった。
●先生登場してやんわりと祈ることを控えてもらいたいといってくる。この先生役の俳優がちょっと幼い感じをあたえたが、押しの弱っちい先生役としては意外にあってたかもしれない(*^▽^*)いくつかやりとりした後、こんなこといいたくない という先生の台詞に対して 「なら言わないでください」というせりふ。なら できって間があり 言わないでください と強く言うが、この先輩像からしたら、静かにだが強い意志で言うところで、強く言わない方が良いだろうと思った。ちょっと違和感の出る出し方です。
●先生退場。スーパームーンが出てるが高さがちょっと微妙に低いかなあと。ブルーの背景に月だが昼間とは分からないもっとも昼間の明かりにすると月は浮き出ないし痛いところだが、約束ごとして処理するしかないですね。ま、仕方ない。
●さてそうした圧力に対して先輩はちゃんと抗議しようと思う。私たちのやっていること、意味のないことにしたくない。こういうときにいい子ちゃんしてたら、流されてしまうわよ。という。まさに流そう流そうとする圧力と情報に覆われている現在のあり方にきっぱりとあらがおうとする決意であろう。それに対して後輩の戦います、私も戦いますは少し強すぎる台詞かもしれない。
●で、もってその方法は問うと「心の位置を高く持つこと」これだけではよく分からないので、多分観客も?になるから当然説明するわけだが、そのままれは実は甲だというのは単なる説明台詞になるから、いったん後輩に「呪い」の方へ話を振らせ、道真の逸話を展開することでその意味を説明しようとする。つまり別のベクトルから攻めると言うこと。ここで、後輩の歴女という伏線が役に立つ。
●でも、呪いでは面白いけれど解決にはならない。意外にここで後輩からそのビジョンが歴女らしい仏像を蝋燭の明かりで見る体験という形で提示する。一方的に先輩が語りすぎるとやはりアウトであるからだ。
●蝋燭の明かりで見ると言うことは、冒頭の蝋燭型のペンライトで世界を見守る4人の人(中国の四神獣、朱雀、青龍・・を思い出したがこれはもちろんキャストがその人数だったと言うことでしようがなんか暗示的)と重ねているだろう。後輩ははかない、薄暗いそのあかりの中で、仏像を見ることにを通して容易には見えない世界の有様を見たのだろう。明るく平板で明確な蛍光灯やLEDで見える世界は分析的で何も影がない。でも、世界は損な明るさの中にその姿があるのではなく、創られる影の中にその本当の姿がある。私たちはその本当の姿に対して祈っているのである。あたかも池に映した月に対して祈るように。ゆらゆら蝋燭が創り出す影のなか仏像へのいのりは、仏像の背後に存在するものへの祈りである。というわけで、冒頭での(あるいはラストの)ペンライトは蝋燭型であっても本当はちよっとね。生火を使いたいところだがそれこそ消防法に引っかかるので厳しいですね。
●先輩が語る母のエピソード。長台詞になるが十分に支えていた。その中で本当に祈りを必要としているのは死んだ母ではなくて、生者である私なのだという認識を語る。たたり神も荒ぶる魂も人が創る、だからちゃんと祈らないと駄目なんだと。祈祷部の本質が明らかになる。心の位置を高くもつという意味も。供養ですね。
●後輩の超高齢のネコの話が出る。ヘビを加えてくるネコである。どろどろした怨念を感じるという。魂が鎮まらない。シロという。ではシロのために祈りましょうと祈る。
●静謐な世界が静かに立ち上がってくる。何が起こるというわけではない。先輩と後輩のは二人の俳優が正対して無言でただ立っているだけである。ただ立っている。ややうつむきの目線で。結構長い間何も起こらない。やがて、次第に深いところから静かに立ち上がってくる認識と意志と思い。無言と言うより静寂の演技である。俳優に内在する力だけが世界を構築していく。それは、舞台をおおいやがて観客席にしみ出していく。癒やしと言ってもいいし、ほっこりすると言ってもいいが、そういう手垢にまみれた言葉では言い尽くせない柔らかい何かが静かに舞台空間を侵食していく。結局は俳優の力が演劇を成立させるのだと言うことを如実に示した瞬間である。
●みやさん登場(どうやらネコの化身らしい。みゃおという。そういえば私の家にも昔みゃおとしう美猫がいた。)三人で廃部になった演劇部に対して祈る。みやさんヘビをもってきている最初に伏線としてでてきた靴箱で死んでいた白いヘビ。シロと名付けている。入れていた段ボール箱がちよっとかなという感じ、やや大きいような、段ボールがこのお芝居にむかないような、まあどんな箱がいいかと言われても困るが。ちよっともやもや感。シロヘビは神様の使い。荒ぶる魂とならないために祈る。誰がために鐘は鳴る。そは何時がために鳴るなり。という台詞が、先ほどの生者のためにこそ祈りがあるのだと響き合う。
台本の最後の方の台詞がカットされているが、これは正解だろうと思う。カットされた部分で、祈祷部がはいしされるだろうかとか、さいごまでいのりつづけようとおもうだとか書かれているが、エンディングの白菊の歌とその決意は重なってしまうのでくどくなるし、第一、そういう決意はもう語られている。あ、雨。という台詞で十分だと思う。「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、 私は、今日リンゴの木を植える」という言葉を思い出すが、登場人物たちは祈り続けるだろう。それが世界と対峙する方法である限り、、自分に誠実である必要がある限り。いつの間にかデッドラインを越えないために。そうしてたとえばネコやヘビに対して祈るという日常の営みで祈る行為を持続させることというずいぶんと困難な営みになるだろうと言うことを予感させる。登場人物たちは、ただ、困難な世界を生き抜くためにそれを選択したと言うことだ。まあ、上演意図に合ったように君が代をラブソングとして供養した実力がある祈祷部だから原発供養もこのいかがなものか状態の現代もそのパワーで供養し倒してくれることを期待しますね。
●やがて、舞台は解体される。冒頭の蝋燭型のペンライトの4人が静かにたたずむ。いわば死者たちが今の私たちを見守っているというような構図で余韻を残して幕。白菊の歌に頼りすぎの感がなきにしもあらずだが、ぎりぎりのところセーフかな。やはり鍛錬された俳優の力が支えているからだろう。いずれにしろ、観念的なテーマ、世界認識を割合うまく日常の中にソフトランディングさせた作品だと思う。四国大会更に磨きをかけて頑張ってください。
 

上演12 富岡東羽ノ浦『ファンタジジー』
●老人病棟、おそらく認知症の患者が中心だろうと思われるが、その病棟の日常を舞台に実習生たちがある老人の妄想(あとで事実だつたらしいと分かる)と絡めて、老人の死と体験を通して、看護への意志を強めるシンプルな作品。
●幕開け、しっかりした病棟の装置が圧倒。よく作り込まれている。実習生や患者看護師たちが雑然と行き交う日常風景が手際よく展開される。生徒創作ということだが、手慣れた場面描写、自然な台詞をうまく使い、様々に人々を行き交わせることで作品世界に無理なく観客を導入していく手際はなかなかに侮れない。
●もっとも、スケッチ風になりすぎているところもあるが、それはそれとして、説明的な台詞がほとんどないのがいい。全般的にことさらに劇的な言葉は書かれていない。日常のいわば小さい言葉を使い、ことさらに理念的な大きい言葉をほとんど使用しない。唯一、劇中に出てくる詩が例外と言えばいえるがこれは許容の範囲だろう。改稿をずいぶん重ねて、説明的な大きな言葉を削っていったのではないかと思う。よく努力して書かれているし、書き慣れている証拠でもある。
●さて、この作品も不在の人(四宮さん)を描き出す。最も入室している病室は舞台上にあるが、扉の開閉はあっても奥は見えないようにしているので、観客にとっては不在の人である。以内人の人生を描き出し、それにどのような共感を抱き、その感情はどこへ行くのかというところだが、作品は、その老人が抱いている妄想らしいエルドラード(黄金郷)を巡って展開される。それをぬっと出さずに、たとえば登場人物の複雑な出ハケが、計算されてあまり気にならないのと同様に、話題が細切れながら、それが少しずつ集積していいく。こ出しに組み立てていくことにより、わざとらしさが軽減される仕組み。
●そうして、妄想はレクリエーションの劇中劇として結実するわけだが、実はここで問題が二つ出てくる。二回でてきて、最初の一回目は練習している設定。一つはこれが、長すぎる。あとで看護師にあの子たちは何しに来ているんですかと嫌みを言われるのだが、言いたくなるぐらいに長すぎる。作品のバランスを壊している点も問題だが途中ちょっと飽きてしまう。二つ目は照明を変えてファンタジー世界の雰囲気を出してしまったこと。まあ、小道具や衣装も色々出てくるし雰囲気出したいのは分かるし楽しいんだが、でも待てよと。ファンタジーとしてはいけないのではないかいと。これが四宮さんが場に出てきて、四宮さんの妄想の内部の情景であるならそういう処理はあり得る。でも、実際はそうではなくて、実習生たちが練習をしているリアルの場であるということ。このお芝居は本質的にファンタジーであってはいけないお芝居だと思う。リアルの側にある看護師の目からの日常を描くわけで、ファンタジーにしてはまずい。従って、照明はそのままで普通に稽古したほうがいい。場面自体は結構楽しめた。ただやはりちよっとくどいかなぁ。も少してきぱき短めがより効果的だったと思う。
●さて、看護ものにお約束のなんで看護師になりたかったかという話も出てくるが、ここらはも少しきっちり伏線になるし、わざとらしくない程度に真剣なやりとり欲しいかな。ちょっと逃げている感じ。
●老人がつぶやいた詩が良い。「月の山々を越え、影の谷間を行き、大島馬を乗りすすめよ」と影は答えた「おまえがエルドラードを求め行くならば」。人は結局皆すべて死ぬ。その人生が報われようが報われまいが死ぬ。しかし、残されたものたちに、なにがしかの生きる勇気をあたえることができたら、それはそれでよしと言うべきではなかろうか。この詩にあるように雄々しく馬を乗りすすめよ、お前がエルドラードを求め行くならばであろう。若いときは誰もエルドラードを探し人生に乗り出す。やがてつかれて、いつの間にか自分自身の中で忘れ去り死んでいく人々が多い。結局、生きる勇気が摩滅して、いつしか、すべてそれらは妄想の海の中に消え去り、死ぬ。それが結構大方の死の形であろう。でも、このお芝居は、そうではなくて、最後まで生きる勇気を持って馬を進める、それが十分に生きたと言うことであろうと言っている。勇気をあたえる言葉ではないかと思う。
●ここらあたりまでお芝居は問題ありながらも快調に展開していた。このあたりから、事前に渡されていた台本を改稿したのか、演出で変えたのか分からないが流れがおかしくなった。残念。まず、、二回目のこんどは短くなった妄想の本番。こんどは短くしすぎてなんだか意味がよく分からなくなってしまった。何のためにここに入れたのかが見えにくくなっている。詩をもう一度読む。これも不要。念押しでくどくなる。更に孫まで説明してくれる。ラストに流れる曲、それはそうなんだけどベタな歌詞で説明だし、テレビドラマの主題歌かよと。狙って出したのだろうか、でも、それでは、ごまかしみたいになってしまう。これまでのお芝居できちんとやっていた内容の上書きみたいなことに成り、結果的に説明でしかなくなる。すべてよかれと思ってやったことだろうが着地点で台無しになってしまった。多分分かりにくいのではないかという不安でわかりやすくしたのだろうが、裏目に出てしまった。それでは、この作品はこうなんですよって押しつけることにしかならない。もう少し観客を信頼して良いと思う。改稿するなら、最初の稽古のシーンを短めにすることと、病院風景がスケッチになりすぎてるので、自分たちが看護への道を志望したことについてどう考えていたのか、実習してどのように感じたのかをさりげに加えて、四宮老人の死の後はさりげにしょりして、いそがしい病棟の仕事のスケッチで終わらせた方が良かったと思う。説明は出来るだけ避けること。とりわけラストでは致命的になります。
●ともあれ、水準以上の脚本と俳優たちがシンプルな構造をよく支えていた。救いと勇気をあたえる作品だと思いました。



上演13 板野『Role 夏の終わりに』
●定番のちょっとピンチな演劇部もの。先輩の進路や後輩の関係を軸にして、部活動をどうつなげていくかをテーマにした作品。
●演劇部の稽古場。なかなか広い稽古場を持っているようで、広さをもてあましている感じ。もう少し狭めても良いと思う。狭める工夫は前出。
●最初の方、シチュエーションの説明のような台詞が続く。もう少し工夫が必要かな。ここで語られる演劇部の人間関係とか事情は、観客にとっては初めてのことで、理解するために必要な情報であるが、登場人物たちにとっては周知のことで今更ことさらに言わなくてもみんな知っていることがほとんどである。ということは、語り口というか、雑談の仕方、出し方にもう少し注意しないと、説明のための台詞となる。微妙なところだが、雑談的な会話ばかりで繋いでいくとこういうことになる。身体を動かす場面を絡めるとたとえば履歴書をかいているという行為がでてくるけれど、そういう不自然さは軽減される。
●履歴書の志望理由はさすがに受け狙いが見えすぎて不自然でしょう。というか、そういう狙いが透けてしまうこと自体がまずい。面接練習もそう。
●タミオが後輩たちの説得に屈して舞台を任せるまでのあたりの展開が少しもっさりしている。もっとテンポ良くして、さてどうなるかの部分を増やすべきだろう。
●変なところで台詞をぶつ切れに言う癖が見られる。間も変というか、単にあいだをおいただけという感じで対話の呼吸の間ではない感じ。
●雨の音の意味が見えない。ザーザー降りでこの後の予感を表しているのだろうか。
●後輩たちだけの稽古でのトラブル、これは逆に破綻するのが早すぎで、あまりにも見え見え。というかここから後の展開が浅い。というか、稽古してないんですけれど。
●第二場就職したOBとタミオの会話、まあすなおといえば素直だけれど、すこし分別くさすぎる先輩がやや嘘くさい。ちよっと都合がいい役。何のために登場したのか(学校へ来たのかが分からず、この役が抱えている問題も不明)、ただタミオにアドバイスっぽいことをいうだけ?
●三場 まだ一波乱あるだろうとおもっているとそのまま、ほのぼのしたラストへ。いやいやここで大団円へ至る事件とその解決がなければ、終わろうにも終われないんだが。
●演劇部の現場で夏の終わりにもっともっと波乱があってもいいんだが、ほとんど事件が起こらない。悩みが深化していかない。すのこの意味もあっさるスルーしてしまう。
焦点がぼけている。引退していく先輩の気持ちに焦点をあたえて演劇をする意味を考えていくとか、後輩たちの自立を明確にしていく過程で演劇する意味を考えるとか、どちらかにもう少し焦点をあたえて作品を掘り下げてもらいたい。OBの扱いがお助けマンみたいに都合良くならないように。それぞれの主体が考える構成にしないと。
●たとえば、これもありきたりと言えばありきたりだが、後輩たちで稽古している場面を何かの台本(そのために書いてもいいし、この作品の一場面を抜き出してやってもいいし)をやっていて、その中でお互いが角突き合わせて一度、部活動が分解の危機になるという
オープニング、あるいは後輩がやってるところへ来てつい先輩が口を出して気まずい場面になるとかから始めると、緊張感もあるし、なんとかしなきゃという意志も出やすい。そこへ、OBがやつてるかーとのんきにやってくるとか。履歴書とか面接練習とかはあとで出すという形。早めに問題の焦点を明らかにすると、どこでこんがらかせるかとか、どう解決するかとかのラインや構造がしっかりしてくる。それぞれの役割をそれぞれが自覚する物語のはずだから。焦点をもっとはっきりとした方が良い。そうして、ラストはやはり冒頭のお芝居を後輩たちがきちんと取り組んでいるところで幕にすれば首尾一貫してすっきりすると思う。

上演14 海部高校『なんにもない』
●前校と同じような、進路に悩む演劇部ものという同じく定番ものといえる作品。よく扱われるテーマだけに、どれだけ特色をだせるかが勝負。ただ、演劇部という縛りをもう少し強くした方がいいかな。
●開幕、幕をうまく使い空間を狭めている。広さに苦労していたところは参考にしてください。ホワイトボードや。椅子やボックスや机等々いろいろ舞台を飾って演劇部の部室風景を作っている。台詞のやりとりが自然で普通に芝居をしている感じが良いし、方言を使ったところも日常感を醸し出して良い。
●進路に悩む話なのだがゴキブリの雄雌見分ける仕事というこういうネタはなかなかにリアリティーを増す。
●構造上寸劇を使った仕事のイメージセッション的なシーンがちよっと長いような気がする(先輩と絡んでも含めて台本全体の半分近くになっている)。まあ、遊びに徹しているといえばいえるが。ワンパターン的な嫌いもあるのでもう少し工夫が必要かも。
●先生が出てきてからの展開も同様かな。卒業式の寸劇で教員のかんどうをかたるなど、 これをいれるとほとんど寸劇してる。構造としては今少し弱い。
●題名のように『なんにもない』生徒たちが、いわば流れでそのまま進路を決める。というか、それで決めなければきめられない皮肉さ。ほぼ 全編遊びに徹したともいえる。面白い構造だが、その場合、もっと皮肉な視点や台詞があっても良いと思う。対比的にまじめに進路を模索している登場人物が置かれるとさらに、『なんにもない』状況に追い込まれている登場人物が余計浮き上がって批評となるノだが、そのあたりが薄い。ありすぎる選択肢を前にいわば途方に暮れ、逆になんにもない、そう意識せざるを得ない生徒たちのあり方がもう少し強く浮き上がればよい。その意味では先生志望の生徒を最後に作らなくても良いのではないだろうか。まとめてしまう子はないとも思う。
●あるいは先生の造形を考え直した方が良いのでは。理解がある良い人だが。むしろ、進路にリアリティーを持たない生徒たちに対して、無理矢理でも進路を迫る大人たちの代表として造形するとか。最初から目的意識きちんとしてて、何あんたら今になってやってんのとかいう嫌みな生徒とか、主人公たちと違う立場を持つ登場人物が必要だろう。そうすれば、遊び倒している主人公たちの葛藤やいらだちがより浮かび上がるし、『なんにもない』状況がリアリティーを増してくる。と思う。つつけば更に面白い可能性を秘めた作品だと思った。


上演15 小松島『PM4:10から』
●題名がいい。「から」と言うのがみそ。放課後は生徒の本当の姿が見えやすい。進路部付属の自習室っぽい空間に、いろんな生徒が出入るする中で、進路を巡るそれぞれのそれぞれの想いが交錯する作品。
●進路の悩み やはり生徒たちにとっては目の前の生活だからリアリティーを感じるのだろう。なかなかにまじめに取り組んだという感じがある。ギャグ的な要素はあまりおもしろくないというか類型的かな。全体的にまじめに取り組んでいるところが好感が持てる。●幕開け。装置が結構舞台を規制する。壁はあるわ、机や椅子や、ちり箱はあるわドアはあるわ。とどめに前の長机。ちよっと不自然。この長机の前には空間がないという設定(多分壁がある)で、実際にも進路部に付属しているこういう小部屋は狭いのだが。その狭い空間が演技者の動線を制限して苦しくした。そんなことしなくてもいいのに。空間を狭めないとという意識がかえって芝居を不自由にしている感じ。とりわけ、長机の前に見えない壁を設定したのは見ていてきつい。
●オープニングの進路指導する先生のキャラクター、ちょと恫喝的でやくざかよと、そこまで戯画的にしないでもいいと思う。面接練習の生徒たちのおちゃらけギャグ、前の上演校でもあったが、やっぱみんな同じになるんだな。もっと面白いネタ考えようよ。
●全体的に会話がなんか暗い感じなぜだろう。台詞の出し方か。口先でぺらぺらしゃべるのも気にかかる。ドア線との関係もあろうが、必要あって自然に動くと言うよりも、単なる移動をしている感じをあたえる。

●一場 たんたんと流れる。人間関係とそれぞれの進路の課題の紹介。二場でやっと衝突する。でも、そこへもっていく話のラインがちょっと。勉強している人を前にあれこれくっちゃべる役者たち。これって、やや不自然。衝突を引き出すための挑発としか受け取れない。このあふたり一工夫必要。三場ふたたび衝突。でもそれらの衝突がそのままほとんどスルーされていく。恋愛模様も、うすくからみ時間が流れる。いわば、進路を中心にした 生徒の空気感みたいなものが浮かび上がるのだが、その空気が薄い。濃くしなければならないというわけではない。それはそれでうっとうしいだろうし、みんなそこまで本音は言わないだろう。ほうかごでも、やはりみんな仮面をかぶって自分を演じているはずだし。そういうわけではないが、ドラマ的にはやはりちょっとものたりない物足りない。
●特に何が解決されたと言うこともないのは悪くはない。あまり肩に力が入らないスケッチ的な小品。題名の『から』が生きている証し。ただそれがリアリティーを生んだかと言われると、先生の造形をはじめとして人物像が類型的でやや薄いのがイタイかな。
●悪くはないんだけどねーという感じ。一応お芝居にはなっている。でもね、という感じ。こういうのが一番始末が悪いです。要は、お芝居の組み立てがある程度わかっているけれど、私たちにしか出来ないことができていないタイプ。難しいです。アドバイス。も少し、脚下照顧。自分たちの足下を見直して、分析して、ちよつとこれは違うかなと言うところをみつけてほしいと言うしかありません。けっこうむつかしいけれど、うまくみつければダイヤモンドの原石見つけたと同じぐらいウホホな成果をあげることが出来ます。これ絶対です。頑張ってください。


上演16 阿波『2016』
●Aの世界からBの世界へ行きて還りし物語。だがこの芝居で行くのは登場人物ではない。見ているあなた、すなわち観客である。かなりな荒技。で、もって世界を移動する手段にして水先案内人となるのは、幕開け、閉塞感の漂う壁にけだるくもたれるセーラー服の死人である。立ち姿の存在感が圧倒する。二つの世界(この芝居は現在と過去なのだが)を結びつける構造上の仕組みはいろいろあるけれど、教師の思い出の形をとってはいるが実質として死者をその手段としているのには意表を突かれた。
●観客の現在は2015年、で、芝居の教師が語る過去は30年前。80年代半ばか。と、考える。色々あったなあ。ん?でも、なんで題が「2016」だろうかと思う。芝居での現在は2016。現実の観客の現在と多少の誤差はあるが、芝居の現在は現実では未来だ。多分、このわずかだが時間のズレがテーマと関係するだろうという予感がする。
●そのうち、チェルノブイリの放射能雨の話が出てくる。ソ連のチェルノブイリの原発事故。1986年4月に起こり5月には日本に降った雨から放射能が検出された。おおっ、芝居時間の現在と30年前だ。セシウム137の半減期30年とぴったり重なる。2015ではなくて2016でなければならない設定の必然と、今現実現在の観客である私たちにとってごく近くではあるが、どうなるか分からない未来であり不安が題に立ちこめる。
こういう、なんというかデリケートな構造がなかなかくせ者。深読みかもしれんけど(*^▽^*)
●題名はほんとに大事です。徳島市立の題名もそうです。お芝居のテーマの核心部が表現されなければならない。しかも、え?どう言う意味なん?とちょっとした疑問、心の揺らぎを起こさせるようなものがよろしい。観客の感動へつなげる第一歩。工夫する努力は惜しまないように。もっとも、事務的時間的関門にひっかかり、内容と、縁もしゃしゃらもない題名になっている某高校もあるが・・・。
●では本題。閉塞感漂う装置と書いたが、いわば校舎裏の空き地、校内からでる粗大ゴミが置かれ、荒廃感もある。ひところなら、ちょと体育館の裏まで面貸せやと怖いお兄さんたちに言われそうな場所。校舎、あるいはトイレのような建物の裏手とト書きにあり、高さが十分にある。この高さがないと説得力がうかがわれない。同時に特筆すべきのは二つの建物に挟まれたセンターの隘路。人ひとりぐらいしか通れない。現実の学校にはあり得ないこの狭さが装置の肝であろう。掃きだめのようなこの閉塞感漂う空間は、行き場所のない生徒たちの隘路の先の行き止まりの場所であると同時に、ある意味解放区でもある、いわばそこへの秘密の通路っぽい感じと同時に、閉鎖された空間の息苦しさから逆に外部への通路としての意味もあり、外へのつながりが確保されているという意味合いも持たせる。ただし、人独り幅につくられているようにそれは狭い回路である。
もう一つの肝は窓であろう。これも解放区と外との回路として使われる(突然壁がひらいて外界があらわれたりとか、テレビの画面になったりとか意表を突く使い方も含めて)。両方とん出ハケの必要性があるのでつくるのだが、窓から出入りとか、狭いところを窮屈そうに入っていくのは、普通に袖をはけるのとは違って、出ハケに演劇的な意味をあたえやすい装置と言うべきだろう。
●30年前を扱うとき、いったいどのように人物を配置したら良いか。もちろん、チェルノブイリはあるが、それが衣装着て歩くわけにも行かないだろう。ここであたえられたのが、今はほぼ絶滅した(体育祭なんかにはなぜか応援団でよく出没する)たんらんボンタンの番長風スタイル、セーラー服のながーい引きずるんでねーかと言うぐらいに長いスケ番。これは本当に正解。本当に学校の内外(主に外だった気がするが)に棲息していました。時代性を強調する記号としても、学校を表現する記号としても最適だろう。1985~86年実写版『スケバン刑事Ⅱ少女鉄仮面伝説』放映。南野陽子主演。なぜかヨーヨーが武器の二代目麻宮サキ(土佐の高知の青柳高校出身。もちろんそんな高校はございません。中学校はあります)が活躍する。ちなみに原作のコミック第1巻が発行されたのはさらにさかのぼること10年前1976年。花とゆめコミックス。「記憶にございません」「ピーナッツ」のロッキード疑獄の年だが、なぜかそいつが我が家にある。
くだらない餘談はさておいて 、他にも時代性の記号として役名や固有名詞の人名や音楽などが使われているがけど(検索してみてください)、やはり視覚的情報が一番大きい。と同時に、文化祭、あるいはバンド活動というのは30年前も現在も変わらない普遍的な記号であり、それらがうまくミックスされ学校という場の中の解放区で生きている、あるいは通過する若者たちの青春グラフティという世界をよく観客に伝えてくれる。もちろん、その背後に黒い雨があり、さらに我々の現在の索漠たる世界が横たわっているのだが。
●さらに、なかなかにたくらみがあると思うのは、1986年当時はさておき、観客のいる現在では、こうしたスケバンやツッパリの記号はどうしてもコミカルなイメージを含んでいる。だから、本来は陰惨なリンチシーンであっても、舞台上の光景を見る観客には、その凄惨さをある程度中和させて伝える働きがある。マジにリンチシーンをやられて、それがダイレクトに観客に伝わっていてはちょっとたまらない。現代のテレビドラマシーンのように。テレビなら、画面の向こうだが、舞台は生の目の前の光景であるから。そうして、コミカルなシーンではもちろんそのギャップ効果がより機能する。ところで、実によく皆タバコを吸う。そこまで吸うかと言うぐらいに吸う。そうして吸い方がなかなか堂に入っている( ̄ー ̄)。ちょと生徒部へ来なさいと言いたいぐらい。あ、別に吸う演技を減らせというのではないです。あまりに堂に入っているのでもしかしたらとか( ̄ー ̄)
●そうした、周りを固めておいてドラマの本編に突入するが。幕開け、けだるそうに壁に寄りかかるミーナの立ち姿の存在感はの大きさは何ともいえない。だれかが地縛霊だといっていたが、まさに1986年に囚われている姿は、誰にも見られない不可視の存在の何ともいえない寂しさをよく表現していた。台詞の出し方も素っ気ないが、それでいて、結構温かく、チャンドラーの台詞の引用があるからではないけれど、このお芝居はああ、青春グラフティーもさることながら、ハードボイルドでもあるんだなあと思った。そうしてまた、飛び道具的な破壊力をもつゴルジ体はじめ、明るくはじける演技者たちの身体性や風刺的笑いを含めるとかなり計算された多面性を持つお芝居であると感じた。スケバンたちのトラブル、背景で展開される文化祭のバンド、科学部の部員が示す(まあ、本人たちもうすうす疑念を感じてはいるだろうが)いわば展示部門の30年後の未来の明るい世界のコミカルな表現で明らかな嘘くささ。これらが絡み合って同時展開し、その本当のバックグラウンドに、チェルノブイリの原発事故のダークな世界がどんよりと横たわっている。若者たちは基本的に明るいが、それでも、極端に狭い通路や狭い空間にただよう閉塞感は否めないという結構複雑な構造になっていて、なかなかお芝居をしっかりコントロールするにはかなりの豪腕というか演出力が必要になるが、それをしっかり発揮していると思う。
●その証拠はいつにテンポの良さが見ていて実に気持ちよいと言うことにある。スピード感ではなく(もちろんそれもあるが)、展開される場面にシンクロする観客の気持ちの変化が生理的にここちよいテンポを観客の側が一貫して保ち続けることができる。これはなかなかできるようでいてできない仕事だなと思う。ただ、演技者たちのテンポがやや乱れたかなと思われたのはアメリカ編のあたり、つかれたわけでもないだろうけれど、ちょっとこちらのテンポも乱れてしまった。それをのぞくとおおむねテンポ良く観客の側のテンポをうまく誘導していたと思う。俳優がよく鍛えられていることはもちろん演出の力が全体のコントロールをきっちり最後までやりきっていたと思う。
●ただ、少し気になるのは、文化祭のバンドのマイクの声とスケバンのトラブルの実際の台詞が交互に交差するところ。当然、狙いとしては、バックに明るくポジティブなバンドの情景がBGM的に観客にひびき、その中で目の前の暗いリンチシーンが展開するというところだけれど、実際に舞台でやると、これはどうにも物理的制約で、バックの方のテンポとリンチの方のテンポがちよっとずれるというか、台詞と声が交互にいう関係で今ひとつうまくいかないと思った。単純には録音という手もあろうけれど、それでは不自然な間がでたり、台詞とかぶったりしてグダグダになりそうだし、なかなか難しいところだと思う。今のままでも悪いというわけではなく、リンチシーンのテンポで進んだ方がいいのだが、バンドの声がでるのを待っているという感が少し感じられるので、その感じを消す細かい調整が必要だろうと思う。
●で。もってラストシーン。雨が降ってくる。ぼろぼろのミーナ。壁にもたれるミーナ。立ち尽くす。2015年現在に移る。現在の生徒たち。雨が降ってくる。不安げに空を見上げ雨宿りをする生徒たち。ミーナには誰も気づかない。そうして、ミーナが前に歩き出す。この瞬間、1986年と2015年すなわち私たち、観客の現在が重なる。強い意志に突き動かされミーナが前に動き出す。そうして決して見ることができなかった2015年現在をまっすぐ前を向いて見るミーナ。やはり立ち姿の存在感がいい。さらに生徒たちも雨傘や雨を防ぐ段ボールをすてて。まっすぐ2015年現在を見続ける。2016年はまだ見えない。このくそったれでそれでいていとおしい、どうなることか茫漠として誰にも見通せないその先を見通そうとして。雨に濡れながら。というラストシーンなかなかにきっちりできていた。ミーナは見ようとしてみることができなかった2016年を見ようとして強い意志で前を見る。この瞬間死者(過去)と生者である生徒たち(現在)が重なり、未だ見えない2016年(未来)を見通そうと立ち続けるのである。そうしてやって来る2016年、さらに2046年を多分私たちは見続けざるを得ないだろう。もうこうなったら祈祷部にお祈りしてもらい供養するしかないですね。なかなかに重いテーマを軽やかにテンポ良く描いた作品で、脚本演出演技がうまくかみ合い成果を出したと思います、こちらも快調に見ました。お疲れ様でした。四国大会、ファイとっす。


《終わりに》
 最後に、全体を通して気になった点などを少し書いておきます。
●脚本、あるいは演出、演技で説明的になっていることがただ見かけられました。説明は必ずしも感動を生むとは限りません。生むのは理解です。何かが分からないときに我々の心はひび割れて動く。能動的になる。感動は能動的行為であろう。大自然に対峙して感動するとき、自然は説明しているか?ただあるがままの姿に対し、私たちが心を動かし、きれいだーとか、すごーいとか感動するのである。理解してこうこうだからああ、感動しなければとかいう風には行かないでしょう。感動してから、あとでああこういう風に心が動いたんだなという理解は出来る。脚本の説明的な台詞は確かに観客に情況を理解させて便利だし、全く説明がないとなかなかその世界へは入りにくいのも事実。でも、説明しすぎないことの重要性にもっともつと思いをはせることが必要だと私は思いました。★説明的台詞、説明的装置、説明的音楽(露骨にテーマをになう音楽使うとか、ま、あえて狙うというのもありますが)、説明的照明(危機的場面に赤を入れるとか)、説明的演技(暗い話になったらなぜかみんな下を向いてるとか)・・・・基本的にみんなアウトです。
●台詞を言うときに、変な癖がある人が多かったのですが、これはなかなか自分では自覚できないので他人が台詞をよく聞いてやってその癖を指摘してやると直るか程度は軽くなります。いわゆる台詞を歌うとか高校演劇節とか言われる癖を退治しましょう。語尾が上がる人、逆に沈む感じになる人、伸びてしまう人。ぶつ切りに台詞を言う人、第二音節を強く発音し、丁度「ヘ」の字のように台詞が鳴る人。あるいは逆にゆるい「U」字型に連続してリズムが波のように続く人。いろいろ見られます。登場人物ほとんどがこの癖をもっている学校など多分みんなが無頓着に台詞を出しているんだと思います。動きを伴う演技をみていると気づきにくいので、チェックする人は目をつぶって台詞を聴いてやると結構分かります。会話にその癖が出る人、長台詞にそういう癖が出る人などいますので、聴覚に集中して聴いてあげてください。視覚の余計な情報を遮断することでその人の台詞能力みたいなものがよく分かります。もちろん、間の上手下手とか、呼吸とかもチェック出来ます。お試しあれ。
●空間をうまく作りましょう。舞台の広さに苦戦している学校が多かったようです。普段の練習場所は多分教室ぐらいの広さでやっているところが多いと思いますが、身体や台詞の距離感がその空間になれていて。数倍広い空間では短時間に適応しきれないところが大半だろうと思います。無難なのは空間を狭めることですね。頑張って装置を作って空間を演技するに適宜な広さに狭めていた学校もありますが、お金や人や技術がないところは、富岡東の講評で細かく書いておきましたから参考にしてください。実際そこで書いた方法をあるいは組み合わせて上演しているところもありましたし簡単ですからね。
●創作脚本が大変多く、多分一番創作率が高い県だと思います。非常に良く書けている脚本が多いのですが、反面何を書こうとしているのかよく分からないものも散見しました。原因はやはり脚本の中の構造(材料のしっかりした組み立て方と考えられても結構です)が曖昧なものやなかには不明なものもありました。おでんの串のように心が一本通っているか、きちんとした組み立て方を(それはほとんど論理的と行ってもいいかもしれません)していないと、お芝居は迷走してぐずぐずになります。それをカバーするために始めに書いたような説明を入れたりするのですがそれはそれでお芝居の質が下がります。いっそ、 きちんとした既成脚本をやってみてもいいのではと思いますが、これまた、人数やなんやかやでなかなか見つからないのも事実。ネット脚本に飛びつくと大体ろくなものがなかったりします。やむなく創作に臨むのですが、生徒作品は特に体験の蓄積が世代交代が起きるためになかなか出来ません。顧問創作は書くたびに学習していきますから進化しやすいのですが。生徒たち自身でやるためには、アドバイスなり批評なりをしてくれる他者の視点がその支援になるのですが。徳島県には劇作研究会というのがあって、そういう支援システムとしてはわりあい働いていると思います。大体手の内をさらすのは抵抗があるのですから合評会のような支援体制が組み立てられているのは心強いところです。でも、なかなか一度や二度のチェックではよくならないのも事実でしょう。顧問だけでなく生徒創作が今後増えるとすれば、その支援の仕組みなど考える必要があるかもしれません。

 何点か書きましたが、実はいずれも基本的なことで、そんなこと言われなくても分かってるよと言われそうですが、それがなかなか出来ないのが事実です。四国大会レベルでもやはり毎年そのような舞台を見てきまして、おんなじことを毎年言って、でも直りませんでした。生徒たちだけで活動している学校に特に顕著に表れます。参考になれば幸いです。基本的なことができないとなかなか優れた舞台は出来ないんです。頑張ってください。

 三日間ハードスケジュールでしたが大変楽しい時間でした。お疲れ様でした。どうもありがとうございました。