●第36回四国地区高等学校演劇研究大会講評


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●【前説】 

 クリスマス寒波の中、寒さを跳ね返す熱い高校演劇の営みが繰り広げられた二日間でした。実際には4日間にわたりご苦労様でした。裏方を務めた生徒実行委員会の高校生諸君の真摯な取り組みに感謝いたします。補助審査員として9校の発表を観劇し、拙い感想ですが私見を述べさせていただく機会をありがたく感謝いたします。どうもお疲れ様でした。あなた方なくして大会は運営できません。私的に言えば演劇を成立させる大きな要素でもあるにもかかわらず、観客にはなかなか見えないところであるぶん、いわば100%こなして当たり前、ミスがあれば(▼O▼メ) ナンヤコラーー!!といわれる割りの悪い存在ですが、それであるからこそきちんとこなしていく姿勢が貴いと思います。運営はできて当たり前ですが、その仕事をきっちりと成し遂げた裏方のみなさま本当にありがとうございました。四国地区高等学校演劇協議会会長賞を、権限はないけれど謹んで差し上げます。ご苦労様でした。
 さて高校演劇OBとして審査に何年か携わり多々反省すべきことが多く、何回やっても講評はうまくいきませんね。所詮素人なんですが、それでも何年か部員と共に試行錯誤しながら苦しんだ経験からの原則を当てはめて判断しようとは思っています。演劇研究大会と銘打っている以上、演劇の営みに何か一つでも寄与する試みに対しては鋭く反応しようと思いながら見続けていますが、年取ると感受性が鈍くなるのかどうか見落としているところも多々ありそうです。それでも補助審査員を続けているのは浮き世の義理もありますが、何より、若い人々が、人生の限られた数年間の中で、どのように真摯に演劇という魔物に取り組んでいるかをリアルタイムでその場で体験できる、貴重かつわくわくする機会でもあるからです。逆に言うと、そのような試みがなされていないお芝居に対しては、どっと疲れが来ますね。老体にむち打ってきてんだからよこちとらは、せっかく、県大会の累々たる参加校の屍を乗り越えてきてんだから、ちっとはみせろよなー(▼O▼メ) ナンヤコラーー!!と。まあわがままですがそういうことも許されてあるかと。なんならいつけっまくってもいいんたやどと。なんせもう年ですから(*´д`)y-゚゚゚
 そういう、いわば大所高所つうかえらそな気分で観ていますと最近ちょっとばかし不満というかイライラ気分はありますね。なんか、ゆるいというかせこい。それは、ちよっとちがうんでないと。まあ、素人の部活動ですので、現実、そこそこまとめるといいとこまでいきます。部員たちは喜ぶし、顧問も満足、ついでに管理職も学校の評価になると喜ぶ。悪いことではないし、成果もついてくる、調査書に書けるしよいことずくめのようですが、そういう演劇でいいんかいと。演劇の意味をもう少しつっこんで考えてみる必要がありゃせんかと。
 はっきりいうと、成果の喜びは、演劇の試みを達成した喜びとはたぶん微妙、あるいはかなりちがうと思えます。コンクールが現実の課題としてある以上勝ち抜くことに意識の重点が置かれるのはまあやむを得ないところではありますが、どうにも、なんか「勝つための演劇」というのを意識しすぎでないかなと。それはたぶんかなりごと不幸なことではないかと。演劇部員に問います。あまりにも、勝負意識しすぎてませんか?
 演劇部は部活動ではありますが実は少し他の部活動とちがうベクトルを持っていると思います。いいことか悪いことかは一概に言えないけれど、それは芸術の「魔」のささやきに惹かれやすいこと。高校生の教育活動の一環とはいいながら、単なる教育活動を圧倒的に乗り越えざるを得ない誘惑があります。無から有を生み出す創造することの魔力ですね。これはなかなかやばい魅力があり人生誤ったという先輩を多々排出させる「芸術」の魔力です。他の芸術活動と違い己の肉体一つで全く思ってもみない世界を展開させることができるというのはこれはもうシャブどころの話でなく魅入られた人はまあ、ほとんど人生漂流しますわね(*´д`)y-゚゚゚
 演劇部員は学業に励む生徒であると同時に「表現者」です。またそうでなければ自覚的な演劇部員である資格はないでしょう。表現することは自己を解放すると共に、まったくちがう自己を創出するなかなか困難な営為ですから、ひとたびこの魅力にとらわれたら世界が全く変わります。でも、自分自身は生徒ですから、学校をほったくるわけにもいかず、学業との折り合いをつけながらやっていくしかありません。もちろん二律背反ではないですが、なかなかしんどい部活動だと思います。またそうでなければたいした成果はえられませんけれど。
 顧問の立場はまた微妙なところですが、雇われ顧問にしてもやりたくて顧問になったとしても、少なくても演劇というジャンルを選択した以上、「表現者」を追求するのが正道だと顧問をやってみた私は思います。単なる暇つぶしのなかよしクラブはいざ知らず、演劇という表現を追求するのは、スポーツクラブがそれぞれの種目の高見を目指すのとかわりはありません。
 そうするとき、何を目指すかはそれぞれによってちがうと思いますが、私は、演劇の本質に寄与する可能性を追求するしかないと思いますね。何が正しいか何が偉いかというようなのは演劇においてはあまり意味がなくまたわかりづらい。ましてこちらは素人が素人を「指導」するわけですから(わらっちゃいますけど(≧▽≦)彡)なおさらです。だからこそ、素人が演劇になんか寄与するものを一つでもなしとげたら、それは十分部活動としても、表現者としても意味あることだと思います。
 では、それはどういうことによってなしうるかというと、まあはっきりいってわかりませんけどね(*´д`)y-゚゚゚ それも無責任ですので、私の体験からいうと、それは「徹底すること」から生まれるものではないかと思っています。少し曖昧な言葉ではありますが、ようは、簡単です。定型や類型や安定に逃げ込まず、設定した問題を徹底的に掘り下げること。たぶんこの一点に尽きます。おそれ知らずの若い人だけがたぶんできることで、ほかのひとたちはいざしらず、私たちはこういう風に考えて表現するしかないんだという覚悟を見せること。コンクールはどうしても上の大会へ行きたいとということで安全運転をねらいがちですので、簡単なようで難しいんですけど、それをやらねば高校演劇とはいえんでしょう。だって高校演劇って、実は経済的なリスクもなく、観客もそこそこ用意されてるかなり幸福で至極恵まれた条件にぬくぬくしてんですもの。せめてそれぐらいやらなきゃ罰が当たるっていうものです。四国大会の背後には県代表になれなかった参加校の屍が累々と横たわっていますからね。意外とその中にすばらしい演劇が合った可能性は十二分にありますし。
というわけで、補助審査員の私としては若干意地悪い観客になろうかと思いました。
表現する側がどうしても安全運転に走るなら、それはちょっとちがうんでないかいという暖かい意地悪さ。表現する側と観客は一種の共犯関係にあり、両者がいわば共同して舞台を作るといってもいいでしょう。お互い、おぼれたり甘えたりしてはならないと思います。優しいだけの観客はお芝居をだめにしてしまいます。昔の幕間討論や落書きボードは実にすさまじくほとんど袋だたきやリンチ状態で、上演終わった役者は本番よりびびってました。まあ結構殺伐としてましたが、それが懐かしく思えるほど今はぬるい状態です。もちろん、ただためにする批判は意味がなく、演劇への愛がなければただの足の引っ張り合いですが。
 私としては、せっかく観る以上は、演劇に資するもの、新しいものを観たいと思います。手慣れた安定した舞台もまあ悪くはないですが、それよりは一点突破でいいからとんがったところがあるお芝居を観たいと思います。素人の強みで破れかぶれが好ましい。脚本でもいい、演出でもいい、演技でもいい。手慣れた表現にとどまらない、ほかの誰もがやっていないものを突き詰めているお芝居。バランスが少々崩れてもかまわないし、暴走しててもいいです。時代のカナリアとしてちょっとでもいいから突き抜けてほしいなと。それが意地悪な観客の目をさますことになります。思わずにやっとしておぬしやるのうというお芝居。もっともカナリアは毒ガスに当たると真っ先に死ぬんですけどね。世界ってのはまあそんなものでしょう。大事なところで逃げるお芝居は、まとまりがよくなるかもしれないけれどあまり魅力は感じませんね。
 ともあれ、そういうような観客として観させていただきました。


 さて、今年ほど、「家族」とか「絆」が意識されたというか叫ばれた年はありません。当然東北大震災のためですが、被災者だけでなく遠く離れた四国の高校生も真剣に考えることを余儀なくされた年でもあります。もちろん、当事者でないものがその痛みに思いをはせるには当然限界はありますが、それでもやはり多かれ少なかれ何かを感じ、考えざるを得ない。そうしてそれは、高校演劇においても、困難な取り組みではありますがそれなりの表現活動があってしかるべきでしょう。正面から取り上げる、取り上げないは別として、時代のカナリアとしての演劇において何らかの影響は受けざるを得ません。実際、何校かは、意識的にあるいは無意識的に取り組んでいたように思います。それが成功しているかいないかは別として。
 ここ数年、審査の場に立ち会う観客として、高校演劇の表現がどうあってほしいか考えてきました。高校演劇の大きな特性としては、経済性からの自由があります。プロと違い、お芝居でご飯を食べる必要は少なくともありません(もっともお芝居でご飯樽ことができるプロはごく一部のようですが)。しょうもないお芝居をやっても、一定の観客が常に保証され、それなりの暖かい視線で見てくれる。部活動というくくりの中で、けっこうぬるい表現でも許されてしまう。まあ、かんがえればいい気なもんですね。しょうがないといえばしょうがないし、そんなものだといえばそんなものですが、であるからこそ、もっと自由な表現、自由な舞台があってもいいのではないかと思います。どうもコンクールの呪縛というか、ここをもっとがんばれやというところが、定型パターンに修練したり、手慣れた表現でついまとめたり。安全運転に走りがちなのはどうもなぁと思っていました。
 高知県には五月に行われる演劇祭という取り組みがあります。もともとコンクールしかなかった発表の場を増やそうと始めたのですが、それにもまして、コンクールではつい身構えてしまい縮こまった取り組みをやりがちな弊害を何とか打ち破りめちゃくちゃでもいいとにかくやりたいことをやれという場として設定されました。従って賞も何もないフェスティバルでしたが、いつの間にか、賞ができ、最初は生徒実行委員会が出していましたが、調査書にも書けるとかいうようなこともあり、だんだんなんだか根拠のない権威性が発生し、さらに生徒たち自身から、専門的な講評や賞がほしいというような意見がではじめ、結果現在は県コンクールの亜流みたいな形になってしまいました。もちろん、県内だけで完結するものですから、県コンクールよりは縛りが緩くて、いろいろおもしろいものも出ますが、以前のようなむちゃくちゃなものは出にくくなっているのが現状です。
 講評は当然あってよいものです。が、順位付けにこだわり出すと、どうも冒険がしにくくなるようで、いつか観たようなお芝居、いつかみたような設定、いつか見たようなキャラ、いつかみたような結末、いつかみたような・・・・。類型的な脚本や演技がはばをきかせ、それはそれである意味変に安定していますから、わりあい心地よく安心して観客も見ている。まあ、水戸黄門状態でしょうか。ファンタジーがはやればファンタジー、等身大が評判よければ等身大、雪崩を打ってというほどではないですが同工異曲のお芝居が多くなるのはある意味仕方のないところですが。
 やはり、高校演劇としては、観客がもっと意地悪くならねばならないかと思います。表現する側がどうしても安全運転に走るなら、それはちょっとちがうんでないかいという暖かい意地悪さ。表現する側と観客は一種の共犯関係にあり、両者がいわば共同して舞台を作るといってもいいでしょう。お互い、おぼれたり甘えたりしてはならないと思います。優しいだけの観客はお芝居をだめにしてしまいます。昔の幕間討論や落書きボードは実にすさまじくほとんど袋だたきやリンチ状態で、上演終わった役者は本番よりびびってました。まあ結構殺伐としてましたが、それが懐かしく思えるほど今はぬるい状態です。もちろん、ただためにする批判は意味がなく、演劇への愛がなければただの足の引っ張り合いですが。
 私としては、せっかく観る以上は、新しいものを観たいと思います。手慣れた安定した舞台もまあ悪くはないですが、それよりは一点突破でいいからとんがったところがあるお芝居を観たいと思います。脚本でもいい、演出でもいい、演技でもいい。手慣れた表現にとどまらない、ほかの誰もがやっていないものを突き詰めているお芝居。バランスが少々崩れてもかまわないし、暴走しててもいいです。時代のカナリアとしてちょっとでもいいから突き抜けてほしいなと。それが意地悪な観客の目をさますことになります。思わずにやっとしておぬしやるのうというお芝居。もっともカナリアは毒ガスに当たると真っ先に死ぬんですけどね。世界ってのはまあそんなものでしょう。大事なところで逃げるお芝居は、まとまりがよくなるかもしれないけれどあまり魅力は感じませんね。
 ともあれ、そういうような観客として観させていただきました。
 

●【各校講評】

●土佐女子高校「あこがれ」

 修学旅行の夜。観客に、何かが起こりそうな(ま、現実でも色々起こるのですね。これが)期待感を抱かせる場面設定がワクワク感を盛り上げて非常によろしい。日常の学校生活とは違う、非日常的時間が立ち上がり、それぞれの秘密が暴露され、たがが外れる一夜・・・。で、あるはずなんですが・・・。
 ホテルではなくいかにも安普請の旅館でそういや修学旅行ってこんなんだったなというのがよく感じられる一室(今では結構設備のよいホテルの場合が多いようですが)。間取りが少し変で、出入り口など完全にあきっぱなしなのか思われる出はけにも問題がある。上手と客席側に窓があるらしく、角部屋という設定なのだろう。疎外されている面々が押し込まれるのにふさわしといえばそれまでだが。一面に敷かれている白(きなり?)の布団は、旅館の布団と言うよりはどちらかというとホテルの感じで、ちよっとちぐはぐな感がある。押し入れは、後の方で色々と面白く使っていた。まあちょっと都合のよすぎる位置にあるにはあるけれど。
 クラスで孤立しているだろうそれぞれがいるのだが、見回りの引率教師の目を盗んで(ちなみにあんなに照明煌々とつけて、大暴れしてたら教師吹っ飛んでくるんだけどね)、夜更かしして、色々遊びながらだんだんに抱えている問題と関係が明らかにされていく。といっても、深刻な対話モードにはいらず、遊びを使いながらさらさらと流れていく処理の仕方は、お芝居の核としてなかなかいい着眼点だったと思う。
 流れの中で時に、時に流れを止めるキーポイントがいくつか仕掛けられている。たとえば突然「野ばら」を歌い出す場面とか、歌がうまい分効果的である。ラストの枕から布団の投げ合いは、それぞれ抱え込んでいるもやもやしたものから解放されるていく表現として機能している(夜が明けて朝になるのと重なる。)、羽が降ってるシーンは、たぶん放り投げられる枕が破れて舞い散る綿(解放された自分)の拡大されたイメージであろうし、美しい。ただ、どうしても降らさなければならない必然性というには少し弱く、たぶん美しいラストにしたかったんだろなというレベルではないかと思う。
 こうした構造から観ると、どうしても、いかに真剣に遊べたかが鍵になるのだが、どうもそのあたりが緩かったようだ。たわいもない遊びをたわいでなくするには、脚本の計算を緻密に行うことと、役者が遊びの機能(身体や心が解放されて、本当の自分が現れやすい)を理解し、演技としてきちんと遊ばねばならないけれど、遊びの種類と遊び方が表面的で浅くどうしてもおふざけレベルになってしまいがちだったのは惜しい。それがために全体的に幼く見えてしまい、このお芝居が目指してものまで届いてなかったようだ。もっと、もっと、それぞれの抱えているものと密に絡む遊びを仕掛け、変な表現だが、役者ももっと真剣に遊んだ方がよかった。
 高校演劇で遊びの機能を自覚的に扱うのはけっこう少なく、ほとんどは雰囲気を盛り上げるためとか笑いをとるための表面的なものがおおい。少なくてもこのお芝居は、それらのものより自覚的に取り組んでいたことは評価に値する。
蛇足。題名、わかるようなわからないような感じですな。

●丸亀高校「ゴロゴロBD」

 いかにも今時という感じの舞台。出演者が楽しんでやっていて、高校生たちはこういうのが好きなんだなというのがよくわかる。ただお話も演技もお芝居の転がし方もちょっと類型的な感があり、その分芝居の力が弱くなったと言える。コミカルと言うよりマンガチックなキャラとオーバーな演技(ま、それはそれでこの芝居の雰囲気にふさわしいと言えばふさわしいが( `ー´)ノ)、ちよっと都合よすぎて見え見えの感がする展開、くさいラスト、やりたいこと、言いたいことはきわめてまっとうなんだけれども、表現としてみるとすこし引っかかる。
 それは、たぶん、脚本自体の掘り下げ方が、弱いところにまず一つの原因があるからだろう。無駄にやかましさを増大させている遊びやエピソードを整理して「生徒会」自体の問題をしっかりと立ち上げた方がよかっただろう。問題への対峙の仕方が浅いと思う。
伊達さんが「留学」を隠していることが一つの枷になっているけれど、ではそれがそれほど大きな問題になるのかというと、どうもそうでもないらしく、明らかになってもあっさり流される感だし、生徒会長が本分に目覚めたかのように正論をのべるのも見え見えだし唐突でもある。一番大事な核であるのだから、もう少し組み立てを工夫した方がいい。もちろん真面目に議論するというのはなかなか気恥ずかしいし、このお芝居の雰囲気にも合わないから、におわせながらさらりと提示したのだろうが、遊びの部分に埋没してしまったというのが結果であろう。また、登場人物をキャラ的に分類設定して役割分担させすぎたのがこのお芝居を類型的にしてしまった一つの要因であろう。演技もその役割分担をなぞりすぎて表面的な、こんなもんだろうというものになってしまい、人物の変化がリアルさに欠ける原因となっている。台本表紙のキャラクター説明がその象徴でもある。キャラのタイプで分けると確かに便利ではあるけれどそれに安住してリアルな登場人物になりにくい。人間ってそんなにうすっぺらいご都合主義的なものではないでしょう?「キャラが立つ」ということはそういうことと少し違うと思います。
 生徒会の問題はコミックや高校演劇でよく扱われるテーマでもあるし、また扱いやすいテーマでもある。だから余計に既視感や手垢にまみれた感を与えやすく、新しい表現を開拓するには実は結構手強いテーマではないかと思う。遊びも入れやすく、キャラも立てやすく、デフォルメもしやすい。至極便利な題材でありテーマである。それだからこそ、取り組むときにはできるだけ禁欲的に取り組んだ方がいい。でないと、まあこんなもんだというできあいのものを混ぜただけの安易なものになってしまう。それでもパーツを組み込めばそこそこのものになるので、当然、観客の高校生としては慣れ親しんだ面白さであるし受けやすい。でも、だからこそ、そういう誘惑を跳ね返す、これは本当に自分たちでしかできない生徒会のお芝居なのかという問いかけを常にしながらお芝居を作ってほしいと思う。そうしなければ表現としての新しい「生徒会」はなかなか出てこないのではなかろうか。

●松山北高校「23日は」

 素朴な味わいがあり、丁寧に創っているところが好感が持てる。誰にも言わずに大学を黙って止めた主人公の自分探しめいた葛藤を中心に話が進む。子供の頃の遊び「けんけんぱ」、それが表象する「思い出」と、「大人」になれない現実の間に引き裂かれたまま、迷う主人公の問題は結構重い。ただ、それが十分に深化されているかというとやや疑問符がつく。これは、ある意味、「家族」を扱ったお芝居でもあるのだが、家族間の関係性や立ち位置が今ひとつ明瞭でなく(あるいは意図的であるかもしれないが)ぬるい。
 大学を止めてしまう動機は今ひとつ不分明で、主人公自身も上手く説明しきれない。もどかしい気分を扱っているのはわかるが(まあ自分探しなんてそんなものだろうけれど)、観客としては、周りの状況をもう少し明確にしてもらう方が主人公の悩みに沿うことができるはずだ。そのあたりをもっと掘り下げていく必要があった。家族関係が妙にあっさりしているところがその原因ではないかと思う。だからして、大事な小道具の「けんけんぱ」が今ひとつたちあがりにくく、上手に出没する過去の思い出もいかにもそうでしょという思わせぶりで終わってしまっている。淡泊に過ぎた感じでもの足りなさを覚えた。「バッタ探し」はちょっと強引で、「逃げるな」つうのにベタすぎたかな。要するに、小道具による暗示だけではドラマとして弱く、物語の骨格をできるだけ骨太にしないといけないと言うことです。一例を挙げると、母の存在にしてももう少し掘り下げて造形しないと、なんかみんないい人ばかりになり何が問題なのか曖昧になってしまう。4人家族でまだ下に妹がいて大学止めるというのは経済的な問題と考えただけでめちゃくちゃ一家の一大事ですよ。そのあたりもなんかスルーされてるし、現実感が薄くなります。お母さん、もう少し年齢を出しましょう。
 空間の処理としては、下手の部屋の装置がやや鋭角的に過ぎ、登場人物が座ると完全に後ろ向きで会話せざるを得ない場面がいくつかあり、工夫が必要。また上手の空間が空きすぎていることとそこを使うお芝居が非常に限られていて、かなりの時間広いデッドスペースとなり見ていて気になった。たぶん今として設定されているだろう部屋の生活感もあまりなく寂しい。装置の面でも、観客の視線をもっと意識すると、観客の視線を芝居に集中させることが上手くなるので、空間の設定ができたら、できるだけ部員みんなで初めてその舞台を見るつもりでチェックしましょう。
 ラストのあたり、花火の仕掛けはよかった。欲を言うと、赤や緑の色もだせたらなお効果的だったと思う。
 
●城東高校「来る

 奇しくも主人公と同じ姓の国語学者の鈴木孝夫さんが言ってました。日本人は他者依存の自己規定だと。昔も、現代も、いやなまじ自己が確立しているかのような現代だからこそ、自己存在の意識がいっそうそれを深化させているかのような少し怖い気分にさせられるお芝居。自分ってのはそれほど確固としたものではなく恒に他者から浸食され、他者の認識により変容しかねないもろいものだと言うことを思い知らされるかなりこわーいお芝居です。
 不条理風ホラーといった趣のある異色な舞台。こういうジャンルに挑戦するのは多様性を望むものとしてはとても好ましい。居酒屋の狭い空間を上手く使っていて、感情の密度を高くしている。少しずつ食い違う記憶と台詞。居心地の悪い不気味さがしのびよる前半はなかなか緊張感があってよい。ただ、少し思わせぶりな感じの手続きがやや長く、もっと簡潔に怖い世界へ運び込んだほうがいい気もします。
  怖さを出すためのいろいろな小道具に結構工夫が凝らされていた。たとえば、無表情な店員の存在、雷鳴や、くるくる回すホースの音。繰り返しの台詞。アルバムの使い方など、随所に細かい注意がなされていると感じました。
 ただ、計算違いもあるように思われる。時々袖幕から少しだけ身体を出す人物、笑いとセットになると余計に怖さが際だってくるものだが、笑いの要素より?という感じがし、中途半端な存在で観客に余計な混乱を招きかねない。このようなお芝居では、観客は台詞の食い違いに集中して、考えながらみているので、舞台上のいろいろな出来事に意味を見つけようとしがちで、変な遊びはしない方がよいと思います。
 またも全体の流れを通して見ると、カエル君が出てきたあたりから、怖さの要素が少し、ぶれてきて、全体の構造が少し崩れてくる。赤ちゃんがでてきたり、緑色の網のようなものが背景のから垂れ下がるとか(ちょろっとだして引っ込めた方がよかったかな。垂れ落ちて舞台に無様に残るのはちょっとね)、確かに不気味なことは不気味だがその怖さはそれまでの怖さと位相が違うのではなかろうか。あくまでも台詞のやりとりだけから生まれる食い違いが、もっと怖さの深みへ到達すると思う。たぶん形象化をねらってあえて完全に異質なカエル男を組み込んだと思うし、それほど違和感なくお芝居の中に組み込んでもいたけれど、それは、どちらかというとコミック的な怖さになってしまって、主人公が追い込まれて壊れていく実存の危機の怖さが減殺されてしまったのは惜しい。赤ちゃんや網状のものもそれほど出す必然性はないと思う。異化効果をねらったものとして捉えられなくもないが、効果があがっていたかというと、むしろただの混乱を生じさせた感があり、いかがなものかというのが正直なところ。
 ラストの背景に浮かび上がる逆さの足?は余計で、観客の想像力を逆に固定してしまう。ま、やりたいところでしょうが蛇足になってしまい、シャープさが欠け、観客への押しつけになってしまう。メールがきただけでよいのでは。そういう欲はあえて抑制しましょう。しかし、相対的に言えばかなり挑戦的かつ意欲的なお芝居であったことは間違いない。好ましい舞台であった。

●土佐高校「化粧落とし」

 「男と女の間には~深くて暗い河がある~だ~れもわたれぬ河なれどえんやこらこ今夜も船をこぐ~♪」男女だけでなく、人と人の間にはわたれない河がありますね。所詮人は一人で生まれ一人で死んでゆく。でも、人はどうしても孤独のままではいられな業があり、なんとかして、つながりを持ち、それでもって絶対的な孤独に耐えようと苦しい営みを続けます。これは、深くて暗い河をわたろうとする真摯で健気な女の子たちの物語。土佐女子高校とはアプローチがちがい、孤独からの脱却を目指して、そのまままっすぐに真っ向勝負で深い河に橋を架けようとしたお芝居だと思います。
 従って遊びはありません。遊びっぽくてもひりひりする緊張感がただよい、時として息苦しい。台詞中心で深みにひたすら潜っていく営みはなかなかにしんどく、みててもう少し余裕がほしいと正直思いました。まあ、若い人の余裕のなさといえばそれまでですが、世俗の垢にまみれた汚れ腐った大人としてはちよっとまぶしかったですね。この世代でしか作れないものでしょう。その分多少主観的になりすぎた嫌いはある。難しいだろうが一歩引いた客観性があればなとは思う。
 題名がよろしい。化粧は仮面、世界に対峙するためのまあ決意の表れ。韓流の歴史ドラマに出てく花郎や、戦士の戦化粧にあるように自己を防御するためには必要なもので、古来、女性にとどまらず自己を守るための障壁である。でも、この舞台はその化粧をそぎ落とし、素の自己を対峙させる試みであったように思う。化粧を落としたその先には、裸の自己しかなくお互い抜き差しならない関係を等者であろう。そういう息苦しさが真摯な分観客に息を詰めさせる緊張感を与える効果があった。
 ただ、流れ的に格別の事件も起こらず勢い台詞に頼るお芝居で、掘り下げていくのだけれど少し自家中毒気味なのはおしい。これだけせっぱ詰まった関係をもっと開くためにはなにがなし「事」があったほうが説得力もあるし、観客としても余裕ができる。深く彫り下げていくとややもする世界が閉じられてしまう、そういう点に気をつけた方がいいかなと思う。そうでないと、単なる登場人物たちのぐだくだな物言いでおわってしまい、普遍性をを獲得しにくいだろう。
 ラストの、処理はよかったと思う。大黒の暗黒に対峙するかのように観客に背を向ける。覚悟が見えてよろしい。あれで、前向いてちょっと上向いて幕くなんかになればしばいたろかと思ってたぶんなかなかやるやんと思った。深くて暗い河はたぶん渡り切れないだろうけれどそれでもこぎ出して渡ろうとする意志の表明。類型にならない表現を選択したことを評価する。
 あと、特に、間の演技に自覚的だかどうかわからないが取り組んでいたこともよいと思う。一瞬事故かなとおもうような間を緊張感を持ってつないでいた。ややもすれば単なる時間の経過に過ぎなくなるところをきちんと演技として意味を持たせていた。段取りではなくて、舞台に生きている役者の間として持たせていたのはよかったと思う。
 欲を言えば、前にも書いたけれど、禁欲的すぎでちょっと肩凝るかも。 もう少し肩の力をぬいてみよう 日常いつもそんなにつっぱらかっていないしね ストレスでみがもちませんです。緊張と弛緩のリズムをつければさらに見やすくなると思います。

●高松工芸「嘘だけど」

  大勢の役者をあげて、うらやましさと共になかなか作者の苦労が忍ばれるお芝居です。 演劇部もの。演技者が楽しんでやってるのが伝わり、なかなか生きのいい舞台でした、小技、色物、にぎやかし、ちょっとしたお祭り的な雰囲気が伝わってきます。しかしながら反面、軽薄感もあり少し空回りしていたのではないかと思います。もっとも「軽薄さ」は一概に否定すべきものでもなく、戦略として意識的に取り入れるならば、「軽薄さ」は異化効果をもたらしやすいし、しょうもない「重厚さ」から自由になれますから一つの方法として十分に意味があります。ただ、この舞台は意図的にそういう企みをしたというよりは結果的に軽薄さに流れてしまったように感じました。
 「軽薄さ」がお芝居の方法として成り立つにはそれなりの計算と裏付けが必要でしょう。根幹のきっちりした脚本、「軽薄さ」を客観化でき表現できる演技の力、「軽薄さ」をうまくさじ加減できる演出力。そういうものがあってはじめて、方法としての「軽薄さ」が成り立つものですが、このお芝居の場合は、そのあたりがうまく機能せず、散漫な形になっていると思います。
 いくつか原因は考えられますが、まずは脚本でしょうか。どうも基本的な構造部分での無理矢理、ご都合主義的な設定が苦しい感があります。いわゆる演劇部ものなんですが、流れ的にいえば、いわば、へなちょこ部長を叱咤激励して、立派な部長に再生させる過程を通して演劇をやる意味を考えるというようなお芝居ですね。このような場合、欲しいのは。一つは演劇をやる意味を登場人物たちがしっかりと考えていると思われる構造と、叱咤激励させるための仕掛けが説得力ある仕掛けであることだと思います。
 仕掛けの方からいいますと、妊娠しているという「嘘」がまさに仕掛けとして嘘くさい。説得力のある枷というよりは、設定の面白さが優先したように思います。嘘である分逃げ道あるし、のっぴきならない困難さが生み出す面白さがでてきにくい。重苦しい切実さがあって逆に軽薄さがすごく生きてくると思うのですが、その切実さが甘い分、お芝居を引っ張る力が弱くなり、お芝居を展開するのに、構造の緊張感が生み出す面白さよりもキャラのおもしろさに頼らざるを得ない弱点が出てきます。登場人物も多いし、キャラの掘り下げもあまりできないんで、コメディーとしての面白さというよりバラエティっぽい面白さになったのは残念です。ここは、嘘でなくて本当な場合でなおかつ軽薄さで押し通す脚本にしてもらいたかったですね。まあ難しいといえば難しいけれと、無理筋設定するなら徹底的に無理筋にした方が意外に道は開けると思うのですが。そういう徹底さを選択することがお芝居の質を深めていくことにつながるのではないでしょうか。
 もう一つ。なぜ演劇をするのかというのは演劇部ものを作るときもっとも外してはならないおでんの串であると思います。ここがしっかりしていないと単なる都合のいい設定(多人数でも作りやすい)になってしまいます。いわば「不易流行」の、不易=演劇論、流行=軽薄(妊娠騒ぎと考えていいでしょう)のそれぞれがしっかりして、なおかつ、より根幹の不易の部分をもう少しきちんと明確にすべきであったと思います。そうでないと、賑やかなお芝居の部分に流され、焦点の部分がちょっととってつけた感じになります。真剣なおふざけが生み出すものと、根底にある切実な真剣さが絡み合ってはじめてきちんとしたコメディーになるのではないか。
 従って、演技する役者も、どうしてもキャラを演じることに注意が行きがちで、単なるキャラのなぞりになってしまい、立ち方、台詞の出し方もどうしてもこうなるであろうという類型的なパターンで処理してしまう。それは、とても楽だし、演じている気分になるし、事実、演ずる諸君はとても楽しいことはわかりますが、どうもそれ以上に広がらない。というか、実際、それしか方法がなくなってしまい、いわゆる上滑りの段取り的演技に陥る危険性があります。
 改めていいますが、「軽薄な」ことを表現方法として選択するのは悪いことではありません。しかめ面して深刻に悩むようなお芝居より観客にとっては精神衛生上よろしい。
「軽薄さ」でしか表現し得ないことをきちんと選り分け、キャラの面白さに頼らずにもっと徹底させた方が可能性が見えたのではないかと思います。もちろんそのためには根幹を押さえておくということが大事であることはいうまでもないことです。

●川之江高校「お家に帰ろう」

 安定して見やすい舞台です。脚本、演技、芝居作り、いずれも整っている。台詞もいい。特に掛け合いの台詞は上手い。役者の間もいいから笑いも起こる。キャラクターもそれぞれ明確でわかりやすいというかわかりやすすぎるきらいはあるけれど。まあ見やすい舞台だからいいかなと最初に一票を投じた。だが、整いすぎていることに引っかかりを感じていたのは事実。どうも納得いかないところがあり、それは何かなとよく考えるとどうもこのお芝居の構造に起因しているとしか思えない。ちょっと逃げてるんですよね。はぐらかされた感じ。3.11を出せばいいというものではないなという感が強くし始めた。
 でもって、審査での最終判断。このお芝居は、残念ながらカタストロフィーを最後にもってくる日本人論の解説としか見えない。小論文でよくある問題提起と分析ばかりが充実して最後に「みんなで考えてみなければならない問題です」ってお茶を濁すパターンと、どこが違うのというところ。確かに演劇なんだろうけど、どう見ても状況に立ちすくんでいるだけのような感じで、演劇としてはまずいんでないかなと。別に結論だせやとかいうことではないし、立ちすくんだらいかんということではないがどうも腰砕けでないかなと。覚悟が足りないのではと思ってしまう。
 それは変な言葉であるが、お芝居全体があまりにもスタスティックであるからでもないかなとも思う。舞台が静かすぎた。たとえば役者に感情のダイナミックな変化がなく、きわめて手続き的にたんたんと演技が流れていくという点や、きれいに組み立てられたお芝居の構造が、逆にお芝居の力をすごく弱め、だからどうよという気分にさせてしまう。
 たとえば、構造の骨格、千羽鶴を折る行為。これが全編を支える登場人物たちの生の営みである。義務的であろうと意味がない徒労であろうとそれはかまわない。わたしたちの今のあり方であろうし、鋭い着眼だとは思う。それを積極的に支持するもの、消極的に受け入れるもの、異議を唱えるものれぞれの生のスタンスを表象する。それは非常によろしいと思うし、カタストロフィーにあって全ては無になり崩壊するのもいい。また、細部でも、結構刺激的なキャラクターが露骨な物言いをし、しかもその露骨さをうまく、脇が流したり、キャラクターで薄めたりしていて観客としてはそれほど抵抗なくうけいれていく技術がある。もっとも協力したくない不良さんが脱出しようと何回も図るが引き留められてしまうところは少し苦しいけれど、まあ脱出されたらお芝居が続かないんでしかたがないか。あるいは、露骨な物言いをするキャラクターを支持する理由がやさしいからってのはおいおいというところとか気になるところはあるけれど、おおむね不自然さはない。台詞はよく考えられていると思うし、全体的にうまく分析していると思う。しかし、再度言う。だから何?
 生を生きる生身の人間の営為は、カタストロフィーに出会うとき、それぞれそれ自身の行為を必然的に問いかけるしかないと思うのだが、そこは一切捨象され、「おうちへ帰ろう」と放置される。立ちすくんでしまう。まあ実際にあのとき皆立ちすくんだし、テレビで観ていたわれわれも呆然とするしかなかった。だからそういうお芝居もありかもしれないが、やはりどう考えても問いかけをうまく回避したとしか思えない。もしそういうお芝居を作るのであれば、もう少し登場人物たちの生の営みがもっと輝いて動的であってしかるべきではなかろうか。更に言うならば、3.11でなくても、原爆でも、無差別殺人でもなんでもこういう構造は成立するし、こうなんですよと提出されても、ああ、そうねとさめた目でいうしかない。そこから、先なんではないですか?演劇って言うのは。今現在、3.11を扱うならば、困難ではあってもそれがなければ意味がないと思うのですが。 わたしたちが書けるのはあるいは演じられるのはほとんどの場合残念ながら「その後」でしかない。「その前」は、「その後」に続かねば、ただの解説にしか過ぎなくなるのでは無かろうか。その意味でかなり不満が残ってしまう。西日本に住む被災しなかったわたしたちはどのような表現をめざしたらいいのか。絆という多少手垢にまみれてしまった言葉を鍵にするのもいいとは思いますが、それよりむしろ、「被災しなかったわたしたち」から出発するべきかもしれません。もちろん身近に実際被災した親戚友人知人がいる場合もあるでしょう。全く関係ない人がどうそれに対峙するのかを考えた方がよろしいかと思います。この芝居も直接被災しなかった人たちの物語で、しかも日本人のいま抱えてる問題をそれぞれ担ってて、3.11に対するアプローチとしては正しいと思うのですが、「その後」の前で終わるのはちょっと誠実さに欠けます。「その後」を書かなければ意味がないのでは。
 もっとやってもらいたかった点を一つ。「ただいきてるしかない」という状態は嫌悪したいだろうけれど、現実は冷酷でその状態に置かれるしかない人びとが確実にいる。しかも増大し、最低なのは世代を超えて受け継がれざるを得ない状況が進んでいる。それを安易に批判するのはいわゆる 上から目線でしかないんでない。情報は探そうと思えばあり、少し想像力を働かせればわかることだと思う。では、どうするのか君は。というのを探すのがある意味時代のカナリアたる高校演劇ではないかなぁ。そういう意味で、わたしは不良さんに一票。これだけで一本できるし、ここを徹底的に突き詰めてもらいたかったんだが・・(ーー;)。「意匠」で終わっていた感じ。もったいねー。

●徳島市立高校「IETERLUDE!!」

第二次大戦の沖縄戦終結後の民間人捕虜収容所、視察に来る軍政府高官の歓迎演奏会を拓こうとする捕虜たちの8/16までの物語。着想は非常に面白いし、沖縄に意欲的に取り組もうとした点は買えるが、それ故にかなり無理筋になってしまった感がある。
 お芝居の基本の構造に、音楽を据えたことが、面白さにもなり、逆に無理筋を生むことにもなっている。クラシックとジャズと琉球民謡+踊りの融合を創り上げようとする欲張った行動が芝居全体を貫徹する流れになっているけれど、観客としてみた場合率直に言ってかなり苦しかった。芝居の大半が、音楽の豆知識と演奏と踊りで展開されるけれど、それが芝居全体の骨格を支えると言うよりも、単なる鑑賞会という形になってしまっているのは否めない。ハーモニーを形成させるまでの手続きが長すぎ、しかも音楽的解説と演奏が必要なので、生徒もがんばって演奏したり踊ったりしていたので、それはそれなりに楽しめたが、逆にドラマとしての部分が薄く、実際ドラマが始まるのは8/15以降の部分で、なんか問題が始まったか始まらないかでお芝居が終わってしまった。これでは、沖縄は付け足しになってしまい主客転倒のそしりは免れないし、音楽の融合と沖縄の問題をつなげるブリッジの部分が弱いので、時間の制限もあり結局最後の方は駆け足の演説になってしまう。これではご都合主義になってしまって説得力を持たない。ドラマの部分の拡大と深化、並びに音楽場面の整理が必要だろう。構造が単純なので深まりにくいという面もあった。
 演技する側の点で気になったところをいうと、たとえば、演技としての演奏、演技としての踊りをもっと意識しないといけないと思う。ちょっといっぱいいっぱいのところが見えていた。お芝居としての演奏は、音楽を演奏するのとは少し違うと思うのだが。また、それぞれの役者が、もう少し時代を感じる演技や身体を見せるべきだろう。題材が題材であるだけに、時代を感じさせないと余計嘘っぽくなる。たとえば帝国軍人が少しも帝国軍人に見えないのは困る。軍人にもいろいろあるけれど、少なくても歴戦の勇士?のはずで、最低もっと姿勢をぴしっとしなければ・・。それぞれが話す口調にも違和感を感じた、余り時代を感じない。丁寧に言えばいいと言うものではなかろう。まあ、これは台詞がそう書かれているから仕方ないが。リアリティーを出す身体をつくるってことは、舞台では大変重要だと思う。もう少し工夫がほしい。そういえばやたら楽器が新しかった(ーー;)

●高知追手前高校「見よ、飛行機の高く飛べるを」

 高校演劇では最近あまり観られないタイプのお芝居。まっすぐに取り組んでいた。凛とした清冽なお芝居で、変な企みもなく、嫌みがない品格のある素直な舞台であった。最近珍しいなと思いました。脚本の要求するところを高校生の身体でできる限り忠実に展開していたと思う。脚本の良さにおんぶするところはあったし、長い脚本をカットしたので、駆け足気味になり細かいニュアンスが欠けて説明気味になったのはまあ仕方ないところか。それでも、不自然でない程度にまとめたのは評価してよい。カットをかなりやったために結果場面展開で暗転処理に頼り過ぎざるを得なかったようだが、そのためお芝居が止まり気味になったのは痛いところ。少しでも少なくする工夫が必要だ。花瓶を置く台のようなものがあったので、たとえばお花の当番的なものでいくつか転換できるのではないか。
 明治末期の(1911年10月という設定)旧制女子師範学校を舞台として、一人の人間として自立しようとする女性たちが、社会を支配する根強い男尊女卑と良妻賢母のイデオロギーの下で次々と切り崩され挫折しながらも、思いを空高く飛ぶ飛行機に託し、なお固い意志を持ち続け生き続けようとする物語。それは遠い時代の話ではなく、いまなお、より巧妙により悪質に人間の自立と尊厳を平気で踏みにじる現代の日本の状況と通底していて、語られているのは、100年たっても依然として変わっていない日本の姿である。若い人が、それに正面から立ち向かう舞台に取り組んだことに意義と敬意を感じた。
 こういうお芝居は、やはり時代の雰囲気が出ているかどうかで結構説得力に差が出てくる。その意味できちんと取り組んだ方がいいし、かなり努力をしていたと思う。演出もけれん味なくオーソドックスで芝居全体に声高でなく落ち着いた味を出すことに成功していると思う。装置も時代を感じさせてよい。ただ衣装は明治末期というよりは昭和20年代的かな。細かい点を上げれば女生徒の、セーラー服、スカート丈、白のソックス。ちょっとちがうのでは。(ちなみに日本初のセーラー服はもう少し後だったと思います。体操服としては一部でつかわれていたかも。あ、運動会の時のシーンの体操の服装はいただけませんね。まじですかと思ってしまう)。教員の服もちよっと現代ぽかったですね。衣装は視覚効果が強いんでもう少し詰めた方がよかったと思う。
 土佐弁を使用したことは、生徒たちの地についた意志を表現するのに効果的でした。どうしても理念的な台詞が出てきますが、それが女生徒たちの生活の言葉を使うことで、身に沿う効果を上げ、「大きな言葉」も実体を伴うことができたと思います。また男の役者の土佐弁がより効果的で(順吉、校長)、主人公たちを絡め取る、あるいは理想と現実の乖離を厳しく糾弾するのにリアルさを増す力があったと思います。なんでも方言を使えばいいというわけではありませんが、少なくともこの舞台、方言を選択したことが「大きな言葉」にまけない力を与えたことは確実でしょう。
 ラストシーン、飛行機の音を聞きつづける主人公に強い意志を感じます。黄昏の中の希望というところでしょうか。ちなみに、高知で飛行機が空を飛ぶのはもっと後ですから、いわば幻影の飛行機です。まあ、その方が希望として幕切れにふさわしいところです。

●【終わりに】

 今年ほど、「家族」や、「絆」が人々の中で意識させられる年はありませんでした。もちろん、3.11の東北大震災と原発事故がもたらした状況ではありますが、それ以上にカタストロフィーに直面して、いかに人間が孤独な存在であり、それ故に、その孤独を何とかして乗り越えて生きなければ、偶然にこの世に生を受けやがて消えていくちっぽけな存在としては、その生きる意味やよすがを追求しなければ耐えられないある意味不幸な生き物であることを自覚させられたからでしょう。
 17年前の神戸大震災とオウム真理教の事件でいわば日本社会のたがが外れ、グローバリズムの嵐の中で、表向きはどうあれ、現実には人間の尊厳の基盤が次から次へ失われていき、3.11で底が抜けたというのが正直な実感です。奇しくも、いわば天災と人災が重なり合うやってられない中で、象徴的なのはオウムと原発事故だと思います。いずれも、人間の幸福に寄与し、孤独な存在である人間のための科学を、あるいは確信的にあるいは不作為の結果人間に牙をむくものとしておとしめる結果になったのは、おごりのもたらしたものであるでしょうがそれ故に根は深いものであると思います。
 天災には不条理なところは確かにありますが、それでも自然には悪意はない。まあそれ故に怒りや悲しみのもって行き場もなく傷は深いのですが、一時は立ちつくしながらもなんとかやり直すことはできるし、それが災害に襲われ続けた日本列島に生きる私たちの昔から受け伝えてきた強さです。でも、オウムや原発は人間しか起こし得ないものであり、しかもそれを乗り越える方法は未だ見いだしていない。余計、闇は深いといえましょう。立ちつくす度合いや質がちがうものだと思います。
 それを乗り越える方法といっては安直な表現になりますが、人々が無意識にあるいは意識的に選んだものが「絆」ではないかなと。手垢のついた言葉になってしまうとまずいのですが、「絆」は単なる傷のなめあいや助け合いやもたれ合いでなく、孤独な存在である人間が人間として生きる意味を見いだす一つの方法でありましょう。そうして、それは芸術としての演劇のもっとも深いところと通底するものであろうと思います。
 カタストロフィーに打ちのめされた人間として立ちすくむのではなく、カタストロフィーの後をどうやって生きるか、演劇に限らず、文学やそのほかの芸術に関わる人たちがたぶん今一生懸命に考えて表現しようとしていると思いますが、演劇は関係性から生まれる芸術であり、人と人、あるいは人と物、人と社会、人と自然それぞれの関係性(それぞれの絆といってもいいでしょう)を問い直すことから、さまざまな美しいもの、力があるもの、喜びを与えるものが生まれるはずです。
 無視したり、とりあえずおいといたりするのは楽ですが、演劇は、現実の様々な関係性を問い直しながら、人間をただ生きる孤独な不幸な存在からもう少し意味ある「生」の指標を探し出すカナリアだと思います。17年前、払暁の中、捜索に入る機動隊の黒いシルエットの中にカナリアの籠がありました。毒ガス検知のためですが、もし毒ガスがあれば真っ先にカナリアが倒れます。そうしてはじめて使命を果たす。何とも過酷な運命ですけれど。演劇は、いわば、そうした社会や時代の検知器としてのカナリアでもあろうし、しかも、それを、生身の肉体で表現することによりそのもつ意味は優れて人間的であると思います。舞台は基本的に一回限りの消えていくものです。それは、地球の長い歴史のごくわずかな瞬間よりもまだ短い間しか存在できない私たち人間にとり、もっともふさわしい芸術の形態ではないかとも思ったりします。
 補足一点。高校生の演技者諸君へ演技者の責務みたいなものを考えてもらいたいと思います。簡単なことです。創造力と批判精神。脚本と演出への疑惑を常に持ちましょう。指導する顧問方もみんなどうせ素人ですから、いわれたことを鵜呑みにせず常に(´-ω-`)本当かよという目で見ましょう。自分の努力して獲得した身体性と想像力で突破すること。そういう緊張状態を保って部活動してください。ようは高校演劇って 結局生徒が自分自身の力で 創り上げるもの がすべてだからね 誰の支持があろうとオウムではダメ ロボットでダメ 無条件に従えば地下鉄サリンと同じ構図になるだけ 自分たち自身の力で切り開くことあるいはそういう力を持つために努力すること 催眠術にかからないこと(別名 洗脳とも言う) それが教育としての高校演劇であるはず うまくいくかいかないかは残酷だけれど全て観客の前で暴露されます。(*´д`)y-゚゚゚。ここ数年観てみんな砂絵過ぎるというのが印象。昔は、なかなかむちゃくちゃな猛者がいました。。・゚・(ノД`)・゚・。
 ともあれ、演劇をする意味というものを改めて考えさせられる一年であったことを記してつたない講評を終わります。


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