●第37回四国地区高等学校演劇研究大会

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●【はじめに】

 クリスマス寒波襲来後の二日間、四国大会に参加したすべての皆さんお疲れ様でした。とりわけ、運営面に携わった徳島県の部員、顧問の皆様のご努力に感謝いたします。審査員として非常に快適に日程をこなすことができたのも皆様のおかげです。ありがとうございました。開会式の会長のハートとセンスが光る挨拶から始まり、閉会式の幕が下りるまで、単なるコンクールの場としてではなく、高校演劇の教育と研究、交流の場として成果を上げたことをお互い祝いたいと思います。
 さて、私の講評は例年、全体講評を枕にして、その後各校の講評に到るのがスタイルですが、今年は少し趣を変えて、全体講評のかわりに、審査自体の講評?から始めたいと思います。審査のシステムは近年かなり改良されてきていますが、その成果と更なる改良点を考えるのは意味あることと思うからです。コンクールという形式である以上審査は避けて通れませんので、そのたゆまない改良と審査そのものに潜む絶対的な限界点を参加校の皆さんが明確に認識されている必要があるからです。審査はその性質上どうしても密室の作業となりますので、事務局はある程度わかりますが、一生徒や顧問の皆さんにはなかなか実態が見えにくいところがあります。知っておくことはこれからの四国の高校演劇をよりよいするものにするための一つの参考となると思います。では。
 その昔、毎年演劇の神々をことほぎ自らの一年の収穫物を供犠として神堂に捧げ、神々の祝福と裁断をあおぐ年の終わりの祝祭がうんえいしたありました。それに参加したそれぞれの土地を代表してやってきた善良な会衆たちの間では、「シンサ」は「暗黒の秘儀」として期待しながらもおそれられていました。無事儀式が終わりますと、祭儀を静かに見守っていた、演劇の神々がその英知と厚い信仰心を信じ選んだと伝えられる5人の黒衣の神官たちはしばし「裁断の間」に入り、神々の啓示を受けそれを御言葉として会衆たちに伝えます。会衆たちはそれぞれおそれと期待をもちながら己たち自身の宴に興じて時を待ちます。やがて時満ちて扉が開かれ、神官長が壇上に立ち神々の御言葉を伝えます。会衆たちは、一喜一憂しながら熱心に御言葉の片鱗さえも聞き漏らすまいと集中します。中には他のものたちに伝えんと必死になって記録をするものもいます。けれど、中には意外な表情を見せたり、心外な神々は本当に私たちをみておらけるのかという不信感を抱くものも当然ありました。そうして、神官長は語り終えると会衆の前から静かに姿を消し、あとには、曰く言い難いざわめきが残ります。暫時して再び神官長をはじめ残りの四人の神官と、お祭りを支えた祝祭を運営した人々が壇上に登場します。静まりかえる会衆たち。やがて、運営をとりしきった神殿の上席の守り手が登場し、「裁断」と宣言するや、緊張が一瞬にしてたかまり、中には今にも失神しそうな会衆もみられます。守り手の次の一声を聞き漏らすまいといやます緊張。「裁断 もっとも祝福されるべきもの次の・・」と事務的ともいえるそっけない言葉が告げられた瞬間、会衆たちはシンとした瞬間に包まれ同時に選ばれたものたちの喜びが爆発します。裁断は三度つげられますがそのつど喜びの爆発はちいさくなり、やがて凍り付くような空間が出現します。一年の厳粛な終わり。それとともに、会場のあちこちで微妙な空気が漂うこともあります。我々の供犠を本当に神々は正しく受け取ってくださったのかという神々への疑問や不信、あるいは御言葉をつたえた神官たちは果たして正しく御言葉をつたえたのかという疑念。いや、そもそも神官たちは本当に神々に選ばれる資格はあったのかという批判、祝意を啓示された会衆たちや、「脚本がだめですね」との御言葉しか受けられなかった会衆たちにおいてはなおさらのことでしょう。 やがて会衆たちはそれぞれの地に帰るのですが、中には、絶対おかしい、神々は不当だ。いや神々なんかいやしない。あるのはただのまやかしだ、「神は死んだ」と宣言し、俺はダースベーダーだ、まずは神官を粛正すると意味不明な宣言をして、故地に帰り流言を流布したりして暗黒面に落ちていく罰当たりなものたちが出るのはやむを得ない仕儀ではありました。そうした、祝祭に対するわだかまりや、もやもやや、恨みや、疑念、不信は伏流水のごとく、神々の祝祭に 長く暗い影とよどみを引いていたのです。
 で、やっぱりこいつはいかんぜ。ということで、出場校にとってはブラックボックス化していた審査を、当節流行の「透明性」と「公開性」、「説明責任」をはたさな無用な誤解や疑念や不信を払拭できないし、大会の存在意義さえ揺らいでしまうという事で、かなりの時間をかけた試行錯誤を重ね、四国大会の審査が現在の形になりました。その内容や意味がまだだよく理解されていない方が結構いらっしゃるようなので、講評の機会を与えられたものとして、その仕組みと問題点注意点をあげておきます。参考にしてください。自分たちのセ成果がどのようなシステムで評価されていて、またその長所と欠点はどうかを知ることは、コンクール形式の利点と弊害、限界を知ることでもあります。そしてそれはコンクールに参加する演劇部の方々の共通理解としておく必要があります。評価される側の権利でもあると同時にコンクールとはそういうものなんだという認識をすることが求められていると思いますから。従いまして、審査および講評の役割や、講評文の意味など一通り流れに沿って説明しておきます。

 現在の審査のシステムは次のようになっています。ご承知のことも多いでしょうが説明のために記しておきます。
1.中央審査員1・各県審査員各1、計5名で審査。
 2.各審査員は3ポイントをもち、よいと思われる3校を選ぶ(順位指定の重み付けや傾斜配点はありません。)
 3 全員のポイントを集計してそれを参考に協議する。
 4.協議の内容をふまえて最終的に中央審査員が決定をする。
 こういう流れで進みます。
 注意するべき点は

 ア ポイントの数がそのまま結果に反映するものではなくて、あくまでも協議のたたき台と言うこと。
ポイント制の利点は数値化されるわかりやすさにあるから、そのまま合計ポイントを単純集計してそれを結果とすればいいんでないかと思いがちですが、実はここに落とし穴があります。
 それは、審査の前提として、個々の審査員の演劇観をベースに判断してポイントを付与する訳ですが、個々の審査員の演劇観は当然それぞれちがいます。同一の価値基準(100メートル走のタイムという客観性を保証する数値)ではないわけです。すなわち、それぞれ相対的な価値基準によってポイントは付与されると言うこととが一つ。
 では、相対的な価値基準がちがってもそれぞれ評価されているからその合計数を足すことに問題はないのではと思いますね。しかし、実はこれが一番誤解される、あるいは変な?結果を生み出す一番の欠点です。どういうことかというと、各自の演劇観に基づきおーっ、ぜったいこれやーと言うのが3校存在する、しかも全員にそれぞれ存在するというのが「合計数を足せばいい」という前提条件にならざるを得ないからです。現実にそんな事態が起こりうることはもう原理的レベルで無理なことはすぐわかりますね。実際は、だいたい、各自の演劇観から演劇的に判断して絶対ここでなければならない、というのと、まあここもいかなというのと、とりあえずゆるせるかなという簡単にいうと三つのレベルが混在します。重み付けしようとすると配分率でいろいろな問題がでてくるので実際にはおなじ1ポイントが与えられる。
 そうなると、結果的にはどうなるかわかりますか。そう、ここもいいかなというのと、とりあえずゆるせるのが多いポイントを獲得しがちです。平均的にまあまあなところがポイント数を稼ぐ事態がよくあるのです。実際、全国では審査員が多いせいでこの現象がより明確になってきます。そうなると何が問題化するか。そう、演劇的にみて一点突破の破壊力ある優れた作品が、審査員の演劇観の相違の中に埋没してしまい、いな、むしろそういう作品ほどポイントが伸びないことは多々あることです。いわばデジタルに潜むアナログの罠ですね。平均的なできより突出したできがよろしいことはあり得てよろしいことなのですが、その突出さを判定するのは各自の演劇観ですからずれが生じて当たり前です。いかし、各自1票だけにすると完全分散の事態もあり得るし現実的ではない。四国他大会のように審査員が少ないところはよけいそうです。
 というわけで、一見客観性を担保するポイント評価は、実は全国へ送り出すと言うことに関してはそれほどの客観性と重さは持ち得ないと言うことです。

イ 協議について
というわけで、ポイントをふまえて、協議調整をしなければならなくなります。しかし、それぞれの価値観(判定基準)がちがうものが判定した結果をどうまとめるか。バトルロイヤルやってもいいですが審査員たちは紳士ですし体力ないからそういうことはしません。まず、それぞれ選んだ理由を各校について簡単に述べます。中央審査員も述べます。そうして、コンクール形式なので出てきた意見をまあ統合して一つのものにしなければなりません。そのまとめる過程の中でポイントは参考にされますが、ポイントの結果通りになる場合もありならない場合も当然あります。ただし、この場合も意見の重みはというか統合する権利は中央審査員にあります。考えればわかることですが、5人の全然違う演劇観をもつ審査員がそれぞれ一押しをしたものについてはそれぞれなかなか譲れないものがありまして収拾がつかないこともあり得ます。(3ポイントですから最大で3つに一押しが出る可能性があるわけです)。でも、きめなければならない。というわけで裁定者としての役割を中央審査員が果たすわけです。 ぶっちゃけていうと、極端に言えば中央審査員がこれでいいんだととおもえば、たとえ中央審査員の1ポイントだけでもそれが選ばれるシステムです。もちろん、実際はそれほど単純なものではありませんし、各県審査員の意見も含めての総合判断と言うことになります。もちろん、審査の責任を持つという意味で、評価基準というか立ち位置を各審査員はできるだけ明確にして判断することが必要です。それでないと審査の意味がありませんし、それを明らかにする説明責任が審査員には課せられるていることは自明のことです。中央審査員は全体講評と講評文で、各県審査員は全体講評はしませんので後の講評文でその責務を果たします。まあ、こうすることが最低限のマナーであり責任ですからね、しょうがない。気楽に一観客として芝居見ていたいもんですわ本当は。見る楽しみの7割は責任で頭からぶっ飛ばされますから。
ウ 講評について
限られた時間の中で審査されたことを参加校につたえるために設けられた時間だと考えてください。内容的には、以下の様な性質があります。
①時間の関係ですべてをつたえることは無理なので、エッセンスだけになります。それでも大変参考になりますからみんな必死で聞くわけです。
②結果発表の前に行われますから、結果にふれることは当然できませんし、明示することは避けるようになっています。参加校は必死でその手がかりを探そうとするのはやむを得ないことですが、あくまでも自分たちの演劇がどのように見られたかと言うことだけです。最も、審査員によっては踏み込んだ発言をする人もありますし、審査員が立ち位置を明示しますから、わかる人にはわかってしまう場合もありますけど。ほめられたのになんで落ちたーとか、くそみそに言われたのに何で選ばれたーとかいうのは意味のないことです。基本的にほめることがベースです。コンクールとはいえ教育と研究を明示している場ですからほめて伸ばすが第一義ですね。他校がどういう風に見られているのかを自校の参考にする程度にしましょう。よい点悪い点を指摘され改良の方向を示唆されたと言うことです。勝ち負けにこだわり結果の情報源にしようと耳をダンボにするのは講評を聞く態度では勿論ありません。
③当然中央審査員の演劇観がベースになります。やさしく説明する努力はしていますが、制限時間の関係や演劇観が自分たちとちがう場合は特に、聞いても何を言われているのかよくわからないとか、見当外れなことをいわれたと感じることは当然起こりえることです。審査員がすべて正しいと言うこともないし、自分たちの芝居が全否定されたと言うことでもありません。ちがうなと思えばもっともっと演劇の勉強してあんたのいうことはちがうだろうよといってやればいいだけの話しです。(その頃には当然審査員はいるはずもないんですが)。ようは 勉強の場だと言うことです。
エ  結果発表後の審査委員長の説明
これは以前はありませんでした。結果発表あってそれでおしまい。講評では当然結果については明示しないわけですから落ちた学校にとっては疑問やフラストレーションがたまります。審査への不信感も生じるときもあります。それを解決する為数年前からなぜ選んだのかを審査委員長が説明する場を設定したわけです。ただ、時間が非常に少ないので十分納得理解するというにはまだ不十分なところがあります。
オ 講評文について
従いまして、選んだ理由や、細かい評価を知らせるために各審査員に全校の講評文を書いてもらうことになっています。これも以前にはありませんでした。最近はかなり長いこと書くように要請があり結構参考になるだろうと思います。特に選ばれなかった学校にとっては大変参考になることがかかれるはずです。やってはいけないこと、やらない方がよいことを知るだけでも大きなプラスになるはずです。ブロックレベルでもそういうこと結構やっちゃってますから。全国でもやってるけど。また全体講評ではわからない各県審査員の立ち位置や評価やアドバイスがわかりますから、演劇観がちがうとこんなにも変わるんだと言うことを知ることを通じて演劇の多様性や可能性について思いをめぐらして欲しいと思います。ただ、限られた時間の審査を記述言語に直すにはやはりそれなりの時間がかかるのはやむを得ないことでタイムラグが出てきます。物理的にどうしようもないことなのでこれは仕方ないことでしょう。でも全校にこういうアフターサービスをしているブロックとそう無いはずです。その分審査員はひーひーいってますが。

カ 更なる改良のための様々な方法
くだくだと書きましたが、結局の所問題は、根底的にはコンクール形式をとっているところに尽きると思います。どうしても評価をして勝ち負けを決めないといけないのですが評価の基準が陸上競技のように同一でない以上客観性などいうものとは矛盾してしまう宿命があります。フェスティバル形式にすれば問題ないんですが、踏み切ろうとしても実は演ずる側からの反対が出てきます。モチベーションが下がってしまうこともありますが、実は、評価されたい、認めてもらいたいという意識が根強い。実例を挙げますと高知県で高校演劇祭という五月にやるフェスティバル形式の大会があるんですが、始まった頃は純粋に各校の演劇を発表して、生徒講評委員会がお互いに批評し合う大会で、ジョークとして変な賞をいろいろ出したりしていたのですが、やがて、それでは治まらなくなってきました。まず講師を構えて講評してもらうことになり、そうして、ついに講師に賞を決めてもらう事になってしまいました。なんのことはない、第二の県コンクールになってしまったわけです。これは、上演する側から出てきた要求に基づくものであるという事実からわかるように、コンクール形式に対する根強い信仰があることを伺わせられます。
 そういう現実があり、また実際四国大会がコンクール形式である以上、審査体制とその内実が非常に重要な課題となります。それは透明性や公正さを保証するのはもちろんのことですが、私的に考えると、それより切実な問題は高校演劇の多様性をいかに担保するかと言うことに関わってくるからです。考えてみましょう。同一の演劇観に基づく5人の審査員がいたとして(現実にはあり得ません)それで選ばれるっていうのはなんか気持ち悪くありません。しかもその審査員が固定しているとするならば。選ばれた演劇をああそういうのがいいんだと思うのは自然の摂理です。じゃあ、私たちもそういうのを作ろうと。これも摂理です。しかし、行き着く果ては高校演劇の死だろうと思います。緩やかな自殺。それは戦前の日本やナチスドイツの国策によって強制された文化のありかたであり、望北の国の将軍様などによって領導されるされる単一の価値が正しく、最上であり、唯一絶対のものであることを要求される文化の自殺と何ら本質的に変わることはありません。勿論高校演劇の現場はそういう状態にあるわけではないのですが、全国大会の流れなど見ていると緩やかではあるけれどそういう匂いがするのは否めないというのが私の考えです。文化は本質的に多様性を要求します。私は、以前から高校演劇の多様性を保証しどう担保するかが課題だと考えてきました。個々の取り組みは多様性が見られます。しかし、コンクールというシステムのなから組み込まれていくと、その多様性は徐々に狭められるのは自明です。ならば、システム的に少しでもそれを阻むためにも審査のあり方を多様性を保証し担保する試みが必要だと思います。今回の上演校の題名に引っかけて言えば、演劇の多様性という存在を殺すアポトーシス(コンクール形式においては避けられないシステム)を少しでも緩和する試みが必要であると思います。
 
キ これからの課題
 以上をふまえて、これからの審査の課題や提言について述べておきます。各県の部の顧問、各県事務局、四国事務局において検討していただければ幸いです。
 透明性はある程度確保されました。ただ透明性に関しては限界があります。公開審査にすりゃいいじゃんと思われる方がいるかと思いますが、それでは解決できません。なぜか。 
 見た目は100パーセント透明にみえますが、次のような欠点があります。審査員がお互いに意見交換するには、絶対にぶっちゃけトークが必要になるから、上演したばかりでヒートアップした出場校たちがそれに耐えられるかと言うこと。審査員としてはかなり教育的配慮をしなければならなくなり、発言内容に慎重とならざるをえない。結果審査の質がおちることが予測されます。
 それに実は審査というものはさあ審査ますよーと言うところからスタートするのではなくて、実際は各校上演後の休憩時間に交わされる雑談のぶっちゃけトークの中で様々な問題点やよい点がおのおの展開されある程度評価が定まっていくと言うことがあります。これが審査の核心であり、全国なんか特にそうです。缶詰にされているから夜の会まで延々と続きます。とにかくひたすら正式の審査会が始まるまで続きます。物理的時間の制限を回避するための事務局の要請でもあります。いやになるほど続きます。その中で様々な意見が交換されるわけです。だから、さあ審査スタートとい時は既にだいたいの実質審査がおわっているいってもそう間違いはないと思います。極端な話、全国の場合あとはポイントの投票だけと言っても言い過ぎではないと思います。
 時間の制約がある審査の持つ性質上、四国大会も似たようなものといっては誤解を生む危険性があるかもしれませんが、審査スタートの中で各個人審査員が述べるのは整理された審査の残りかすという観はあります。もちろん、それなりに意見の交換はありますが、それまでにここの審査員の中で形成されたものはそれほど変わりません(当然それまではここを選ぶよなんていうことは言いませんが、まあぷんぷんとにおいます。)。しかし、このぶっちゃけトークは審査にとってとても大事なもので、なにげに出てきたトークがああそうかというヒントになることが多々あるからです。構えてないぶん審査にとって大変有意義な時間と言うことです。ある意味、審査の核心部分といってもいいです。そういう現実を考えてみたらわかると思いますが物理的にも審査のすべてをオープンにするのは無理なことはおわかりになると思います。講評も講評文もだから整理され加工された製品と考えてください。審査とはそういうものなので審査過程の100パーセントの透明性を保った公開は原理的に不可能で、審査はブラックボックスにならざるを得ない性質を持っています。まあ、審査員同士のぶっちゃけトークを禁止すりゃ審査会しか発言できないからいいんでないと思う人がいるかもしれませんが、それなら少なくても審査の時間を今の三倍はとる必要があるでしょうし、また終演直後の生々しい判断をお互い交換できるという非常に大事な利点が脱落します。次々に見ていくとどうしてもこんがらがりますからね。それを考えると現在の高校演劇の審査のシステムでは、四国大会の審査は、とりあえず透明性が一つの到達点だと思います。
 では、私が考える次の課題は何かというと、高校演劇の多様性を担保するために審査はどうあればいいのかということです。前述しましたように多様性が確保木偶無ければ高校演劇はやせ細ってしまうという強い思いがありますので、審査をどのようにしたらそれを保証する場となるのかを考えていくと前述したとおり、コンクール形式である以上、まずは審査員の演劇観が多様であることが望ましい思います。どうしても選抜された学校のお芝居はいわゆる「手本」になってしまうからです。明確に自分たちのやっている演劇に対する確信や戦略を持っている学校なんとそうあることではないですから。これは地区や県レベルでの審査にももちろんいえることです。むしろそちらの方が大切かもしれません。
 さて、四国ブロック大会に関して言うと県審査員の流動性が乏しいことが多様性を妨げる大きな原因の一つになっていると思います。まあ最終的決定権がないからかまわないともいえるが流動性を高めるにしくはない。
 乏しい原因の一つには小さいブロックですから、審査員をやる適性(そんなものがあるとしていったいどんなものが考えられるか考えてみてください)ある?人が少ないと思われてること。まあ、しんどい仕事ですからやるひとあんまりいないんで、あのひとにやらせといたらいいんじゃないというところ(私はここには書けない負い目でこれに縛られています・・・トホホ解放されたい。)、どうしても固定化してしまう嫌いはあります。
 んでも一つはどうしても私を含めておじさん(おばさんは居ませんが、この時代おばさんも出てきて欲しい)が多い。中央審査員は結構若い人が来るんですが。まあ、おじさんはこれでも現役時代はそれなりに頑張ってるんで、利点というと、知見はたぶんあるはずだし、目配りができること。だが、続けていくとどうしても出場校を見て又あそこかやとおもい、それ以上に 出場校はまたあいつかやとおもう。これはまあどうしてもそうなる。仕方ないことだが、お互い不幸だ
 もっとも、上演の場は部員たちにとって訓練の場であると同じく、審査の場は審査員の訓練の場でもある 審査員も成長する 私の場合もそうで立ち位置や見方はは変化し、深化していく(たぶんそのはず)。以前審査した大会を今審査するとかなりちがった結果になるなという変な自信がある。それでもやはり流動性は少ないのには変わりなく、結果として多様性を育てる可能性が狭まることになる。
 何とかするためにはいろいろなことが考えられる。アメリカ大統領のように同一審査員の任期は二回までとか、何回もできるけど何年か間をおくとか。ある程度はカバーできるが、前述したように適性?ある人がほとんどいないと思っているところとか、人気終わったらつかいまわししよとか、いろいろ出てきてこれはこれで少しはちがうけれど、不十分なところができる。それでも各県でずれていくから組み合わせがかわりそれなりに効果はあるだろう。
 だけど、今やるべき演劇とかや、実際に担っている現場を重視し、それぞれ自信の主体性をもって演劇の多様性を展開していくことを考えると別の選択肢も考えられる。表現は人に言われてああそうですがそれに習うというものでもない。自らの主体で苦闘しながら構築せざるを得ないものであるし、また、演劇観を教育する場としての審査の機能を考えると現役顧問自身による審査ということ有力な選択肢だろう。全国大会の顧問審査員はそれだし、四国大会でも私はそういう体験をした(ひどい羽目にたたされてしまいった結果、四国ブロックにある提案をして結果今に至ったが事項があるがそれは又別の話) その経験は確かに演劇を見る目を養ったことは間違いない。県コンクールで地区大会を開いているところは多くは他地区の顧問による審査が行われている。審査員を招くと謝金等が必要になり、現役顧問だと必要がないという経済的理由もあるのだが
 弱点はいろいろ考えられるが(ちょっと考えてみるとよくわかります)それ以上に、いま現実にやっている顧問たちが自分たち自身で自分たちの演劇をどう見ていくかと言うことを直接的に学ぶ意義は大きく、それが各県に貫流されれば大きな力になっていくはずだ ただ負担は大きいんですよね。でも意欲的に取り組む顧問が多い四国ブロックなら意外と生けるのではないかと思います。結果的に多様性につながればやったねというところ。文化は唯我独尊でいいんです。ただ、俺の演劇や表現には絶対自信もあるけど、あんたの演劇や表現もなかななかなかやるのうという客観的な認識を助けることが肝要なんです。自分たちの演劇に自信や確信や責任を持てない顧問ほど適任ではないかと私は思います。私自身そうだし、第一わあわあいってぶっちゃけトーク楽しいですよ。老兵は死なずただ消えゆくのみです。



● 【各校講評】

●小松島高等学校「補習授業は暑くて長い」

  準備室の装置を丁寧に作っていたが、劇の内容から見て空間として微妙な広さ。というか、補習授業にやってくるファンの生徒たちが多すぎて、普通の教室での補習かと思ってしまった。もう少し少ない人数で十分やれるのではないかなと思う。裏を返せば不必要な登場人物が多すぎる。キャストが多いせいもあるだろうが、全体的に登場人物の人物像がちょっと弱いと思う。もう少し生徒役をコアなファン層に絞りそれぞれを掘り下げたらもっと明確になると思う。
 さらに言えば、このお芝居は、青山先生をめぐる物語として見ていいと思うのですが、この造形が結構曖昧です。なんでそんなに生徒に慕われるのかがよくつたわってこないし、。熱心な教師のはずが何であっさり転身するのかよくわからない。青山先生にたてつく、ネトウみたいな生徒もなんか結構公式的発言で終わってこしくだけだし、「対立」があるようで実はそのあたり曖昧でなし崩しでごまかされてしまう。キーになるギルガメッシュの叙事詩のように登場人物の立ち位置が「すべて風にすぎない」でおわってしまうのはちよっといかがなものかと思う。全体的にそれぞれの立ち位置がふわふわしていて劇の構造を弱くしている。まあ現実の人間ってのはそんなものだといってしまえばそれまでだが、その曖昧さを追求しているかというと、そういうには少し無理がある造形や構成なので、お芝居として構築するばあいにはやはり弱点となると思う。「自分らしく生きたい」と言うのであれば、もっと人物造形を掘り座蹴る必要があるのでは無かろうか。
 始まりの黙祷部分、生徒たちが客席にケツ向けてるのはおもしろいが、そのあと誰が何を言っているのかよくわからない。時間経過も微妙にわかりにくい。台詞では何となくわかるのだが、夕景と、曰くありげなシーンの照明がほとんど同じなので混乱する。雷のシーン、音で客席で見ていたこちらはびくっとしたが舞台の上の登場人物たちは平然としていた。肝っ玉が太すぎです。

● 【高知追手前】「戦場のピクニック」

 いま、このときに、是非訴えたい、いや訴えるんだというものが明確に全員の共通理解としてあり、その意志を強く表明したお芝居だったと思います。しかし、そのことが強く、直接的に出てきたために、表現としては失敗してしまったと思います。すなわち自分たちの持っているものを表現するための戦略と戦術が失敗、あるいは無自覚であったと言うことです。
 それはどういうことか。まず、題名の持つ意味合いから見てみます。「戦場のピクニック」。「戦場」と、「ピクニック」まるっきり反対の語感がある言葉が「の」で結ばれています(「と」でない事に注意してください。)。「ピクニック」が「戦場」に包摂されています。本来、凄惨な死をもたらす戦場の中に、生の楽しみの一つであろう行為の「ピクニック」が包み込まれる。統合されたこの構造のイメージは結構グロテスクであり滑稽であります。この構造が不条理を生み出しています。悲惨であるはずのイメージの中にほのぼのとした、あるいは愉快なイメージが混ざり合う。これは笑えてしまうグロテスクなお芝居だともいえ、まさにその笑えてしまうというか悲しすぎて笑うしかないグロテスクな不条理が、今でも各地で展開されているのが「現実」といえます。そう考えると、このお芝居の構造を生かすには、戦場のイメージをきちんと構築することと、それ以上にどれだけ、ピントがずれた愉快な行動をくり広げられるかが。ポイントとなるはずです。その対比が観客にとって、いたたまれないほどグロテスクに感じられれば感じられるほど、この劇の持つ意味が観客に深く浸透していくことになります。
 だから、戦略的に言えば、幕開きの最初のシュプレヒコール(口調からしてそうですね)はやらない方がいいと言うよりはやってはいけないレベルになります。なぜか。自分たちの表現のもつ意味を、劇本体が始まる前にいわば強制的に説明してしまうことになるということ(叫ぶことは当然強く意志を押し出すことですね。デモなんかのことを考えればわかります)。それでは、その後の劇の本体の意味が無くなりまし、表現として逆に非常に弱くなる。前述したこの劇の構造を考えれば戦略的失敗といってよいかと思います。
 戦術レベルで言えば、まず、第一点として「戦場」の空気が希薄であるということ。観客がぱっと見てここは「戦場」という空気をかんじさせれば、あとは多少いい加減でもまあ何とかなります。具体的に言うと、まずは装置。砂嚢をおけばいいというものではありません。ここはもう少しリアルさにこだわるべきでしょう。塹壕やトーチカなどの積み方のようにきちんと積み上げる。その上に網を張る(迷彩状 まあ手回しの蓄音機が出てくるからここは第一次世界大戦時の写真参考がよろしいかも)鉄条網を演技の妨げにならないように張とか。それと何や怪しげな十字架は暗示かもしれないけれど不必要でしょう。まあ、それぐらいだけでも空気が今よりかなり出てきます。衣装的にも衛生兵にもヘルメットをかぶせる事を忘れないように。第二点として、ピクニックの愉快さが弱かったこと。視覚的な部分から言うと、お父さんお母さんはもっと晴れ着っぽい方がいいし、日傘もできればもう少し大きい方がいい。敷物もちょっと地味。戦場と全く対極の晴れやかさ、のどかさ、愉快さをできるだけ醸し出したい。演技的な面でいうと、そのコミカルな楽しさ、明るさが弱かった。まあ普通に考えればナンセンスな話なんで、そのナンセンスさを際だたせないとお芝居が生きない。お父さん役を女の子がやっていたのは痛いけれど部の事情だろうから仕方ないとして、お母さん役を含めてすっとぼけた愉快さをもっともっと出さなければならない。中でも一番惜しいのは大詰めのダンス。明るく、愉快に、できるだけ大きく、ばかばかしく、陽気に盛り上げ、一種のグロテスクさを生み出さなければラストの銃撃と衛生兵の持つ現実が生きないし、劇の本質が立ち上がりにくくなる。その意味でまだまだ努力する余地があったといえる。なお、衛生兵の「お、これで死体が手に入ったと」の表情が余りよくわからなかった。アクションにするとちよっととも思うし、ただ立ちすくんでいるだけの印象を受けたことを思うと、幕のタイミングと合わせてもう少し工夫の仕方があったかもしれない。
 いまこのとき、なにをやるべきかという嗅覚は鋭いものを持っている学校なので、それを表現として提出するとき、何をするべきかの戦略と戦術に十分注意していけば、もっともっとよくなる可能性を持っていると思います。

● 【坂出】「全校ワックス」

 丁寧にやっていました。上手から下手への廊下のワックスがけ。舞台前面の廊下という場が設定されていて、左右の動きの面白さが醸し出す効果が生かされていたと思います。ただ物理的な制限上舞台の端から端までしか使えないわけですから、どうしてもこの間お芝居の構造上、ちょっと弱点を抱えることになります。
 どういう事かというと、広すぎてやってもやってもなかなか終わらない(まあ、廊下の端という台詞がありますので廊下にするのですが。)作業というのがこのお芝居の大事な鍵の一つでありますが、演技の進行状態を見ると、どうグダグタやったところで10分以内に、実際に(観客に)見えてる部分はちゃっちゃと終わるだろうと思えてしまいます。上下に伸びる校舎の端から端までの長い廊下という設定を、その広さを観客に明確にイメージさせないといけないのですから、なかなかの難題です。解決法として、空間の広さで作業が終わらないことのかわりに、様々なアクシデントや齟齬を持ち込みできるだけ完成を遅らせるようにして、その遅延の構造をもって広さに置き換えている訳ですが、それでもやはりちょっと不十分なのは否めない。
 なぜそのイメージを明確にしなければならないかというと、お芝居の核心が、その広さをワックスがけで埋めていってしまう中で、最終的に身動きできないほど小さい島のような孤立した部分に閉じこめられてしまう所にあるからです。もちろん、途中ダンボールをしいて通行を確保したり、足跡つけちゃったり(これはラストの伏線でもある)という裏技を使うような場面もありますがそれでも最終的にどうしても閉じこめられる必要性があります。そして、山場の告白ごっこを迎える。偶然に割り振られた、てんでばらばらのそう仲良くもない私たちが、いやも応もなくぶーたれながらそうやりたくもないワックス塗りという共同作業をする。その作業のなかで、なにか一つになり、お互いが少し好きになり、しかしというか必然的にまた共同作業が終わるとてんでばらばらになっていく。だがラストの方の台詞にあるように「みんなのこと、好きだよ」という変化が確かに生まれる。そうして、それぞれがまだ乾いていないワックスがけの上に自分の足跡を確信的に記していく。その事を考えると、できるだけ狭い箇所に閉じこめられる必要があるし(それは私たち個々の存在の表象でもある)、それに反して綺麗にワックスがけされた、いわば秩序の整然とした現実の広さはできるだけ広い必要がある。私たちはその広い現実の中に自分の足跡を記しながら歩いていくしかないからです。
というわけで、空間の対比が弱くなったと言うことと、身動きできないスペースが、意外と広くとってしまった(計算違い)ことと、不自由な身体にたいする広い空間が明確に対比されるには弱くなったと言うことです。この対比がより明確になればよりよいものになったとおもいます。
また、演技的には、もう少抑制した方がよいのでは。かなり押さえてやっていたとは思いますが、それでも元気があふれていました。特に前半もすこし投げやりでだらだらとした雰囲気があるとより効果的であると思います。生み出されるユーモアもくすっとするレベルに押さえたほうが状況が生むおかしさという感じが余計出てきてこのお芝居の彩りを豊かにすると思います。あと、作業自体の組み立てがちょっと雑かなあ。どう見ても塗り残した箇所があった気がするし、同じとこを何回も塗ってた気もする。ここらあたりは精密にしないといけないかな。少し気になりました。しかし、余り派手なお芝居ではないですがそれを誠実にやりとげていたことはきちんと評価されるべきだと思いました。

● 【松山東】「海がはじまる」

 脚本の趣向がだまし絵の様なミステリ的で面白い。舞台上で生身の役者がやる分、ついだまされる仕掛けになっている。推理小説で言う叙述トリックのような趣。登場人物以外の校長とかはエア役者扱いだからどこまで本当にいるのかいないのかがわからない。うまく利用していて、思いつきそうでなかなか思いつかないアイデア。なかなかやるなと感心した。しかし、その仕掛けを除くとちょっと踏み込みがもう少しあってもいいかなと思う。ボートレースを核に話しはテンポよくすすむけれど、そのテンポの良さがある意味災いしていじめの問題など単なる記号になってしまってるはちょっと痛い。また、幻のボートレースが幻想であるとを知らしめるための現実が侵入するが、「先輩」を持ってくるのはうーん、微妙。ちょっと都合がよすぎる存在かな。説明役でご苦労様という感じ。まあ、他者を引っ張り込まなきゃ、当事者間でだけでそれを明らかにするにはかなり難しい手続きになるのでむりもないか。いずれにしても、、転校生、虚言癖、いじめ、エトセトラが劇の構造の中に余り絡んでこず表層的な意匠としてしか機能していないきらいがある。現実を拒否した漫才風の軽い会話ののりは楽しいけれど、どうしても傷をなめ合うような観がしたのはこちらの歳のせいか。ラストもまあそうやりたいのはわかるけれども根底に潜むものに対峙するにはちょっと逃げの様な気がした。それも戦略かもしれないけれど。でも、きちんとほりさげればたぶんこの脚本はずいぶんちがう形になったと思う。やりにくくはなっただろうけれど。惜しいところは、せっかくのだましが構造でなくて語り口で終わっていたところだと思う。いじめを持ち出さなくても、幻のボートレース限定で、ほんとにあったのかないのかわからない疾走感で最後まで突っ走った方がもっと面白かったかなと思う。
 演技面でちょっと気になったこと。何かをトレースしている様な感じを受けた。こちらの勘違いかもしれないけれど。各自の、あるいは一つのお手本がありそのお手本を再現している感じを受けた。勘違いならごめんなさい。
 


● 【城の内】「三歳からのアポトーシス」

 思うに料理は演劇に似ている。レシピ(脚本)があり厨房で料理人が(演出)が素材(役者、装置、医師用、音響、照明、小道具などなど)を手順によって料理して客(観客)に出す。客はじっくり味わって「うーむ、まったりとした味でよいでんなー」とかなんとか適当なこと(感動)をいってかえっていく。これは煮込み料理かな。なんかチョコレートはいっている闇鍋や高知の仙人料理のテイストに似ている。ちょっとおぞましくけれどなんか気になる。
 一見、観客にわかりやすいありふれた日常も等身大もクソそもなくストーリー性の脈絡もない、あたかも手順書か備忘録かのような様相を呈しているわかりづらい脚本から生まれているこの表現は、観客の感情移入を意図的に拒否しているかのようにみえるが、それでもやはりお芝居という料理になっていると思う。畑になっているトマトやキュウリをかじるのは料理ではないけれど、でも、包丁で切ってお皿にのせて出すとそれは料理になる。ドレッシングでもかけると立派なサラダの一品となりおいしいと感じる。それと同じように、やはりこれも演劇であろう。少なくとも私は、様々な思考やイメージや、情動を上演中刺激され続け、おいしく堪能した。
 というわけで、ちょっと長くなるけれどまず脚本の解剖から始めます。なにか小難しくよくわからないことを舞台の上でやっているこのお芝居が何を表現しようとしているかを考えてみましょう。とりあえず、観客の多数が、難しさ、訳のわからなさを感じる大きな要因なので、そこらあたりから考えてみたいと思います。講評文としては少し脇道にそれることもありますが、ご容赦を。
 題名からまず見てみましょう。「三歳からのアポトーシス」。意味不明のようでいて実はある。当然ですね。昔から言われている三つ子の魂百までとか七五三とかでもわかるように動物から子どもへすなわち人へ到達した段階、脳細胞の基本構造がほぼ完成する年齢です。それまで発達してきた意識が、自分と他人を見極める為の自我が自我が生まれる段階といえます。「私」が脳の神経細胞のネットワークの中に生まれる時です。
 題名はこの「私」が生まれたそのとき「から」、アポトーシスが始まるとしています。アポトーシス、聞き慣れない言葉ですが「細胞の自然死(自発死)」のことで、あらかじめプログラムされている細胞の自滅死で、落ち葉なんかそれにあたります。個体が生き延びるは不都合な細胞があった場合、オタマジャクシの尾っぽ、ガン細胞などプログラムが発動されます。まあ、自己犠牲ですね。有性生殖をする生命が、遺伝子の組み合わせで異常な個体が生まれると種自体の存続が危うくなるのを防ぐため、生まれたときから細胞にプログラムされている。と、まあ、お勉強したところで、作者がこの題名に持たせた意味合いが何となく浮き上がってくる。ここでは、「私」というものが生まれたときに既に「私」のアポトーシスは組み込まれ、発動し始めているという認識があると私は思います。
 もう少し、考えてみましょう。
 自我がなければ私を私として認識することはなく、そうして私が消滅することも認識することはない。さらに、私というものは脳の生み出す電気信号が生み出すものであり、世界は脳が認識した個々のいわば幻に過ぎず、生まれた私は脳の内部に幽閉されたなにかであり他の人々もまたそれぞれの脳に幽閉されたなにかである。その意味で私は肉体という牢獄の中に幽閉された絶対的に孤独なただ一つのなにかであり、ほかのなにかと交換できるものでもない。しかも、その私は、生命体として連続した流れの中で、お互い対になったものの中からうまれたなにかであり、またほかのなにかと対になってあたらしい絶対的に孤独な何かを生み出す営みを続ける。いわば断絶と連続の狭間に私はいる。
 さらに、自我を持つなにかはいやでもその何かの持つ意味を考えざるを得ない。偶然によって生み出されなにかはやがて消滅するしかなくその冷厳たる事実を受け入れざるを得ないことをしっているからよけいに。そうして、では私の生まれたそのわけは何か、なぜ生まれたのかなぜ私はここにいるのかと問い始める そうしなければとてものこと絶対的な孤独に耐えきることはできないからだ。意識は持っていても猫はちがいます。日だまりの中にゆったりとその生を充足する猫は自らの消滅を知らない。知らない方がいいこともあるというのは本当のことかも知れません。やがて私が絶対的に消滅し何も無くなるのだということを認識できると言うことは、だからこそ今生きる生を充実させることだというお題目を聞いてもそれだけではとても納得できるものではありません。だから宗教が生まれ哲学が生まれたのでしょう。
 猫ではない何かに偶然によってうまれてしまった何かにとって、このような認識はある意味非常に苦痛なもので、しかもその何かは絶対的な孤独の中に閉じこめられている。その苦痛をなんとかして乗り越えようとその何かはあがきます。あがかなければとてもやりきれなく切ないものがあるからです。意識が生まれ、複雑化して、「私」を認識した瞬間、それは、まさに消滅へのアポトーシスが発動した事を認識し始める瞬間でもあります。この作品は、私の認識とそのあがきを描いたものだと思います。だって主人公らしいなにかの、唯一固有名詞で示されるものが般若豊(「死霊」を書いた埴谷雄高の本名)ですから。
 さて、この脚本はやたらと情報量が多い。多すぎてその海におぼれそうになる。しかも、日常的な事象の情報量でなく、抽象的概念の情報量を一時間の枠内にむちゃくちゃ詰め込んでいます。ぼけーっと見てる観客にとっては理解させる意志や行動をとっているとは思えないほどに。こうした概念は理解している人にとっては結構意味を持ちますが、そうでない人にとっては意味不明のお経みたいなもので(そういえばお経の一節もありました)、しかも音声言語として聞くわけですからなおさらにBGMのようなものとしか聞こえない。音として聞いているが、意味不明という感じになります。台詞の総体がいわば呪文のようになり、いわば舞台上の曼荼羅を見ている私たちの周りでうずまく「声」ないし「音」になっていると思います。こうした、台詞の持つ意味の明晰さが失われていることがわかりにくさの大きな原因でしょう。最もこれは確信犯的にやっていることだとは思います。それは、どうしてかというと、ストーリー性のある(なくてもいいですけれど)人間の行動を中心においてその変化や関係の意味を読み解かせる演劇とは違う種類のものだからです。いわば、人間の思惟そのものを表現しようとした、ある意味解剖図や縁日の見せ物的な「表現されたもの」だからです。
 しかし、台詞で何を語ろうがどうでもいいというわけにもいけないので、以下、脚本の流れに沿ってお芝居のポイントを少し詳しく見ていきます。
 冒頭のト書き。「配役と呼べるものはない。ただ人のような生き物があるだけである」とあります。まだ人ではなく、「のような生き物」というところが味噌でしょう。まさに三歳で人になるその瞬間。そうしてさらにそのあとのト書き「外界につながりを持ち得ず、ただ生き続けるかに見える『それ』は確かに生を感じていた」とあるように、自我が生まれるそのとき、私たちは生きていて、感情もあります(感情と意識はちがいます)。直前のト書きにもあるように「『それ』は確かに生きていると自身感じていたのだ。感じるとはなんだろう」とありますが、まさに感じる段階なので、それがやがて「私」を意識すると同時に、それはまた「外界」を発見します。私を認識することは他者、世界を認識することでもあるからです。「『実存』の根源は認識である」とト書きにもあるように、こうして、お芝居が始まります。
 脚本は5章に別れていて、副題が小論文のようについています。長くなりすぎるので以下では抽象的概念は核となると思われるものだけを取り上げていきます。
 1章「生産と死のアレゴリー」。アレゴリーは寓喩、象徴。何を象徴させているのだろうか。ト書きに「光が差して・・・人間に当たる」「私?私とは誰?」とあるように、自我の誕生と考えてもよい。さまざまな声が聞こえなにやらむつかしいこというけれど、ようは「存在が認識であることを示す」というわけで「それ」は世界と「そこへ歩いていくんだ」と、「私」と世界への旅を始める。
 子どもの靴が片方示され。ラストへの伏線。妊婦が登場する。そうしてタマゴが産まれる。世界のタマゴ、私の認識。しかしタマゴは割れている。さて、私が認識する世界はどのようなものか。
 2章「世界の果てを見たものの話」。牢獄の中に閉じこめられた「男のようなもの」と「サル3」の思索的な長台詞が延々と展開される。でもって、唯一固有名詞が出てくる。「男のようなもの」とされているが、「私」こと般若豊。埴谷雄高。ドストエフスキーに影響を受けた異形の小説家にして政治・思想評論家。未完の小説、観念的議論が延々と展開される「死霊」を書いたストーリー性など全くなくて、ライトノベルになじんだ今時の高校生で読んでるやつがいたら末恐ろしい。ある世代にとっては畏敬の念と共にコアな共感を抱かせる。ちなみに私は「死霊」チョロ読みで挫折している。評論はぼちぼち読んだ。大きな図書館にはたぶん評論含めてまだおいてあるはず。興味がある方は読んでみてください。「幻視のなかの政治」は面白かったことを覚えています。中身はわすれたけれど。。。話しがずれましたが、「存在」の意味を追求した実在の人物をあえて登場させていて(思想犯で豊多摩刑務所に収監されていたことも含めて)あたかもそれに仮託したような作り方だが、登場させる必要はあまりないと思う。まあ、ほとんどの人にはなじみのない人物だろうから、影響はないかも知れないが、脚本的には違和感がある。少なくても、このお芝居の場合には、実名を出さなくてもよいと思う。いずれにしろ「三歳です」といっている以上、認識のスタートであるわけだから、獄中で実質歩き始めた彼の事実があるにしろ、お芝居として提出するには、一般的な「私」でも十分だと思う。「存在」を考えるためにその象徴として出してきたのはわからないでもないけれど。
 ここで展開される台詞群は結局の所、牢獄の中に閉じこめられた「私」が唯一「外部」へと通じる「外気口」(通気口となっている部分もある)を通して、いわば脳内に絶対的に孤独なものとしてとじこめられた「私」が、「外気口」を通した「私でない外の存在」へのつながりを模索すし、「存在」とは何なのかを「認識」しようとする行為を表現しようとしたものだと思える。観客にとってこの部分はほとんどBGMに近い。眠気に襲われる人もいそうだ。内省的な台詞は役者の身体の支えがないと無意味綴りに近くなる。内省的思惟を本の形に書き留め、それが「サル3」に拾われ、の淡々とした朗読の形で、いわば全場面一つの台詞を分割し、それを少しでも回避しようとしていたが、やはり不十分というより無理は否めない。牢獄の装置と照明効果等での視覚的工夫もされてはいるが、台詞の迷宮の中でおぼれている。そうして、以降、「男のようなもの」は台詞を失い、ただ、もだえるだけで、バトンは「通気口の隙間を渡る風」を受けるサルたちへと渡される。認識への道は遠い。(ちなみにセファランチンは結核の治療薬。埴谷雄高は結核のため兵役を免除されている。)。母に関する台詞も展開されているけれど、生命の連続性と母性が一つの鍵とする伏線の感もある。読み過ぎかも知れない。
 第3章「アポトーシス」人以前のサルたちの会話。前半はただ欲望のままに生きているサル的な(?)存在。後半、風にあたりでもしたか「かじぬうた(かぜのうた?)」をサルがつくる。島唄風(ほんとの島唄かも知れないけれど素養がないのでわかりません)だが、別にどこのものでもよい。ようは、歌をつくり、世界の姿を認識している状況だろう。まあそういうシーンとして見ておく。皮肉だけれどサルたちはしあわせたがアポトーシスの始まりでもある。
 第4章「自発的対称性の破れ」。さて、「私」の認識が始まるとそれは同時に「他者」を意識することにもなるし、絶対孤独の「私」をとりまく、「世界」を意識することにもなる。そうして、「私」とは何かをさらに問わざるを得なくなる。消滅せざるを得ない「私」がなぜ今ここに存在するかという理由と意味を問うことは切実なものとなる。片方の靴が再び現れる。たぶん「私」であろう。片方だけでのそれだけでは意味も存在理由も持たない。ただそれはあると言うだけの意味でしかない。意味と理由を持つためにはもう片方、「対」になる靴がなければならない。本質的に初めてと言っていい対話が現れる。そこで扱われるのは自発的対称性の破れをめぐっての考察である。自然界にある現象で 素粒子物理学に南部陽一郎さんが持ち込みノーベル賞をもらったの概念でのちにヒッグス粒子の発見につながりました(ニュース覚えてるかなぁ)。頭が痛くなるけれど、以下の引用を読むとわかると思います。
  「洗濯物をラックに掛けるときに、最初のシャツを右向きに掛けても左向きに掛けても構いませんが、一度右向きにしてしまうと、何となく次のシャツ も右向きに掛けたくなり、最後には全てのシャツが右向きに並んでいる、ということがあります。つまり、右と左を入れ替える「対称性」が「自発的に破れて」 しまいます。「対称性」とは「どちらでも同じ、構わない」こと、しかし全体を見ると(なぜか)自然とどちらかを選んでしまっていることが「自発的対称性の 破れ」です。同じように人間に右利きが多いのも、心臓が左側にあるのも、本来どちらでも良かったはずで、生物の進化の中で自発的に対称性が破れてきた結果 です。中性子星の内部、実験室の超流動・超伝導物質、冷却した原子のガス、そして宇宙に満ちるヒッグス粒子も、自発的対称性の破れの例で」引用 東京大学国際高等研究所カブリ数物連携宇宙研究機構のネットから。あるいは、「法則が「均一」「等方」などの対称性を求める系に非対称が現れること。温度低下に伴う相転移でよく見られる。非対称の向きは偶然のいたずらで決まり、全体に及ぶので自発的に見える。」引用。知恵蔵
 んで、だからどうよと。演劇の場であるから、当然比喩的に使われているわけで、ここでは、宇宙、すなわち私を包摂する世界を生み出す(ヒッグス粒子は質量を生み出す)あり方なんだという程度にしておけばよろしい。役名のポゾン、フェルミオンも素粒子の分類ないしは名前。「この場が冷え切って低温状態ですから」とか言う台詞も宇宙生成と関連している。カイラル対称性の自発的破れも質量の発生に関係する。ということは、この章で語ろうとすることは、すべて、量子力学の概念を緩用して宇宙、世界の生成とそれに包摂される「私」の持つ意味その事に対する認識を語ることであろう。
 片方の靴に示されるように、もう一つの対になるものを探しているかのように思われる。自発的対称性がこの世界を生んだとしても、私は孤独であり、そうして、生命である以上、どうしても二項対立のような対称性の連鎖の中で生まれざるを得ない。「あなたが男で、私が女、ただそれだけのことじゃない。そうでなければ、私たちはこうして会うこともなかったんだから、「人は」なんてひとくくりにしないで欲しいわ」という台詞があるが、私はひとりではあるけれどしかし、私が存在するためにはひとりでは十分ではないのだ。そうして、自発的対称性の破れだけでは私の存在が納得できない作者は「幻想子」という概念を提出する(これ作者の創造したものだと思うんですがちがってますか?ちがってたらごめんなさい)。「意識化された認識と、潜在的な、いえ潜在されてさえいない認識」の宇宙を支えるもの。「我々はどうして夢をみるのでしょうか」というせつない表現があるが、これが「私」の存在をささえるものとして提出されているようだ。対称性を保ちながら、なおかつそれでも宇宙、世界が存在する仕組みを探そうとしている。それほどまでに「私」というのは孤独なのである。その認識した世界は「重層化された曼荼羅」。対になるべき絶対的孤独の中にある「片方の靴」が夢みる世界。宇宙の全体図である。「他の存在へ変わろうとしている。救いではないですか、これは。」と台詞にあるが、救いを求めなければならないほど「私」は孤独なのだ。「それ」は、もがいて私の意味と理由を探し「ガンダー・・」を希求する。「対称性を維持したまま」世界は存在し「「それ」は二項対立の中点に安定する」救いは得られたのか?
 第5章「赤い花」。ト書きに「あらゆるものが凍てつく表現の零度」。宇宙がある絶対零度の世界である。子どもは言う。「まだ空はつながっていないもの」「ぼくは何ともつながってないよ」。女が言う。「この世の中にあるものはみんなどこかでつながっている。」と。子どもは根源的な問いを重ねる。「ぼくはどうやって生まれてきたの?」。この子は「おなかの中が空っぽの夢をみたんだ」、そうして「おなかの中に、いっぱいお肉を詰めた」。アポトーシスが発動し、四歳になった子どもは新しい認識を詰め込みそうして生きる。それに対応するかのように「それ」は立ち上がる。「私」が始まったのだ。それは、「動的な熱さが生命の証」とあるように、世界の「静止する粒子の冷たさ」に対立する認識でもある。「死んでも誰かに変わってまた生まれるのです」。「だってそこにいるんだもん」とあるように、「私」はただ存在するだけで、そのことに孤独である意味があろう。私は孤独ではあるが、対になるものとの連続性の中に確かに存在し、世界はそれを包摂する。そうして、「それ」は片方の靴とともに、連続する対なるものと結びつけられなから、赤い花の夢を見る。生きているように見えるそれはたぶん世界の曼荼羅だ。中森明菜の楽曲は情報としてちょと付け足しのくどさがある。やりたいのはわかるけど。ガンダーラの楽曲とほぼ同じレベル。
 おもわく、長くなりまして、余計わかりにくいかも知れませんが、私はこの脚本をこう読みました。いろいろと難解な概念もありますが、結果的には意外とシンプルだと思います。私とはなにか。消滅すべき存在である私の意味は。そうして、世界にとって、私は、あるいは私にとって世界とはなにかという認識。ということでしょう。その解を、最終的に消滅すべき私を越えていく、対称性の破れが世界そのものだとしても、あえて対になるものの連続性の環に求めたのだろうと思います(ちがってたらごめんなさい。でも私はそう読みました。)。これは、私の認識と似通う部分がありまして、私の作品にも実は同じようなものがあります。最も私はストーリー派ですから、形はちがいますが、どうしても認識そのものをお芝居の形にしようとすると説明になってしまい手こずってしまい、うまくいったかどうかは怪しいのですが。
 さて、実はこれからが講評の本番で、舞台上で表現されたこの作品をどう見るかを書いていきます。
 脚本で展開された表現は、それをささえる重要な要素である記号がてんこ盛りと言っていいほど盛り込まれ、正直1時間で観客に提出し、なおかつ観客がそれを消化するという期待は望めません。なぜかというと、まず一つには、提出された記号が観客にとって余りなじみのない理系的記号であることです。演劇は音声的記号と視覚的記号、身体的記号が組み合わされ時系列的に展開されるもので、普通は、観客としては音声的記号すなわち台詞の中に存在する、重要な意味を持つアイテムを理解の手かがりとしていきます。発声がまずくて台詞が聞き取れなかったという批判を受けて、こけてしまうのはよく見られることですね。すなわち、発声の明確さもさることながら、音声記号としての台詞の意味が観客にわからなければがどうしようもなく、音声的記号が理解されなければ意味不明の単なる呪文かBGMになってしまいます(等身大の生徒がしゃべりまくるお芝居はその点楽だということはわかると思います。)。特にこのお芝居は、音声的記号にその重要な部分を負っていますので、観客の持つ理系的事象の理解についての素養が余り期待できないこのお芝居は最初からハンディを持っています(たとえば「自発的対称性の破れ」について観客が理解している等と言うことはとうてい望めませんから)。もちろん、台詞だけではわからなくても、視覚的記号や身体的記号を駆使してつたえることは可能であり、このお芝居でもたとえば視覚的記号として、檻とかチューブの連結あるいは切り離しとかありますが、それでも圧倒的に不利です。さらに、今ひとつの大きなハンディは身体的記号が明らかにその力不足を露呈していたことです。役者の身体性とよく言われますが、役者が台詞を支え切れていないのはいなめません。もっとも、「自発的対称性の破れ」をささえる身体性を持つ役者がそうそういるとも思えませんが。
 そうした、ハンディを持った作品を舞台で表現するためには、どうしても、既存の高校演劇でやっている演劇的なコードではとても無理ですから、あえて確信犯的にか、結果的にかどうかはわかりませんが、写真や絵画とは違い、舞台はとにかく時系列的に展開するしかない物理的制限がありますから、記号をそのまま、展開するしかなかったとと思います。展開する順序の問題や選ぶ記号の選択はありますが、それでも、見た目とは違い、シンプルな論理性に従いくみ上げていました。結果として、それは、ごった煮のような料理にはなっていますが、通してみるととにもかくにも曼荼羅のようなというか、見せ物というか、一つの絵として構成されていたと思います。見ている観客は、そのときそのときのピースに刺激を受けイメージをふくらませる訳ですが、この作品の限界というか問題は、どうしても静的なものとして見るしかないと言うところです。勿論、こちらの心を動かす力はあるのですが、できあがったものは、「私」と「世界」をめぐる認識の提出という一枚の絵であり、いわゆる演劇的なもの 関係性や変化、俳優をふっとばしてなおかつそれでも成立し得ているものをいったい何と呼ぶか。言葉はきついですが「演劇のようなもの」としてしかいえない「表現体」とでも言うべきものであったと思います。
 それにもかかわらず、この表現を押したのは、一つには、突出したイメージを喚起する力を持っていたと言うことにあります。こけおどしの様な仕組み方をしていますが、それでもなお、私たちが持つ根源的な疑問、「私とは何か」「なぜここにいるのか」「そのことになんの意味があるのか」という実存の根本に迫ろうとする意欲を買います。いわば大状況に大まじめに取り組む姿勢にある意味関心してしまいました。今時こんなのやらないだろなーということを堂々とやってる心意気に敬意を表します。見せ物に徹するって言うことはなかなか勇気もいりますしね。二つめは、多様性を確保したいという点もあります。原理主義的に演劇的とは何かを問い詰めるとちょっとしんどくなると私は思います。今回、出場されていませんが徳島のチャンバラのお芝居好きです。あれも見せ物です。縁日的かつ活動大写真の匂いがいいです。お芝居は娯楽でもあるし、思惟の実験場でもあるし、身体の表現の場でもあります。そうして、どんな場合でも観客の私にイメージを喚起させてくれるもの、認識を揺さぶってくれるものを選びたいとおもいます。うまいだけのものは私には何も生みださないことをいっておきます。それはただの技術に過ぎないと。
 しかし、この作品の持つ限界についてもやはりいっておかなければならないでしょう。それは、このお芝居というかこの表現が最初から持つ限界です。それは、この作品はあくまでも「認識」を舞台に展開したものであるということです。認識だけでは、人の生きる姿を表現することは難しい。人が生きていく上で悩み、もがく姿を身体で表現することがやはり演劇の本道ではあるわけです。舞台の中央で「それ」がもがこうが、すっくと立ち上がろうが、それはそれでしかない。このお芝居の認識の行き着いた結果、連続性の中にある絶対孤独な人間が、それでもなお、生きんとするならばどうしても、次に連なる対になるもの(別に異性でなくてもいいんです。用は他者)との関わりを通してしか「私」のあるべきと言うか、「私」として存在するにはあり得ない。それが、「私」をとりまき、「私」を運だ冷徹な世界への答えとしてあるはずで、そうでなければ、あまりにも切ないものだと言わざるを得ません。従って、このお芝居を、なお、演劇的になそうとするなれば、ラストシーンの「片方の靴」からもう一度出発するしかありません。当然、その際は、「私」の「行動」を通して語るしかないでしょう。その意味で、これはスタート地点に立ったに過ぎないと思います。だから、で、どうよと言うところです。
 そのような点をふまえて、では、どうあったらいいのかなと言うことを私なりにいくつか考えてみました。講評の範疇を越えているかも知れませんがご容赦を。
 この脚本の核になる要素は段階を追うと次の通りだと思います。
 1.絶対孤独の「私」の目覚め
 2.「私」とは何かのといかけと「自発的対称性の破れの生み出した世界」の認識
 3.その上での、連続性に依拠する「私」の認識
 この三要素を60分の舞台で形象化する困難は言わずと知れたことで、この学校は、これでもかという情報の過剰を選択し、いわば記号の海を提出しました。残念ながら、観客にはその記号を消化できるレディネスはなかったようです(これは、この芝居の極北にある等身大の記号に対しての観客の素養というかレディネスを考えたらわかりますね)。結果、どうしても平面的曼荼羅の説明的な形象化に終わったと考えられます。
 しかし、じゃあ、平易な情報に直せばいいというものでもありません。核になる要素は押さえねばなりません。やさしく言い換えていくとぐだぐだになりより説明的になるのが落ちです。もちろん、生の理系的概念をぽんと出せば、観客にとってはなんのこっちゃいで、形象化の効率が非常に悪い。記号はあくまでも記号ですから、その記号から受けるイメージが観客にとってより豊かであるような記号を選ぶ必要があると思います。おぼれながらでは理解する暇もありませんから。
 どうせなら、難解の極致を目指すためにも、説明を一切排除して、ここは大胆に記号の整理をすべきかと思います。装置や、小道具や衣装の整理も考えられますが、やはり第一は台詞の記号の整理です。曼荼羅のように組み立てるにしても、記号が多すぎて、本来シンプルにもかかわらず、何かこんがらかったスパゲティの様相を示しています。音声言語としてしか観客に受け取れないのだから、絶対必要なものだけに限るのが戦略として有効ではないかと思います。認識だの実存だのは観客が受け取るべきものであり、提出する側はむしろ語らない方がいい。概念的なもので真に押さえなければならない核は、4章に現れる、世界や「私」を生み出す「自発的対称性の破れ」と、それを突破する「幻想子」だけででしょう。1章、2章の様々な概念はそれまでの準備段階だからうだうだいう必要はないように思え、しかも音声言語だから、念仏のように聞こえてしまうのはかまわないとしても避けることができれば避けた方がよいでしょう。引用例のような、洗濯物のイメージから始めてもなんら差し支えはないと思います。どちらにせよ、比喩にしか過ぎないのですから。
 その作業は、役者の身体性を引き出してやる為にも大切なことだと思う。見ていて、サルたちが日常的に見える会話部分やタマゴを産むところや、シラミとりや「かじぬうた」のところなどまだしも説得力があった(まあはっきり言って下手なのは下手なんですけど)。このような部分の台詞がむしろ主体というか、徹頭徹尾それで押していかなければならないのではないか。抽象的な概念に劣らず、むしろそれ以上に不可解になるだろうがむしろそれが正攻法ではないかと思う。理系概念の緩用部分ははっきり言って単なる説明に堕してしまっている。それならむしろ、それは胸の奥に潜めて、日常的言語で、われわれの日常と断絶した台詞を構築すべきであろう。たとえば怒濤の長台詞の場面など、実はそれほど必要はない。さらに言えば、たぶん「それ」も必要ない。サルたちで十分だと思うし、それ以上に、まだ台詞の記号による認識なので、どちらかといえば、行動と関係による認識がえられる場面(登場人物にとっても観客にとっても)をもっと増やす必要があると思います。
 もう一つ大事な問題は、はやはり役者の身体性をなんとしても高めなければならないことです。結局お芝居は最終的には役者のものです。抽象的概念だろうが、それを背景に持つ日常的言語だろうが、それを背負って提出しているのは役者です。そうして、我々の日常生活を越えたところにある本質的な問題だからこそ、いまのままでは、ただ台詞を言うだけの存在に堕してしまう。それは、装置や照明音響等の効果ではカバーできないものである。「台詞を、頭だけでなくて、どれくらい理解させるか」そうして「身体」でどのように表現するかを集中してやれなければ、とてもこの作品を観客に届けるのはできないだろうと思うし、今の段階では前途遼遠という感じが正直なところです。「非対称性の破れ」を背負える身体性を観たいものです。
 まだいろいろ言いたいことはありますが、長くなりすぎましたのでとりあえず終わります。いずれにしろ、いろんな意味での問題作ですので、更なる検討と精進をして全国大会頑張ってください。

● 【春野】「いかけしごむ」

 今なぜこのお芝居をやるのか、あるいはやらなければいけないのかという、演劇におけるアクチュアリティーを鮮烈に見せつけたお芝居であると思う。今でなければならない。脚本そのものはバブル華やかななりし頃にかかれたものである。そういう意味では別役の眼力恐るべしでもあるが、そのことよりも、着目したそれを、今、このときに引っ張り出してきたことを評価したい。
 我々は、我々を取り巻く時代性から逃れることは残念ながら難しい。というよりも、その時代性をできるだけ意識しながら表現活動を続ける。不易流行の不易にあこがれながらも、流行の部分であがくのがその宿命といってもいい。とりわけ、演劇は、その時代性から抜けがたいものがあるジャンルではあろう。特に高校演劇においては、主体となるのがまさに今を生きる高校生であるからだ。しかしながら、高校生の日常生活をベースにした等身大演劇に見られる時代性は、ほとんどの場合、悪しき意味での流行でしかなく、せいぜい意匠かスタイルの次元であるのが現実であろう。おおかたのものがどうにも、浅いのは否めない。そうではなく、時代性に絡め取られながらも、なお、不易を志向し、時代のあり方を透徹した目でみるお芝居があってもいいと思う。高校生には無理だとか利いた風なことをは聞き飽きている。そうではなくて、高校演劇が、時代のカナリアとしてあるべきだろうと思うのが私の立場である以上、劇におけるアクチュアリティーというのは非常に大事な前提条件であると思うからだ。
 幕が開くと、興味深いシンボルが装置としておかれている。「ここには座らないでください」という紙が貼られたベンチと、立ち入り禁止のバリケード、並びに立て看板。ベンチのは脚本指定だが、あとはたぶん演出の意図だろう。共通するのは、そこにいるものを「拒否」するコードだ。バリケードと立て看板はベンチの張り紙の補強と見てよいし、更なる奥に存在する暗い空間をより鮮明に提示していると思える。立て看板は3.11を明示しているが、これはちょっと微妙かも。バリケードだけでもいいかもしれない。いずれにしろ、この空間は、私たち拒否する本来いてはいけない「場所」のそのぎりぎりの所を示し、我々のリアルな生がいかにあやふやなものかを暗示する。それは、3.11が突きつけた、ふやけきっていた私たちがいかに「板子一枚下は地獄」に生きていたのかといういう認識の表明でもある。
 だが、しかし、それでも私たちは私たちの生を何とか紡がざるを得ない。そうして、この危うい均衡を保った空間で展開されるのは、一種のゲームではある。自分のリアルをどう保持していくかをかけた切実なゲームといっては軽薄になるかも知れないが、私たちは3.11以降そうした試みをせざるを得なくなっているのではないか、手垢にまみれたうさんくさい「絆」では、もはや、バリケードの向こうに広がる深く暗い闇の中に分け入ることはできなくなっていることは間違いないと思う。
 芝居は終始、女の主導権の元に展開される。言い換えれば、男は、指標を見失った私たち自身でもあり、また女は、何かを提示するように見えるけれども(男のリアルを粉砕する)、それでも、なお、「禁止」された場所に座り続けなければならないように、明確なリアルを構築できたわけでもない。ただ、座り続けることにより、(私たちの)リアルを探し続けなければいけない存在としてある。女も又、私たち自身であろう。
 言葉の力業を、脚本から感じた。イカをベースに消しゴムを発明したと主張するいかがわしげな男と、子どもを殺したと強引に主張する女との言葉のバトルが繰り広げられる。背景は、世界のデッドゾーン。その奥は、暗く、そこへ入り込めばもはや一切が消滅しかねないいわば絶対防衛線の前で、存在のぎりぎりのところで、必死でとどまりながらお互いのリアルを浸食しようと戦いを繰り広げる。作者はレトリックをさながら悪用するように言葉を展開する。些細な台詞をきっかけに、いいがかりとしかいえないように強引に論点をねじらせてずらす、拡大解釈をする、飛躍する、受け入れるように見せていなす。そうして、一番の方法としてパターンを変えるけれども反復して、繰り返し、相手のリアルを攻撃し、私たちがなんとなく無前提に承認している「現実」を、言葉だけでゆるがせ、ひっくり返す。洗脳のお芝居とも見て取れ、台詞のやりとりの切った張ったがもたらすスリリングさが、私たち観客の認識を揺るがして不安定なものに落とし込み、女が言う「わたしはここからにげない」という台詞まで立ち至ったとき、ほとんど背景のように無視されていた、立ち入り禁止のバリケードが圧倒的な存在感を持って観客に迫る。
 私たちのリアルなど実はたやすくひっくり返るものだし、それほど強固な確たるものではない。しかし、それでもなお、その現実にたっていようとするならば、ぎりぎりの覚悟はいるだろう。いわば人間の尊厳としてのボーダーライン。それを守ろうとする女の意志が明確に伝わってきた。
 惜しむらくは、男の演技が緊張していたせいかどうかせっぱ詰まっていて少し重かった。もちろん、設定からすると重いのはわかるが、それにしても身体が不自由で、ここはもう少し軽やかに演じなければ全体がどよどよになってしまう。単なる挙動不審者ではまずい。女がその存在感で舞台を支配していたからこそ余計にバランスが壊れた感がある。登場人物が少ない芝居は役者の身体がもろにお芝居の成果に響いてくる。その意味で、もう少し居直ってやっていたならと思う。
 照明が暗かったので空間を限定した印象が残ったがいずれにしても瑕疵に過ぎない。ともかくも、見終わった後、私たち自身のリアルの有り場所を鋭く問う、今、やるべきお芝居だったと思う。

● 【丸亀】「いつかのさくら製麺所」

 うーん、朝ドラを一時間でやってしまったなーというのが率直な感想。
 城の内とは対極にあり、わかりやすいし結構見てて快適です。問題を抱える人々が居てそれぞれが芝居が信仰する中で関係の変化があり変わっていく。まあ演劇の味噌をきちんと押さえています。けれど問題は、あまりに説明的なところ。実際、脇台詞やモノローグで、とことん説明してくれます。役柄、状況。内面、エトセトラ。これではナレーションです。観客の参加する余地がありません。従って、深みも出てこないし、こうこうこれでこうなったんだよと言う身の上話を一時間聞いている観があります。
 なぜ、こうなったのか。一番の原因は、舞台上に流れる時間的スパンを長くとりすぎたことにあると思います。どうしても、細切れの場面になり、掘り下げる時間がないから、説明でフォローするしかない。だから、さらさらと、流れ、わかりやすいけれども、観客はその流れについて行くだけで、見終わった結果、はあ、そうですかとしか言いようがない結果となります。これは、朝ドラや大河ドラマのテレビならかまわないと思いますが、演劇としてはちょっとキビシイものがあるのではないかと思います。
 もっと時間軸を圧縮して場面数も削り、場所の移動も削っても言いたいことは表現できたのではないかと正直思います。たとえば、お父さんが、娘が跡を継ぐと告げると、むちゃくちゃ怒り出す場面。なぜあれほど怒るのかよくわからない。だけど、その怒りが主人公の生き方を阻む大きな壁になるんですから、それに絞れば、そんなに時間軸を長くとらなくても、場面を多く作らなくても立派なお芝居として深みのあるものができるはずです。又、そうでなければ、全体的な緊張感を保てないのです。説明ではなく、人間がどうあがいて生きていくかを深く掘りさげたほうが演劇的になると思いました。
 装置について。いろいろな置物を工夫して使っていました。山型に積み上げたブロックを、季節の変わる場面に従い黒子が季節官話出す、パネルを貼り付けて交換していました。それなりにわかりますが、ちょっと煩わしいかなぁ。黒子の背にある意匠はいらないのではないかな。たぶん意図したわりに効果は上がっていないと思います。これも時間軸を長くとったためで仕方ない処理でしょうが、ちよっと興が冷める感じです。なお、一としてはこの山型に積み上げたボックスはもう少し奥にあった方がよいようです。遠景として使うときがありましたが、近すぎて台詞と乖離しています。また、桜が降るのはよけいかな。降らしたくなるのはわかりますが。ボックスのパネル交換と同様説明的に過ぎると思います。

●【川之江】「みえにくいアヒルの仔」

 題名が秀逸です。見る前からイメージをかき立てられ期待感がわく。題名は結構大事で作品本体のエッセンスだから、舞台上演前から興味と関心をかき立てる機能があります。見習いましょう。勿論作品本体の主題と関係していないとただの誇大広告になるので気をつけなければなりませんが。
 さて、実際に見てみると変な既視感に悩まされました。なんかもどかしい。いわゆる等身大の高校生が舞台の上で生きている。それはたぶん間違いなかろう。だけどねと。高校演劇だからそれが一番じゃないかといわれるとうーんと言うしかない。乱暴にいっちゃえば私としては生きてろうが死んでろうがそんなものどうでもいいんです。こちらの認識や情動を揺るがすものがなければそれはただ「正しい高校演劇」にしかすぎません。そういうお芝居は有りだろうし、実際でよくできてはいるけれども、どうしても私にとっては目前に展開される薄皮一枚へだてた時間に過ぎく、余り琴線に触れてこなかった。なぜか。以下、どうしてそんなことを思ったのかを書きます。
 お話の流れを見てみます。いじめをテーマに、みにくいアヒルの子の骨格を使いながら、一つの作業を余りやる気がないものたちが集まってやる中でやがて表に見えなかったものが見えてくるという流れです。その作業はいろいろと邪魔が入ってなかなか進みません。これを坂出でも触れましたが遅延の構造と名付けときます。まあよく使われる手ではあり、それなりの効果がありますが、この学校のお芝居は四国大会で何回か見せていただきましたが、どうにもそれが多い(既視感の一つの要因ではあると思います。)。構造と言うより語り口の自己模倣的なところが気にかかりました(もっとも、そのシーンの作り方はうまく楽しめることは楽しめるんですが。。。)。で、それを外してしまうと、このお芝居の構造は意外と単純なものだということがわかります。残るはみにくいアヒルの仔の構造だけ。本来は、題名でひねってあるように、こちらの構造を徹底的に掘り下げながら、いじめの持つ本質をえぐり出していくはずのお芝居だったと思います。それが、遅延の構造の中で小出しにしてはいますが、時間をとられて、掘り下げる深さが足りなかったように思われる。もったいない。
 元々のみにくいアヒルの仔はある意味嫌みな童話です。いくら差別されていても結局は貴種であることがあきらかにされ、その出自というか、存在自体のせいで、特に何をやったわけでもないのに、死を意識したとき都合よく予定調和的にまあ救われてしまう。あらかじめ逃げ道が用意されている(もちろん読者にはあらかじめわからないようにされていますが)中で、いくら苦しまれてもねというところ。まあ童話ですから、目くじら立てることもないでしょうが、このあたり考えてみればけっこうむかつくお話です。貴種でもない(ある意味リーサルウェポンを持たない)私たちはでは救われるんかいと。おとぎ話の世界に生きられないリアルな私たちはどうなんだとどうしてもいいたくなります。お芝居をささえる構造として使うならば、ここらあたりを突っつく必要があると思うのですが、さてどうなったか。
 流れをおいます。前半保育体験学習で幼稚園児の前で演劇を発表しなければならなくなり、世話役の演劇部員(意識していない善意のいじめ役 というか見えにくいアヒルの仔の有資格者としてやや独りよがりという属性を与えられていると思います)が余りやる気をないものを集めて、稽古を始まる(その割にはみんな逃亡しないのが笑えるけど)。この部分、軽快ではあるがちょっと引っ張りすぎかな。伏線部分なんで、見えにくいアヒルの仔予備軍としていろんな属性と人間関係をつけるので長くはなるんですが、余り鮮明には出せないので、余計長く感じる。(どうせ引っ張るなら最後にまとめずに徹底的に引っ張るのも演劇的にも面白いし潔いんですが)。ただ、この間におけるユーモアのセンスは評価できます。ギャグの笑いではなく、シチュエーションの笑いをきちんと使いこなしている。お芝居の素人にお芝居をさせるという着想は優れているし、台詞の棒読みが醸し出すおかしさ(フィクションとか、見立てに関するメタ演劇的な台詞も笑える)や、オノマトペに現れる笑いのセンスは優れていると思う。こうした笑いの中で伏線を埋め込んでいく技巧はやはりうまいと思う。
 で、だんだんに本論部分に入る。休憩時間のシーン。過去のいじめにの話しや人間関係が、目撃証言等の形でちらちらと間接的に語られるが、一般的な挿話で、やや弱いかなという感じ。それでも本質的な問題が一つ提起される。みにくいアヒルの仔が白鳥になったことについて、いじめと絡めて、登場人物のひとりが「結局いじめられてよかったねってこと?」と、問題を提出する。ここからが本番。「いい話だ」と認めた上で「だからわけがわかんねえんだよ」、「なんでこれいい話なの?」と。いじめはいけないんだなーとは思わないだろとして「いじめられたおかげで白鳥になれたんだから」と提起する。進行上これはさらっと交わされて、再び稽古が始まる。難しいところだが、ここはもう少し引っかかってもいいかもしれない。やりすぎるとわざとらしいんで微妙なところだが。ここはみにくいアヒルの子の持つ構造といじめをリンクさせ「見えにくいアヒルの仔」へ繋げる大事なポイントと思うのだが、うまく絡めていたかというと微妙。まあ、言い過ぎてもわざとらしいし、仕方ないけど。とりあえず観客としては、気になって、当然期待がかかるわけで、脚本の技巧が光る箇所ではある。
  後半、いじめる側の台詞に気合いを入れろと言うことで盛り上がり始め、登場人物の2人がいわば暴走する。みにくいアヒルの子の台詞を比喩的につかういじめのシーンでいじめを追体験させるシーンである(比喩的なところに限界はあるけれど結構役者頑張っていました)。と同時に、それぞれのいじめに対する立ち位置が暗示される。
 指導する演劇部員は「いじめって残酷じゃないの?」「じゃあ、残酷にやるしかないじゃん」と、演技だで傷つくはずがないとリアリティを強調するが、それに対して「なにやってんの」と登場人物のひとりからクレームがつく。「残酷すぎるんだよ」「こんなの目の前にやれちゃあさ。ヤなきぶんになるだけじゃん」。「こんなん。やってる人間が傷つくだけだろ」と、異議を申し立てる。そうではない傷つくのだと。彼女は、台本にない自分の体験に即した台詞を語る。アヒルの仔には実はひとりだけ仲のいい友達がいたのだと。語られるのは、いじめをうけた友達に対して、傍観者であったこと何もできなかったことだ。「友達には何もいっていませんでした。友達がなにも聞かなかったからです」と。
 一方、いじめられていたとおぼしき登場人物は、それに対して「でも、いまさらそんなこと思ってみたって遅いんです」「そんなこと後から思うぐらいだったら、その時になにか言うべきだったんです」「ひとことでも声をかけてあげるべきだったんのです」「そんなこともできないで、後からめそめそ泣いたりしたって、滑稽なだけです」「本当に傷つく前に、止めて、やさしく慰められてくれるって。誰かが気持ちをわかってくれるって。」さらに「どこまで卑怯なの?」と指摘し「でも、しょうがないよね。そんな勇気があるんだったら、最初から友達を見捨てたりしないもんね。本当に傷つくこともできないんだもんね!」と非難する。ここらあたり、ちょっと個人の関係に特化してる分ちょっとよわいかなぁ。
 そうして、問題は一般化され観客に投げかけられる。仮面をかぶりながら「ゴキブリのゴキ子」 といい、「アヒルになったの」「でもみんなそうだよ?アヒルになってるの」「お芝居してるのはー、演劇部員だけとは限らないんだから。」と、笑い、さらに「泣けるわけないじゃん。今更そんなこと言われたって、心なんかもうないんだから。」さらに「もう、心がないから、なんにでもなれるんだから。自由なんだから。(中略)だから、今になってそんなこと言うんじゃねえよ、ばかやろう!」と叫ぶ。直後演劇部員の、白鳥が飛ぶ?のを暗示する台詞で幕。
 ちょっと待って思ってしまいました。と引用が結構くどくなりましたが、結局ここのシーンは、いじめの傍観者であったものの懺悔と、いじめを受けたものの怒りと、みんな同じなんだよーという認識を表現したことに尽きます。そんなのいじめの問題考えてる奴ならとっくにわかってることの繰り返しじゃんといっては酷ですがそれでしかなかったからです。せっかく休憩憩時間で問いかけた問題はなんだったのか。あれは問ではなかったのか?みにくいアヒルの子のもつ構造を通していじめの本質をどう表現するのかと期待した観客の私にとってはなんじゃそりゃーと言う感じ。これでは別にみにくいアヒルの子を持ってくる必要はないんでないか。いわば、みにくいアヒルの子は単なるかかしかよと。「みえにくいアヒルの仔」はいっぱいいるでしょう。まあ、みんな仮面をかぶってて明日は我が身の見えにくいアヒルの仔だらけでしょう。だがしかし、それは今更改めて言われるほどのことでもなく、それよりはむしろ、いじめを生むシステムや基盤、生成過程、その中でどうしようもなくもがく見えにくいアヒルの仔たちが生まれなければならないいじめの本質にもっと切り込まなければ、せっかくのみにくいアヒルの仔がもったいない。単純にこれがいじめの本質だよというふうには都合よくはいかないけれど、それでも、もっとつっこむべきだったのではないかなと思います。
 「みにくいアヒルの仔」が「みえにくいアヒルの仔」につながっていく構造が今ひとつよくわかりません。たとえば、ラストで一気に自分の真情を語るところは、みにくいアヒルの仔に友達がいて云々の台詞からわかるとおり、本来のみにくいアヒルの仔とは別の構造から生まれる真情です。その二つの構造の関係が見えにくいアヒルの仔を生むのだとすれば、それは、たぶん休憩時間の問いかけの答えの中になければならないはずなのですが、その答えがどうもよくわからない。というか、うまくすり替えられているという感じを受けました。私の台本の理解不足かも知れませんが、本来のみにくいあひるの仔が持つ記号性が観客の持っているイメージに働きかけているだけで、いじめの本質とうまくつながっていないのではないかという疑問がどうしても解けません。結果的に、扱っているテーマはいじめですが、その本質や生きづらさを語ったというには不十分なものというか、入り口に立ちどまったままという印象にとどまります。「みにくいアヒルの仔」が語り口の比喩として借用されているだけで、そのうまさだけが浮き上がる結果になっていたのは非常に残念だった思います。
 せっかくの機会ですから、ここからは、ちょっと余計なことと思われるかも知れない苦言をあえて書いておきます。この学校の力量を十分認めての上のことですので、こういう意見もあるんだということでご了解下さい。
 いじめが意匠であるという私の感じをもう少し言います。語られるいじめの事象は、テレビのサスペンスドラマで言うなら比喩(類推・・見込み捜査)と伝聞証拠と本人の自白という形。事実の検証ができていないというか、事実は曖昧な霧の中、観客のイメージの中に存在するものでしかない。もちろん、具体的なシーンを作り事実を明らかにしろと言うのではありません。誤解なきように。そうではなくて、いじめを対象化してきちんととらえる目が余り感じられないと言うことです。他の学校もそうですが、便利な記号として使い回しすぎです。それらに共通するのはいずれも個人の人間関係に最終的には収斂してしまうこと。もうぼつぼつ別の切り込みがあってもいいのではないかと思います。それでなければただの便利なコンクール用の使い回しに過ぎません。言葉はきついですが、私はそう思います。
 既視感と始めに述べました。安定したレベルを維持するこの上演校だからこそ、見られるものでもあります。そして、それは、観客として申し上げるなら、かなり根源的な問題ではないかと思います。私の過去の自戒も込めていっておきましょう。表現するものに対しての最大の敵は自己模倣です。等身大を標榜するさまざま高校演劇はひとくくりにする危険性を顧みずに言えば、いつかどこかで見たお芝居であります。自分たちでしかできない表現を模索するのは実に困難なものですが、少なくてもそれがなければ創造の意味はありません。だからこそ、先人のすぐれた表現者たちはさまざまなジャンルで苦闘しているのだと思います。どんな表現でも、続ければ技術は確実に向上します。しかし、技術の洗練度が高まると共に内容が平板になる皮肉というか罠があります。最初はクールでも、やがてスタイルに安住して本質の深さを失ってゆくうすっぺらいスマートさを避けることはなかなか難しい。技術の競い合いなら負けないでしょうが、、創造という点では本質的な深さをもったとこにまけてしまいます。それは、技術に支えられて平均点のたかい芝居をつくりつづけると平均点の維持に目的が転倒してゆくことと同義だろうと思います。創造は絶えざる破壊と再生を続けることで生まれますが、そうでない場合、俗な言葉でいうと、手垢にまみれた、上品な言葉で 自己模倣という、創造あるいは表現の最大の敵の一つであるものに陥りかねない。いろんなジャンルで見られます。逆に言うとある程度レベルが高くないとそういうこともおこらないわけではあります。この学校は、その危険性を持ち、その岐路に立っているのではないかと思います。
 高校生は順次変わっていくのだから、いいのではないかとか、伝統的なポテンシャルは維持すべきだとか、いろいろな意見もあるとは思いますが、ここではあえて言いません。ただ、もうぼつぼつ、自分たちの表現に、安住するのではなくて疑問を持ってもいいんではないかな。そうすれば、さらに、もっと遠くて深い地平にたどり着く可能性を持っていると私は思います。

● 【羽ノ浦】「避難」

 見せ方のアイデアがうまいなあと思います。教室と廊下の間の窓を紗幕で張り、場面転換をうまく処理していました。しかも、表の話しと裏の話しの二通りが観客によくわかるようになっています。ただ、同じ処理を何度も使うので、やや単調になったのと、説明的な感があったのはちょっと損ですね。
 いじめについて正攻法で迫っていたことを評価したいと思います。単なる記号や図式ではない処理が好感を持てました。避難訓練に着目してうまく組み込んだのもなかなか意表を突いていて面白い。こうした日常の具体的な事実をきちんと積み上げていく中で、いじめが浮き上がる構図は、誰もがやれているようで意外とやれていない。単なる感情や個人の行き違いで語られるのではないところがこのお芝居の一番のポイントだと思います。ただ、高校生の映像作家という設定はちょっと都合がよすぎる気もしました。その意味で言うと、ピアノの演奏も、舞台的には生えるしいいシーンだけれどちょっとつくりすぎというか都合がいい設定です。ま、「私は、この音のない映像観ても思い出すんだろな。さっきのイトウさんの曲」つうキモの台詞の一つを引き出したいのはわかりますけれど。
 とにかく、割合に丁寧にいじめる側、およびいじめられる側の「悪意」を描写しているのはよいと思います。ちゃらちゃらした時間稼ぎの不必要な遊びもないし、必要なものだけを描いて、追い詰められたものの、単なる感情的でない、確信に似た殺意を浮き上がらせているのはお手柄だと思います。こういう、黒い意志というか、生きる悲鳴にも似たどろどろしたものを、登場人物のひとりが手首を切る事で掬い上げる。「この傷もいつかは治ってしまうけど、その後も、ずっと私の中に残ってるん・・それじゃアカン?」これは、アニメかよーとちょっと気恥ずかしくなる台詞ですが、余り違和感がないのは、それまでの緻密な組み立てがうまくいっている証拠です(台本にその台詞を受けた相手役 アドリブとあるのはちょっとね。)。
 かくして、ラストで、それまでの、位置がひっくり返り、いじめた側が「何も変わらんよ」という哀れな台詞に対して、観客は、いじめられた側の絶対性を確認する。シーンのリフレインをうまく使って強い印象を与える。ここらあたりの、仕掛けがちょっとうますぎるかなと思う。ただ、いじめた方の側がただぼーっと観ていた印象が強いのは演出が不十分だろうと思う。ただ観ているだけでは単なる引き立て役か、意味のない存在となります。
 そのほか、方言を使ったのはどぎつさを柔らかくして、まったりした感じがあってよろしい。 小理屈こねる嫌らしい副会長のキャラも美味しい。もっとも、こんなに戯画化しなくてもよい。類型化はできるだけ控えよう。特にこの脚本では控えた方がよい。あと、場面転換でやむを得ないところだが、廊下の側にいる登場人物のきっかけミスがけっこう目についた。まあ愛嬌といってしまえばそれまでだが。
 で、結局このお芝居は脚本の勝利と言うところでしょう。それを承知で少し欲を言えば、いじめに対する視点が、まだちょっと今までの枠にとらわれているような気がする点です。記号としてのいじめから抜けている点は買いますが、それだけで押していっても、ここから先は少し無理なんではないかと思います。当然これからもいじめを扱った他校の取り組みが現れるでしょうが、もう少し視点を広げないとどこかで観たようなという評が下されるはずです。
 ここからは、講評と言うより私の要望ですが、個人対個人ではなくて、いわばシステムとしてのいじめみたいな視点があってもいいのではないかと思います。たとえばこんな見方はいかがでしょうか。
 大人の社会にもパワハラを始め歴然としたいじめがあります。それは、仕事に就いたらわかります。たとえば教育の世界にも歴然とあります(そんなのないぞといえる教員ははっきり言って何も見えないお馬鹿か、よほどのお間抜けか、いじめている当人です)。ぶっちゃけていうと、いじめは、基本的に、支配、被支配の関係に相当すると思います。江戸時代の部落差別の学習を思い出してください。差別は、身分制というものを利用した支配の為のシステムでした。学校の中で今展開されているいじめもまた、学校という一つの閉鎖された社会の中で、(身分制は今は使えませんので、もっと曖昧な属性を使います。但し、一面的な価値付けをして)その支配のためのシステムをうまく使って自らの居場所を快適にする為の手段としてあるのではないかという見方です。いじめは何も、いかにもな悪い奴らがやっているわけではありません。結構、みんなに認められているクラスや学校の中でリーダーシップをとっていたり人気があって優位に立っている人たちによって行われるているのはわかると思います。教師もクラスを運営(支配)するためその子らは重宝ですから、観て見ぬふりや、さらには利用しているものもいます。教師がかつての学級王国のような支配者的位置から滑り落ち(支配的位置にあればそれはそれで問題なんですが)、単なるマネージメントをするぐらいの位置にしかないのもその理由の一つでしょう。であるからして、いじめは個人の問題ではなくてシステムの問題であり、なかなか後を絶たないし、より巧妙にならざるを得ないと(支配の要諦は支配されていることに気づかない状態に持って行くこと)。そうして、そのいじめを主導する連中はけっこうしたたかで世渡りがうまく、大人になってもその美味しい味が忘れられないと。いかがでしょうか。ちょっとハードサスペンスの味がしませんか。なんか、解放戦争のようないじめのドラマができそうです。でも、こうした見方はある程度成り立つはずです。なぜなら、現実の大人の社会に今で厳然とそういうあり方のため無数の人々が苦しんでいるのですから。
 要は、個人と個人の関係の視点に安住することなく、いじめを扱うなら。社会との関係をきちんと見据えて欲しいと言うことです。なぜなら、高校生といえどもどっぷりと社会のシステムの中に組み込まれているからです。いじめの問題について言いましたか、これは、今回上演されたすべてのテーマについていえることです。社会にどっぷりつかっていることをお忘れなく。もちろん、個々の問題から考えていくことが第一でありますけれど。このあたりは、生徒さんより顧問の先生方にお願いした方がいいかもわかりません。コンクールではありますが、高校演劇はやはり、時代のカナリアなんだと言うことをお考えいただきたいと。この学校の講評の範囲からは逸脱しましたがあえて述べておきます。


● 【終わりに】

 今年こそは簡潔にと思っていましたがまただらだらと書いてしまいました。こうなりゃ、審査員全員ががんがん書いて講評だけで分厚い一冊の本になってしまうのも面白いかなと。読んでみると迷宮の中に入り込んで結局何が何だかわからなくなり。結局何が評価されたかわからなくなってしまう。そう、勝ち負けをメインにおくとそうなるんです。自らの表現を自信を持ってやり遂げた以上のことは演劇にとってほとんどなんの意味もありません。毀誉褒貶は世の習い。認めてもらおうとする意志が強すぎては自らの表現を深めることはできにくい。評価されようとするのは当然ですが、それでも下手をすると、評価されるための演劇になりがちです。それは、演劇本来の意味からは外れると私は思います。コンクール至上主義はある意味罪深いものだと思います。
 品質の高い安定したお芝居を観るのはそれなりに心地よいものですが、それよりもなお、荒削りではあっても、自分たちはこれをやるんだという、強い意志を持った新しい表現を見るのが観客としての幸せだと思っています。審査は審査として、評価にとらわれない、どこもやっていないめちゃくちゃでも、まだ見たことのない演劇をみたいと観客の私は思います。そのような志向が高校演劇の持つエネルギーであり強さだと思います。
 繰り返します。毀誉褒貶は世の習い。流れにこびず、過去の成果に安住せず、自分たちの表現を少しでも深化するよう試みてください。


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