第35回四国高校演劇研究大会講評

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●【はじめに】

 クリスマス寒波の中、各校の皆さんお疲れ様でした。意外にバラエティー豊かなお芝居が上演され、収穫があったと思います。是非、これからもそれぞれのやりたいお芝居、自分たちにしかできないお芝居を追求していただきたいと思います。
 脚本を書く立場から言いますと、今回は脚本の「構造」というものにたいして考えさせられるお芝居が見られたことが一番興味深かったところです。意識するしないにかかわらず「構造」という点からもう一度お芝居を考えてみる視点は必要なのではないでしょうか。もちろん「構造」だけでは脚本はできませんが、少なくてもそのことに意識的に取り組んで行かれると、色んな点が見えてきて、お芝居がしっかりしてくると思います。
 さて、各校講評の前に一言私の立つ位置を述べておきます。長広舌は我慢してください。戦い終えて日が暮れて、ついでに年も暮れて、歓喜の涙と悔し涙のぐちょぐちょもとりあえず終わりまして、また新たなる年と戦いの日々が始まっていることと思います。卯年ですのでぴょんぴょん弾めばいいんですが、因幡の白うさぎみたい皮をむかれて赤裸というのは避けたいですよね。
 現役の時、個人的にはずいぶ理不尽なとおもえる審査結果に出会いました。納得できないんですね。他県では(四国以外と思います)、「これは脚本がダメですね」という一言であとは何にもなかったというのがあったとか。脚本コンクールではないんだからよ(▼O▼メ) ナンヤコラーー!! 。ほとんどそれは演劇部員の何ヶ月かの営みを全否定するものです。理不尽以外のなにものでもない。それでは全く救いも何もない。個人的なことを言わせてもらえれば、自信満々で四国大会に臨んだ作品で「このような立派な劇場でこのような芝居しかできないのは、私は絶対許さない。文句があるならホテルまで来なさい」という、わけわからない、ありがたいお言葉を講評でいただきました(当時追手前高校の顧問してまして、講堂を改築して公立では珍しい立派なホールをつくったばかりでした)。部員たちはいきり立ちましてホテルに殴り込みにいくっと血相変えてましたが、まあまあとなだめ、そのあとの顧問研修会に臨みましたが、当時演劇の顧問になって数年であまりわかりませんでしたので、へこへ こしてご接待したのはわれながらちょっとなさけないです(ーー;)。今なら、何をしてそう言わしめたのかが少しわかりますが、その当時は何を言われているかもわかりませんでした。全くあとの糧にはならなかったです。唯一、あー、既成ではだめなんだーという、勘違いしか生まれなかったです。もっともそのおかげで、私脚本をばりばり書くようになったのですが。それは置いておいて、審査員たるもの、よくわからない者に対しての言説にもっと注意を払ってしかるべきだろうと思います。すなわち、できる限り、あなた方のここが良くてここがいけないんですよ。なぜならば、演劇的に見てこうなんだからここのあたりをもう少し考えてみたらいかがですかという講評が必要ではないかと。そうして私は、こ ういう演劇観。こういう立場で判断しましたというのがなければ、判定される側はたまったものではない。えー、なんで、どうしてよー、わけわからん(▼O▼メ) ナンヤコラーー!!と不毛な結果になります。
 演劇はさまざまな立場や方法論があります。当然、判断の基準はさまざまです。第一、一つの基準しかなければ、それは演劇の死です。アホの極みでしょう。体育会系の競技と違うのはそこですね。だから、逆に言うと基準がようわからん。でもそれでいいんですよ。自分たちの演劇がある視点からはみとめられある視点からは否定される。当然のことです。全て認められる。それは気持ち悪い、ファシズムの芸術です。こういうのが一番で他を許さない。そういうものではぜったいあってはいけない。いろいろな方法論や、演劇観があっていいし、またあらねばならないと思います。そうでなければ演劇やる意味がない。それぞれが自分の「演劇」をやることでこそ演劇の多様性と可能性が担保されます。
 でも、ある意味、高校演劇の不幸は「コンクール」があることです。本来自由であるべき演劇行動が、勝つか負けるかという結構矮小化されたそれでいて血がたぎる曲面に集中されることです。演劇コンクール、なんて二律背反なばではありませんか(▼⊿▼) ケッ!制度として呪縛する以上はある意味しょうがないのですが、その枠内で、けっこう血が騒ぐ。演劇の多様性も可能性もクソ喰らえ、何がなんでもうちが一番にゃー (▼O▼メ) ナンヤコラーー!! ま、これは人間の性ですかねぇ。  であるならば、勝ち負け(芸術の勝ち負けってすごく変ですが、ま、他の分野でもやってますね)の基準が少なくてもある程度明確になっていなければ、競技の参加者としては、わけわからんか、むかつきますよね。何で負けたかわからん。好みか、好みでいいんか本当に(ーー;)、好みという基準も当然あっていいんです、所詮勝負事となれば。それぐらいのものです。しかし、むかつきますわな。
 当然私も過去むかつきました。いくら講評をきいてもよくわからない。そのうちというか、自分が審査員しだしてやっとわかりましたね。遅すぎますが。おのおの立場がよくわからない。言葉ではいろいろ説明してくれるけど、高校生には曖昧でしかなく(まあ高校生にとっては当たり前ですが。素人顧問とってもよくわかりません)、結局なんでおとされたか、枝葉末節の瑕疵が原因か?では、次の作品が良くなるわけがありません。まして、次の審査員の基準が変わるんですから。
 演劇コンクールの、判定のしょうもなさがここにありますが、システムとしてあり、今後変わらないとしたら参加する競技者(参加校)としたらどうすればよいのでしょうか。四国の場合運営側が透明性の確保のために結構他のブロックにないことをしていまして、特に情報の公開という点においてはなかなかがんばっていると思います。
 しかし、参加校としてみたらたぶんそれでもなおよくわからないのではないかと思います。まあ「芸術」のコンクールですから全てわかって納得するということはたぶんありえないと思いますが。
 では、参加する側としては、現実的な問題として 1.とにかくぶっちぎりのいい作品を作る(ぶっちぎりが何かおいておいてもできればせわない)、2.審査は無視してやりたいことをやる(演劇の本旨としてこれは正解。でも欲があるからねえ( ̄ー+ ̄)y-'~~~)、3.とりあえずやってみて後は神のみぞ知る ですかねー 
 それでもやはりもやもやは解決しないでしょう。問題は審査する側にあって審査される方にはないからです。何があろうと競技形式ではやはり自分たち自身が納得することが大事だと思います。よくわからない霧に包まれた真実というのは願い下げでしょう。クリーンでクリアな結果なら腹が立っても、ああ、そういう基準で判定されたかという思いがあれば、私たちの演劇とは違うけど、それを評価するなら仕方ない、私たちは私たちの演劇をするだけだという覚悟ができます。そうでなければ、救われません。
 
 ということで、中央審査員はわかりませんが、ある程度継続する四国の補助審査員としては、私の立場を明らかにしておくのがフェアだと思います。四国大会の審査システムでは、演劇を生業にしているのではない、アマチュアの判断が一つのポイントになるのですから明らかにしておく方が今後のためでしょう。アマチュアですから演劇について深遠な理論や方法論は望むべきではないし、単なる好みがポイントになる場合もあり得るという審査されるものにとっては不条理な場面もあるということをしって置いてほしいと思います。それが耐えられなければ、審査システムを変える声を上げていくしかないでしょう。
 今後、どの審査にたちあうのかわかりませんが、少なくとも、あー、あいつがまた高知の補助審査員かやー あいつがきたんか このくそたれがー というような判断にはやくだつとおもいますよ(▼⊿▼) ケッ!。では。
 基本的には、私は物語が好きです。それも非日常でワクワクさせてくれる物語を好みます。それが演劇的に美しく処理されているのを好みます。しかし、物語の構造がクダグダなのには鉄槌を下します。非日常に移動する過程が甘いのには辛いです。
 不条理的な空間が好きです。所詮、現実など言う物は脳のみる夢、情報処理の結果の産物ですから。しかしながら、矛盾するようですが、全体の構造が合理的であるのを好みます。論理の矛盾はぶち殺したくなります。
 なおかつ、無茶苦茶で、なんもかんがえていないのあほで下劣なのも好きです。八方破れで、どこへむくかわからないエネルギーの爆発が好きです。そんな芝居久しく見てないですね。
 一方、理詰めの論理が闘うお芝居も好きです、たぶん余り面白くはないでしょうけれど、けれど 言葉の戦いを形象化するのはすごく難しい。だれかやってみませんか。観念劇と他の人は言うだろうけれど。
 美的な舞台が好きです。様式美にあふれて一分の隙もなき、最初から最後まで息ができないような舞台を要求いたします。
 「見せ物」的ないかかせわしいお芝居も好きです。所詮芝居は河原乞食が原点。みてもらってなんぼ。波瀾万丈、なんでもあり、お客様第一のエンタメ系は芝居の根本の一つですからね。変に気取ったお芝居ほどいやみなものはない。
 日常的で等身大のお芝居は、実は苦手ですが、本当にほっこりするお芝居は歓迎いたします。素直なお芝居は好感を持ってみます。これは教師根性ですね。そのほかはほとんど偽物もので、いわゆる「ごっこ」にしかすぎないと思っております。嘘くさいし、なんで普段いやな思いをしているのを舞台でみないかんのや(▼O▼メ) ナンヤコラーー!!ああこれは観客の視点でしたな。でも、そういうのに共感する若い観客の姿もわかります。それほどまでにあなた方は不幸で疎外されているのだと。これはリタイヤした年寄りの視点ですな。
 古典は好きです。でも高校演劇ではあまりみません。ちょっと寂しい。おめーら、素養がないか、根性ないか、人がいないか、能がないか、顧問がだめかだろという強い偏見を持っています。もっと学習つうか勉強しろよと。試みに昔の記録を見て見ろよな、かくかくたる名作に結構挑戦しとるぜ。大人の芝居を高校生が何故できんのや、幼稚すぎるわというか高校演劇が幼稚化したんでないかという旧世代の教条主義もあります。
 自分が書きまくったのがほとんどファンタジーですので、これにはうるさいです。特に銀河鉄道ものをやるところには、俺の縄張りに手を出すなとばかりの氷の目であたります。よう注意ですね。しかし、なにいうてんねん、じじいはひっこんどれという鼻っ柱の強いところを切望もしています。所詮、若い世代のファンタジーだもの( ̄ー+ ̄)y-'~~~。しかしなかなかいないんだなこれが(ーー;)。一般的におめーらファンタジーなめてんなと思っています。もっと、勉強しろよな。ファンタジーだからこそリアルが命だぜ。てきとうにつくれば命取りだぜ。ネット脚本の諸君(▼O▼メ) ナンヤコラーー!!。まあそれはなかなか理解されないんですけれど。安易に作れば審査の時に私に関しては地獄を見ることを保証いたします。
 脚本出身で演出苦手というか、できないというか、だから演出コンプレックスがあり、演出のキレがよいところは魅力的です。うらやましいというかねたましいですね。脚本書いて演出するというのは私的には信じられない。自分の構築した世界を更に広げるなんてことはこりゃあ、勘弁してくれと言う世界ですから。作品で構築した世界をそのまま構築するのは演出とはいえんものね。演出的とはいえるかもしれんけど。
 脚本書いて後はひたすら裏方してましたから、裏方の仕事にはけっこうきつい目線をおくります。徹底していないとこにはつらいかも。まあ経済的な問題もありますがそこは創意工夫でなんとかしのがねばそれが裏方としての存在理由です。それができなきゃ裏方とはいえませんぜ( ̄ー+ ̄)y-'~~~。そういう技術があるから裏方はいつも威張ってるんです。役者はそれしか能がないへたれがやる仕事だとおもってましたね。
 と、まあ こういう感じですか。まだまだありますが、それは隠し玉ということで(ΦωΦ)ふふふ・・・・。
 改めてご注意点をいいますと、
 1.脚本出身ですから、脚本にはむっちゃ辛いです。構造の破綻と、ご都合主義には鉄槌を下します。最もその基準を私の作品に適用すればやっと三作程度しかのこりません。たいした才能ではなかったと反省するものの、自分は二塁打主義だと居直っています。ホームランはなかなか難しいですね。でも、それはおいといて審査員だから(と、居直る)現役には厳しいです。打たれ強くなってくださいね。書き続けていくうちにごくたまーにいいのができます。たぶんね( ̄- ̄)。最もそれが審査を突破するとは全く保証できません。脚本コンクールではないのですから。
 2.それからくるんですが、演劇の構造には結構注意を払います。まあ構造が全てだと言うことではないし、構造でお芝居作れりゃ世話ないですし、それは無理。いいとか悪いとかではなくて、構造はみておかねばならないかなと。ぐだぐだになってるのは辛いですし、崩壊してるのは確かですから。それを基にしていろいろと考えるということと思ってください。直接の○×ではありません。 
 ちなみに、物語を作る学校が多数ですから、物語を作るための技術的な参考文献をあげておきます。今まで書いた人にとってとくに参考になります。オーソドックスな参考書でないので、どうかなと思うかもしれませんが、自分の物語を検証する際にはすごく役立つのではないかと思います。単発の生徒はともかく、創作脚本をずっと書いてる顧問の方々、特に物語系の人は絶対参考になります。もうそんなの参考にしてるよという方は失礼いたしました。ならちゃんと書けよときつい挑発を捧げておきましょう。
 1.「物語の体操 みるみる小説が書ける6つのレッスン」大塚英志 朝日文庫
 2.「ゲームシナリオのドラマ作法」川邊一外 新紀元社
3.「金枝編」フレイザー 岩波文庫 文化人類学の古典中の古典ですね。ファンタジーのベースになるものがゴロゴロころがっています。金脈を発掘して料理するのはシェフ次第というところでしょうか。たぶんきちんとした図書館にあると思います。
 なお、もちろん、これらは読めば書けるいうものではありませんからね、念のため。
 前置きが長くなりました。では、各校の講評です。多少独断的な印象批評の面があるかと思いますが、こういう見方もあるのだと言うことでご容赦下さい。

●【各校の上演について】

●坂出高校「てんぷら」

 日常的な風景の中で会話がすすむお芝居では意外と細かい点が逆に引っかかって違和感を持たせてしまうものです。たとえば引越荷物の個数や重さの感覚、ドアの出入りの無対象動作、いずれも芝居全体の中では小さい問題ではありますが、積み重なっていくと、観客自身の日常の光景の中にあるものだけにじわじわと出血し続け傷口を広げていきます。気をつけなければならないところです。
 一つの場所(過去)からもう一つの場所(未来)へいくその中間の時間と空間の中でどちらに属するかひき裂かれている主人公はその中間地帯で宙ぶらりんになっています。いわば子どもの世界と大人の世界の狭間にいる全ての高校生が置かれている現実でもあります。でも、現実の高校生もお芝居の中の登場人物たちも、やがてそれを決定しなければならない。それを決定させる強制的な仕掛けがこのお芝居の場合、「引越荷物の片付け」という所でしょう。、それが完了すると同時に幕が下りる時間が来るというタイムリミットの枠組みの中で日常の寺間を完結させ、なおかつ主人公の未来が選択されるわけですから、案外、片付けのペース配分が、お芝居の重しになってきます。本当ならひとりの荷物を60分で ぴったり片付け終わるというのは不自然の極みですが、それを不自然に感じないように休み休みしながらドラマをすすめていかなければならない。このお芝居の場合、片付けのペースト遊びとドラマの進行が微妙に今ひとつ絡み合わなかったという感があります。その進行につれ、新天地への不安感と希望との間で揺れ動く気持ちが上手く絡めていなくて突然ラストの方で噴出するかたちになり唐突な感はどうしても否めません。いわば中間地帯の形象化が今ひとつうまくいっていないという感じです。最後の晩餐の添え物である「てんぷら」に託した意味が表現されていたかというと微妙だと思いました。

●伊予高校「始発列車を待ちながら」

 いわゆるグランドホテル仕立てのおしばいですね。映画でよく使われるさまざまな人がある場所に集まってドラマが始まる。普通に集まる場合もあるし、特別な事情や目的で集まらざるを得なくなり、そこからそれぞれの登場人物の間でドラマが生まれる。肝心なのは、それぞれの事情を持ちながら集まった人びとを、説明的にならずに絡み合わさなければならないのですが、これが実はなかなかに難しくて一番苦心するところです。
 このお芝居の場合、その絡み合いの工夫が弱かったと思います。60分の中でこれだけの登場人物を絡み合わせるのは結構厳しい、だからみな初対面にもかかわらずとにかく語ってしまう。しかもそれぞれの悩みや事情が並列的になって余り絡まない。ドラマが生まれづらいと思います。妊婦さんの事情が一場のメインのようですが、回想場面を出しては折角の場の設定が意味を持たなくなり説明になってしまいます。事件が起こるのは結局皆が語り終えて事情が了解されてからですから時間的な余裕が無くなりドラマを作り出すのに不十分な結果となってしまいます。設定自体は面白いですから、人数を絞っていたらドラマを生み出す絡みや時間ができたのではないかと思います。
 装置的にいうとプラットフォームだけでもよかつたんでないかなぁという気がしました。駅舎があるため、お芝居が上手でずっとやったり、下手で無理に座り込んでやったり、いったん装置が固定されると舞台の演技空間を物理的に決めてしまいますから、その点使い方にもう一工夫がほしいところでした。
 
●城南高校「餓武羅~血を吸う南蛮船」

 実を言うとこういうの嫌いじゃないです。子ども時代を思い出しました。「新諸国物語」・・・「紅孔雀」「八幡船」「笛吹童子」ラジオから聞こえてくる時代劇のドラマ。テレビのない時代です。波瀾万丈の伝奇ドラマの世界。あるいは、三本立て50円の映画館にこづかい握りしめ通った時代。田舎の夏祭りでかかる芝居小屋のおどろおどろしい極彩色の世界。いつの時代じゃといわれそうで高校生諸君にはわかりづらいと思いますが。
 とにかくこのお芝居はいわばそういうものとしてあるものだと思います。大衆が好んだ、血湧き肉躍る大活劇という言葉(当時はそう表現されました)が似合わなければなりません。
 テーマは復讐譚。妖しげな登場人物(人間以外もいますが)たちが入り乱れ、愛と憎悪、欲望と裏切り、権謀術数、正義と悪。とにかくごった煮の怨念がうずまくいかがわしいものであればあるほど「見せ物」としてのお芝居が立ち上がるはずです。残念ながらそうなるには、いろいろな点で不十分な所がありました。もう少しいかに見せかという視点が必要だと思います。役者はやっててたのしい。しかし、その楽しさを観客と共有するためにはやはり、自分たちのやりたいことをどう見せるかということを追求しなければなりません。
 ストーリー的な面で言うと、人数が多すぎてそれぞれのエピソードを背負わせて60分で終わらすには無理があります。エピソードが絡み合いながら進行しますのでどうしても一つ一つのエピソードが断片的にならざるを得なく、はしょりながらやるしかないので奥行きが出ません。こういう大ロマン活劇は奥行きが絶対必要です。世界が広くないと深みと魅力が出てきにくい。話の筋を絞ることがひっようだったと思います。
 チャンバラの殺陣は近接戦闘が迫力が出ます。それも集団での。入り乱れての斬り合い。殺陣は段取りと型ですから、間違うとけがをしますので、動きの入念な段取りのチェックが必要ですが、やってもらいたい所でした。あ、鞘をすてるのはまずいですね。あとでひろわなければならないのでおまぬけポン吉です。
 衣装の手作り感は伝わりましたが、大ロマンの風格を出すにはさらに合成に作る必要があるでしょう。主人公の衣装の品質で他の人物もつくらないとしょぼくれてしまいます。
たとえば殿様。敵役になるのですから、もっと豪勢な殿様らしい感じで、あの衣装は幕末の土州浪人坂本某みたいに見えました。室町という時代設定ならまずいでしょう。更に
この品質は装置や小道具類まで貫きましょう。たとえば、「ゴルゴンゾーラ」これは上手く素材を生かして作り込んでいました。この品質を装置へも適用してつくれば良かったと思います。装置がちょっと薄いというか、大ロマンらしいおどろおどろしい厚みが見られませんでした。残念。
 こういう活劇では台詞を叫びがちになります。きちんと聞こえるようにがんばってください。
 ばったばった死んでいって、最後に残るはふたりだけという大伝奇ロマンの王道をいっていますが、実はここからが本当はドラマになる可能性があります。なぜなら、主人公がゴルゴンゾーラを吸収?してしまい、ひとりの中に善悪二つの心が住み着く結果となりました。この設定はやはり伝奇ドラマ向きです。風祭響鬼Ⅱを是非。ベースになるのは個人的には国枝史郎の「神州纐纈城」、これおすすめです。 

●土佐高校「まりんちゃんがいなくなるまえに」

 春季の全国大会出場おめでとうございます。良い点は他の審査員の方々が多々述べているはずですので、私は、問題点を中心に述べておきます。時間的にそれほど余裕がないとは思いますが、春までに皆さんの知恵を集めて更に良いお芝居にしてください。
 シンプルでストレートなお芝居だと思います。生徒たちでつくる一つの形ができていたのですが、やはりもう少し詰めていけるてんが見られました。「四十九日」という、亡くなった人に対して、残されたものたちがそれなりに一つの区切りをつける、あるいはつけなければいけない時間というか場を設定したのはいい着目点だと思います。
 しかしながら、その場を有効に使い切れていたかというと、やや足りなかったのではないかと思えます。登場人物たちの会話や行動から「不在の人」が浮かび上がらねばならないのですが、その浮かび上がらせ方がまだ不十分だったと思います。それぞれの悲しみとそれぞれのまりんちゃんとの関係や想いが明確になればなるほど「まりんちゃん」が舞台の上で生きてくるはず。そのあたりの描写が少し弱いかなと。また、遺族と友だちではやはり悲しみの仕方(?)というと変ですが差異が出てくるはずで、そのあたりももう少しほしかったと思います。
 三人の会話だけではお互いの距離感やマリンちゃんへの想いがなかなか明確にならないので、外部?からの介入でそれを明らかにする役割を持つ人が二人います。ひとりは、ぶっきらぼうな物言いをする浜田さん。ただ、台詞が少し説明的でかつ理論的なのは若干、お芝居が説明的になってしまう危険があるように思えます。余り説明せず浜田さんが感情をぼつりぼつり出す。去っていったあと、その言葉から来る違和感を三人がかみしめる中で、お互いの距離感や悲しみが浮かぶという方が更に自然でよろしいのではないかと。
 また、もうひとりのまりんちゃんのお姉さんは、友だちに死なれた子どもたちを見守る大人の視点と、肉親に早く逝かれた遺族の視点を持ち込む役割をしていますが、ちょっと会話が掘り下げ不足かな思いました。しっとりした感じと切なさを生む大事な人物ですのでこの造形をもう少し深くしていけばと思います。
 また、夏の終わりに設定したのは(ひぐらしが鳴いていた)、設定上重要で、まりんちゃんとそれぞれの関係性が一つ転機を迎える象徴的な場を形成しているのですが、その雰囲気をもう少し丁寧に作り上げる必要があったのではないでしょうか。スイカやラストの花火はありますが、夏の暑さをもう少し強く印象づけることで、夏の終わりとともにまりんちゃんに別れを告げる意味合いが強められたと思います。
 装置的に言えば、舞台のバランスが少し問題です。上手の空間が空いていますが、そこであまりお芝居はなされない。ではけの空間にとどまっています。よく見れば、照明で木漏れ日のようなものが見えますがわかりづらいですね。木があるとか垣根が見えるとか工夫しないとお芝居がほとんど下手で完結してしまい舞台の空間が貧しくなります。固定した装置が置かれると物理的に空間や演技を束縛してしまうので気をつけましょう。
 まりんちゃんの部屋がありいろいろとものが置かれていますが、もう少し置くものを計算し、それに絡めてまりんちゃんが浮かび上がりやすくなるような工夫も必要です。
 冷たく言えば、よくある話です。類型的なドラマといってもいい。高校生の手で創り上げたのは評価いたしますが、欲を言うと、もう少し、今もう少し、全ての登場人物の喪失感と、それを受け止めて再生して行かざるを得ない人生の不条理がみられる台詞と演出演技がほしかったと思います。まあ、これは、大人の目で見ないとわからないところかもしれません。そういう意味で顧問の先生の頑張りを期待したいところですね。時間ありませんががんばってください。
 以上、思いつき程度ですが、参考にしてみて下さい。

●丸亀高校「たんさんすい」

 楽しんでやっているお芝居だなと思います。だ、その楽しみが観客に伝わっているかというと、伝え方の面で少し問題があるのではと思いました。
 基本的には台本の構造に問題があるように思います。登場人物が皆善人であるのはまあ目をつぶるとして(いや、つぶってはドラマの根本で問題があるのですが)、ドラマができていないのではと思います。それぞれの問題を抱えているはずなのですが、それがかなり誇張したマンガ的な振る舞いの中に消えてしまい立ち上がってこない。
 ラストの、いかにもな照明の下、きいていてかなり恥ずかしくなるシュプレヒコールで語られたことが実は一番ドラマの核心であるべきはずなのに、それまでが遊びで終わってしまっています。最後に結論だけ述べてそれでおしまいというのでは観客としては、えー、いままではなんなのよーと。演説はいけません。それは少なくとも演劇とは無縁のものでしょう。観客は人間のドラマを見に来るわけですから。
 キャラ的にも、けっこう色物に走っていたように思います。シチュエーション的にも少し無理筋があり、なぜにそこまで脇筋に走る必要があるのか疑問に思いました。せっかく、大事なメッセージがあるのに、それをドラマとして何故組み立てなかったのか。語るべきモノがあるにもかかわらず、それをエピソードとして組み立てられなかったのが一番の問題であると思いました。結果的に、表面をなぜただけでおわり、観客に突きつけるべきものを生み出せなかったのが痛いです。
 たのしくやるのは、悪くないですが、もう少し、客観的な眼と、脚本の組み立てに眼を向けてほしいと思います。

●川之江高校 「ナオキ」
「理由もなく、結末もなく、突然、悲惨なことに巻き込まれて抜け出すことができない。人生とは、時に悪い夢のようなものです」。世界は脳の見る夢にしか過ぎないのだけれど、まさにそういう状況に陥った主人公が、ミステリアスな状況の中、夢を媒介として現実といききしながら、主人公を支える友だちの思いとクロスオーバーして、やがてどうしようもない現実に直面し、別れを告げ夢の中に回帰していく切ないドラマ。あえて「夢落ち宣言」することで、ドラマを支える力を確保しようとし試みだろうと思いました。
 「夢落ち」は基本的には忌避されます。小説でもお芝居でも。それは、読者、あるいは観客が物語の中をさんざん引き回されて、あげくのはてに「夢だったよ~ん」では、なんか詐欺に引っかかったようなもので腹立たしい限りであるからですね。何でもありだから逆に一種の禁じ手でもあります。そういうがっかり感をあらかじめ排除して、あえてカードをさらけ出し「構造」としてお芝居の中に組み込んだわけですが、成功しているかどうかは、少し微妙でした。成功している部分もあるし、同時に最初から抱えている弱点を克服しきれていない部分もあるように思います。
夢落ち宣言をすることにより、主人公はいわばドラマの中への案内人として、お芝居の外側にいる観客を、お芝居の中に引き込んでいく構造ができています。観客をお芝居の中に入り込み易くさせ、観客にお芝居を登場人物たちとともに共有させる働きをしていると思います。
 でもってお芝居はナオキを捜すために次から次へ、依頼を受けながら主人公はさまよいます(実はナオキ自身でもありますから自分探しといってもいいでしょう。最初は明示されていませんが)。その展開を見ていると、このお芝居は、夢落ち宣言も含めてRPGの構造を持っているなと思いました。(行きて帰りし物語でもいいんですが、これについては海部高校の項で述べます)。
 皆さんもたぶんやられたと思いますが、「ドラクエ」や「ファイナルファンタジー」では、環境から与えられた欠落をもつ主人公がそれを補償するため、目的を与えられ、達成するために行動に移ります。おおむね主人公が「依頼」をうけ、「探索」にでます。さまざまな依頼が次々に現れ、解決すると更にその次の「依頼」が出現する。そうして主人公は最終目的へ向かって「仲間」や「敵対者」と遭遇しながら旅を続ける仕組みになっています。その間、じれったくなるほど遠回りしなければなりません。
 夢落ち宣言で、観客を芝居の中に取り込み一緒に主人公とお芝居の中を旅させる。プレイヤーは主人公(同時に観客)。主人公の解説は取扱説明書。場転はセーブポイント。不在のナオキを探す旅に出る主人公はを取り巻く世界は、曖昧な「依頼」を果たす度に、更に曖昧な「依頼」を産み、不条理性と悪夢の度合いを増していく。探求に回り道をさせられるもどかしさ しかも わけわかめな「依頼」が次々に重なっていく。 軽快にテンポ良く展開される日常的な風景と台詞だからこそ醸し出す変に薄ら寒い、落ち着かなくさせるけっこうスリリングな状況がうまれていました。
 観客は見続けているうち(お芝居の中に入って主人公と同じ体験をしていく中で)に、薄気味悪くて何か居心地悪い不安感がだんだん増大してきて、やがてその中に吸い込まれ抜け出そうとしても抜け出せないような気分になる。ドアが開く度にまたドアがあり、開け続けるうちに出口なしのような状態に陥るこわさ。それでもドアを開け続けるしかない悪夢を追体験していく。非常に良くできた仕掛けだと思いました。この意味で夢落ち宣言はかなりいい働きをしていると思います。
 ただ、反面この仕掛けには弱点も初めから内包されています。夢落ち宣言は先述したとおり、観客がプレイヤーとなりお芝居の中に主人公として入り込む働きをしており、うまい工夫だと思うのですが、逆に言うと、芝居の中の主人公に感情移入するプレイヤーの意識のまま最後まで引っ張っていかないと、これは夢だよと我に返って芝居の外側にはじき飛ばされかねない弱点も、明示した以上初めから持ちます。それだからこそ、一度お芝居の中に組み込んだ観客をそのまま最後まで連れて行かなければなりませんが、何回かの場転での主人公の台詞(まあ説明ですね)は、逆にその力を弱めたのではと疑問を持ちました。
 場面転換での説明は場転を意識させないためのミスディレクションの役割をもしていますが、あわせてその都度観客に芝居の外にいるプレイヤーであることの再確認を求める働きを結果的にしてしまいます。観客はせっかく没入していた芝居の世界から排除されてしまい、お芝居の世界と観客を一つの世界へ統合するはずの仕組みがそのたびにリセットされてしまいます。観客をお芝居の中に組み込む働きが、逆にこれはお芝居ですよと言う取扱説明書を聞かされ、セーブポイントで珈琲タイムして、さあ、ゲーム再開ということを繰り返させられるといやでも、幕を隔てて単なる観客であることを意識せざるを得なく、せっかくのたくらみが弱くなってしまったと思います。
 せっかく観客が入り込んでいても、説明の度に主人公によってこれは夢ですからと言われてしまうと観客はその中から疎外されざるをえません。夢がリアルに浸食し、ナオキが徐々に明らかになるにつれ、悪夢に変わり、やがて夢がリアルに取って代わる怖さは魅力があり、その怖さを幕の外側にまで浸食させていけるはずだったのですが。まあ、夢落ち宣言は元々両刃の剣ですから難しいところではあるのですが。それでも観客を芝居の内側につなぎ止める力は持っているのですから、観客を芝居の外側にはじき飛ばす力を阻止する工夫がもうひとつ、演出の視点としてあってしかるべきだったのではないでしょうか。夢落ちである理由、あるいは夢落ちでなければならない理由、田柄こその禁じ手でなければな らない視点。残念ながらそのあたりが希薄であり曖昧になって、結果的に台本をなぞっただけの「高校生が見た夢」となってしまったように思えました。
 役者さんたちは台詞コントロールなどよく訓練されていましたし、まとまっていたと思います。けれど、見ていくに従い曰く言い難い違和感が出てきました。舞台の最終的な魅力は詰まるところ生身の役者の身体が醸し出す息吹だと思うのですが、それが今ひとつ感じられない。というか、訓練されて緻密にやっているだけに、役者が芝居に埋没して遠ざかる感じでした。乾いた演技というか、洗練された類型化であったと思います。言葉は悪いけれど精密にコントロールされたロボットの演技、舞台にそれぞれの役者の生身が生きていなかったと思います。完璧に台詞を覚え、段取りや息づかいも把握し、最初から最後まで間違えず完璧にやり通す。見事ですがですが、それ故に逆にそこに現実性を持つべき役者 がいなくなってしまう。そういう感じが強くありました。創り上げていくとどうしても、生身の身体が台詞を支えているのではなくて、台詞だけが芝居を支えているように見えてしまうときがあるのですが、その意味で、もっともつと生身の身体の魅力がほしかったように思います。素朴で稚拙な台詞や演技でも生身の息吹が感じられるとき私たちは心を動かされると思いますし、「夢落ち宣言」の弱点をカバーして、このお芝居の「夢落ち宣言」の必然性を納得させられる力もそのあたりにあるのではないかと思います。
 
●海部高校「ジャムにいさん~メタめた坩堝ん?と私~」
 神話、伝説、昔話等でおなじみの物語の王道というか、、祖形である「行きて帰りし物語」(ホビットの冒険の副題)の構造をもつお芝居だと思います。探索にでかけ目的を達成し帰還する。その間に主人公は「成長」する。RPGでもおなじみの枠組みです。受け入れられやすいせいか同じ構造を持つお芝居がかなりよくみられます。通過儀礼的という人や、新しい自分を見つけだす手続きというという人もいますが、同じことでしょう。物語ではもちろんのことお芝居でも要は、その「成長」がドラマを作り出すということでしょう。もちろん、「成長」できなくて、そこでしか生きられない場合も含めてのことですが。当然、こういう構造を持つお芝居は、「成長」に関わる仕掛けがうまくいくか行かないか で品質が左右されるはずで、このお芝居の場合、そこが少し弱かったのではないかと思います。(補足しますと、川之江高校はその仕掛けを意識的に計算してかなり緻密に組み立てていたように思えます) 
 「萌え」から始まるお芝居は、身内がその業界で飯を食っている関係で個人的に大変笑わせてもらいました。まあ オタクを揶揄する造形はありがちと言えばありがちで、この作品もその行きを出ていなかったとは思うのですが、観客にはわかりやすくね面白かったとおもいます。実際にはオタクはもう少しこゆくて人生賭けてて絶対後悔しないはずなのですけど。しかし、観客のそういう偏見というては悪いんですが、意識状況を照らし出す形を意図的に選択していたとしたらこの台本かなり意地悪なとこがありますね。
 意地悪さは、ラストの所にも見られるような気ががします。二次元世界のアイドルの案内人に導かれ、いってかえってくるところが能舞台というもう破れかぶれ的な帰り方はおもしろいです。所詮人生無常で意味も何もないという結構怖い感覚が見えました。人は皆色々と人生に目標立ててがんばり、あれこれ転機を迎えてチャレンジしてみたりするけれど、でも実現することはあるの?という大多数の人びとに取ってはあまり問いかけられたくない現実を突きつけているといってもよいかもしれません。こゆ芝居たまりませんねぇ。でも、人生、むなしく空騒ぎでもいいんでないですか、ジャムくん。たぶんきっとほとんどの人にとってはそういうモノなんですよ。切ないことですが。そういう意味で、最後の 能舞台での動きは、やはり少し甘いです。身体が表現し切れていません。ちょっと残念ですね。深い悲しみや絶望の表現も難しいんですけど所作をもっと鍛錬したほうが良かったと思います。ここが絶対に譲れない表現ですから。
 あと、邪魔をするものたちの小ネタもばかばかしくて良いです。チープな装置もふさわしいかも。ただ、要の10年後、20年後という 時間経過の設定は仕掛けというには力が弱い。せっかく、フィクションのリアルへの侵攻とも言うべき面白い仕掛けを作りながら、観客の想像力を限定させる方向に働いてしまったとおもいます。(ちなみに 題名の小ネタはその真剣なくだらなさ?ゆえに余計笑えた)題名の小ネタ通りのいかがわしい世界をもっときちんと作り込む必要があったのではないかと思います。そのほうが遙かに帰ってくることが難しくなるはずですから。また全体的なチープ感やくだらなさかげんが効果を上げていたと思いますので、もっと猥雑な感じのごった煮に持ち込んだ方がよかったかも しれません。その方がこのお芝居の持っている意地悪さをよりよく表現できたように思います。

●春野高校「葵上『近代能楽集』より」

 面白いお芝居を観ました。他の出演校とかなり離れたベクトルをもっているというだけではなくていろいろと現在の高校演劇に欠けているものを考えさせられるお芝居だったからです。
 この脚本は多分に美学を要求しているように思えます。いい悪いは別にして言葉がそれを求めています。その美学に沿って作り上げるのも一つの方法だが、それにあがらうのも一つの方法でありましょう。脚本の枠内に収まるか枠を超えるか。こえるとならば演出の力と役者の身体性に賭けるしかないだろうと思います。私は、脚本を書くしか能がなかったから、ひとりで脚本を書いて演出をするということがどうしても信じられませんでした。それがプロであれアマであれ。顧問をやっている終わりの頃やむを得ず演出をしなければいけない羽目に陥ってやりはしたが、どう考えてもあれは交通整理のレベルだったと思います。自分の書いた世界を更に外から見て再構築するということは、それを批評といった り演出と言ったりするとおもうけれど、どうしてもひとりの人間がそれをやることができると今でも思えません。結果としてできた作品は、やはりその人の脚本の世界に元々内包されていると思います。演出はやはり批評ではないかと思うからです、脚本に対する。
 で、もってこれは三島由紀夫の既成脚本。脚本自体はえらそうにいうと別にたいしたことはないと思います。だからどうしたというレベル(三島の怨霊に殺されそうですが、だってそうだもん)。でも、日本語が素晴らしい。言葉で持っている。この言葉をきちんと表現できるのはなかなかに難しいことだと思います。一体に高校演劇の言葉のレベルはかなり低いと思います。日常の言葉を離れて難しい言葉を使えと言うことではありませんよ。お間違えなく。お芝居の言語として書かれているかどうかと言うことです。上手く言えませんが、どうにも高校演劇の言葉はそういうことは余り意識しているとはおもえません。ま、それだからお芝居にならないと言うことではなく、あくまでも言葉が単なる物語の進 行を説明しているだけなものが多いと言うことです。言葉自体がお芝居を成立させているものをみたいと思います。高校演劇でも可能だとおもうんですけどね。
 閑話休題。このお芝居は、ドラマの構造とかいいたいこととかは関係なく、言葉自体がメインのお芝居だと思います。たぶんこのお芝居で使われる日本語を操るにはかなりの能力が必要かと思います。それがなければ、ただ台詞をそう書いているから言っているだけということになろうかと。これは役者の問題になってきますね。台詞にどれだけ淫することができるか。中味スカスカですからある意味高校演劇でもやりやすいとは思います。だって、台詞を役者がどういえるかだけですもん。
 というわけで、三島と取っ組み合ったこのお芝居は脚本からいかに離れ、いかに批評をし、その世界を演出と役者が再構築し、美学とどのように対峙したか。ともすれば美学に飲み込まれるてしまうところをかなり抵抗してあざ笑っていたと思います。それが先達の仕事をいかに批評するかという、後進の意義であり挨拶であろうかと。私はかなりがんばっていたと思います。
 始まりは、やはり美学が支配していました。黒い背景に、ベッドや看護婦の白を基調したモノクロームの空間。ちらちらと見える看護婦の赤いヒールと、妖しい花、よく見えないが熱帯魚(?)の色彩が鮮烈だけれど、それだけではしかたがないやろうと。しばらくは台詞のない時間が経過します。圧迫感のある音楽の中、看護婦が登場して演技を続ける。これは期待を喚起する非常に気持ちよい空間でした。看護婦はきちんと場を支配していました。
 看護婦さんの長台詞。高校生がね、ふーん、この長台詞?なめてんじゃないの。ごめんなさい、なめてたのは、私でした。身体がその台詞を支えている。おっとやるにゃあと。で、もって看護婦本読むんですね。本来の業務にあるまじき行為。気になりました。亜で気がついたけどこれは構造の伏線でしたね。
 光さんが登場するけれど、線が少し弱い。ノーブルさにかけるというか童顔が損してるかな。光源氏に比するにはきついし、台詞も若干支えきれていない。二人の女の間で揺れるには、幼すぎるのが痛いです。
 康子さんの登場。まずはきものの着こなしがすごい。現在では普段の身体とは異質な身ごなしが要求されるものであるが、見事に着こなしていて挙措動作に乱れがない。トレーニングを積んだことが伺われる。等身大のリアリズムとは違う様式化された演劇にはどうしても、単なる型や形だけの様式ではなく、身体の基礎から発する生身の美しい動きが要求されるけれど、かなりの水準でそれをこなしていて気持ちが良かった。台詞もよく、やや文語調の美しい日本語をきちんとだしていてこの芝居の要求に応えていたと思います。
 飛ばして、紗幕のシーン。この芝居の核になっているものを見せる重要な一つのシーン。背景に浮かび上がる理想の女性である葵の純粋さと、それと遠く隔てられている(時系列的には逆になるけれど、汚れた( ̄- ̄)康子の情念に絡め取られる光を考えればかまわないだろう)光、葵のわかさと美しさとはかなさが際だち、反比例して、紗幕に光を包み込み、老醜(といってはかわいそうだが)をさらしながら、しかも捨てきれぬ愛の執着に絡みとられている哀れでもある存在の康子が、その心情に通底する「天城越え」を、執念込めて歌い上げる。康子が熱唱すればするほどに、葵の存在が浮き彫りにされていく。また葵のすがすがしく美しい立ち姿の演技がすごくよく、それは光にとっては遠く、近距離で若い 光にまといつき目を背けたくなる姿をさらす康子を更にひきたててていた(声がひっくり返るのがかえって無様な感じがありよろしい。ま本意ではないだろけど)。所詮不倫ははたから見ればどろどろで無様で下品なものです。石川さゆりの情念が三島の要求する美学よりリアルなものであるという鋭い批評ともいえるシーンでもあった。異化効果といってもよろしい。しかし、観客に取ってはそれが効果的であったかどうかはちょっと厳しかったかもしれない。紗幕かぶったのは気の毒でした。
 光が、実は、清楚でかわいらしい葵を捨てて、もうどろどろの康子に惹かれる姿が、康子に取り込まれるのではなくて、光る自身の意志としてもう少し明確に表現されていたらもっとおぞましくなったであろうと思われる。だって、人生そんなものですもん。大人ってのは( ̄ー+ ̄)y-'~~~。
 でも、一番、この芝居ががんばっていたのは、やはりラストだろうと思います。キモは個々にあったと思います。看護婦がリンゴをかじって笑ううふふがこの演劇の最終テーマを表現している。登場人物はもちろん観客も含めて全てのものをあざ笑う冷たい悪意。全ての事象があの笑いで締めくくられる。もがく苦しむ営みを神の視点から見下ろす物語の枠外から批評する悪意。今までの演劇の行為が全て無化されそれまでのことよと。
 看護婦の読んでいた本は何だったんでしょうね。あんがい、三島由紀夫作『葵上 近代能楽集より』かもしれませんね。しょうもないことしとるわな、くだらねーと看護婦はあざ笑い、リンゴを一かじり。怖いわあんた。異化作用の極致。演出のお仕事ということを十二分に理解して構築し、役者もまた身体に基づくコトバを立ち上げたお芝居だと思いました。ここの役者ほとんどおばけです。
 異世界の出来事を見るような気もいたしますが、等身大も非等身大も所詮全てはうたかたの夢でありましょう。人間の営みなんてせつないものであります。でもそれやるしか仕方がないのが人間でもあります。それをいかにがつんと提出してみせきれるかが演劇と言うものではないかと思わされました。合掌。
●高松工芸高校「Stick Out」
 全国大会出場おめでとうございます。土佐高校の例にならって、やばいところのみ言わせていただきます。かなり耳が痛くなるようなことも言いますが、あくまでも個人的な意見ですからその点をお含み置き下さい。ほめ言葉は他の先生方にお任せいたします。
 悪意を全面的に押し出して真っ向勝負したお芝居はあまり観られず、その意味で高校演劇の世界を広げた作品ですが、逆に言うとその悪意の中で若者のにっちもさっちもいかない生態をリアルに表現させなければこの芝居は成立せず嘘くさくなります。そのためにいくつか苦言を。
 まずは先生の造形。保身的でこずるくやる気のない教師の姿をもっともっとつくりこまないといやらしい大人のリアルな姿がうかびあがらない。この先生の姿がきちんと造形できてこそお芝居の品質が保証されるし、またそうしないと最後の方の逆転が生きてきません。台詞をもう一度検証し直してみてください。実際の生活感に裏打ちされた本音の台詞が聞きたい。そうしなければどこにでもあるステロタイプな教師になってしまいます。実際今の段階ではそうです。この教師もいわば被害者なんですから、一方的な立場だけではなく人間はさまざまな立場に立たされてその時々で立場を取り替えながら生きていくしかない現実を反映させる台詞を期待します。役者をめちゃくちゃ鍛えてください。あれでは大 人ではなくせいぜい頼りない先輩です。
 生徒たちの造形。これも少しステロタイプで深みがないのが痛い。それぞれのマイナスの歴史があるのだけれど、それがエピソードで終わっている感じです。マイナスを抱えて、一歩引きながら生きて悩んでいる生徒の台詞としてもう少し工夫が必要であると思います。被害者の弱さとそれを超えてなおもいきなければならないしんどさを表現するリアルな台詞がほしいです。
 そうして何よりも、悪い奴らの造形。この乱入してくる若者たちのキレるとこやなんもかんがえてないとこや、計算づくやずるさなどもっとリアルに作り込む必要があります。今のままでは、粗悪なマンガになってしまいます。暴力シーンも、長く、だらだらして緊張感がなく、ちんたらして間延びする印象。本当はここが長さを感じさせない鋭角的なリアルな緊張感と怖さが絶対的に必要です。理不尽な凶暴さが形象化されきっていない。もっと乾いて冷たい感じがほしいところ。刹那的、動物的な欲望のみで生きていている感じがほしい。ここがキモだからもっともっと作り込む必要がある 北野武作品のような凶悪さがあればいいんだがねー バカっぽい台詞生み出すこいつらはなんもかんがえてないんや 、むしろ考えることを拒否している、それから生まれる怖さがほしい。絶対に明日はないだろうけど、あるいはこいつらに明日があるかもしれないという、パンピーに与える恐怖。実はそれが現実でしょ。
 立ち回りについて。甘いです。甘過ぎ。段取りで、乱闘しても迫力が出ません。第一嘘っぽくてしらけます。空間殴ってもしょうがないでしょ。実際に殴り殴られ、本当に絞め殺すつもりでやらねば作品が生きない。やるならやらねば。段取りを精緻に組み立てて、やるならやらねば。それにしても暴れるヤツらが楽器には手を出さないのが不思議です。本当なら、使いようがないほどめちゃくちゃにするんでしょう。まあ、実際にやると経済的ダメージが大きすぎて部活動でさえられる範囲を超えますので仕方ないところですが、それならそれで楽器を破壊しない納得させる理由がほしいところです。嘘くさくなりますから。
 役者さんたちについて。演技がステロタイプな役者が多いのと、力量のばらつきがありすぎです。悪の集団こそ演技力が絶対的に必要とされます(悪役が光る作品が面白いのはテレビや映画の実例見ても多いでしょう)。その意味で悪役たちは善人過ぎてぬるい。特に台詞の出し方ステロタイプ過ぎ。あなたたちがこのドラマの根底を支えないかんのだからね。もっと工夫して悪の道に精進しなさい。つうても実際に手を出してはダメですよ。
 まだまだ言いたいことはありますが、いいすぎると殴り込みされそうなので置いておきます。けど、最後に少しほめておきます。こういう救いがほとんど見られないお芝居は必要だと思います。脳天気なお芝居が多すぎる高校演劇に鉄槌を下してください。ラスト気に入りました。まとめちゃうお芝居ばかりするとこに、ざまあみさらせという所でしょうかね。がんばってください。もっとさらなる悪意を。

●【最後に 各校の皆様へ】  

 そうして念を押していなければいけないのは、今回(だけではなくて)上演されたそれぞれのお芝居の優劣は、実は何の意味もないということです。もちろん当事者たちにとっては、上の大会へ行けると言うことは自分たちのお芝居をもう一度できる機会を与えられると言うことでうれしいことではありますが。コンクールという形式は、やりたい演劇をやるんだという強い意志の前には無力であるべきです。県大会(あるいは地区大会)で敗退した死屍累々のお芝居は、上演したものたちにとって、唯一確かなものとしてあるし、それに費やされた時間と場の共有はかけがいのないものであり、それこそ人生の中での輝かしい一つの体験といえましょう。結果は所詮結果でしかなく、たまたまそこに居合わせた審査員 によって判定された「価値」にしかすぎなく、あなた方が上演する中で得た「価値」とは比するべきもないレベルです。どうどうといたしましょう。負けて帰る、理不尽さに打ち倒されて、恨みと後悔にしょぼくれた姿は醜い。それは、演劇をやると言うこととは別の次元の話だと私は思います。全国で万を超す学校がそれぞれのやりたい演劇をやったはずです。そうして、「コンクール」というシステムの中でばったばったと討ち死にしていきます。ある意味、壮烈な光景。しかしながら毀誉褒貶は時の常。システムがある以上それはさけられない。けれど、自分たちの意志を否定してはいけないし、曲げてはいけない。それにこだわりきって突き進む学校を私は愛します。それこそ、本旨であるから。勝ち負けに こだわりだすと、それは高校演劇とは別の枠に入ってしまうと思います。この冷たく凍り付く季節の中、提示された結果を、「晴れ晴れとした悲しみ」とも言うべきもので受け止めていただくことをあなた方に持っていただきたいと切に思います。それこそが次の芝居への原点であるべきだと。しょせん高校演劇なんてそんなものです。ではまた、機会ありましたらお会いしましょう。


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