第34回四国地区高等学校演劇研究大会講評


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●はじめに

 四国大会お疲れ様でした。
 いろいろな舞台を見る機会を与えられて眼福でありました (変な日本語ですが)。講評というより観客席から見て気づいた点をいくつか述べておきます。あら探しっぽいところもありますが、些細な点ほど結構気になるものでして、ご容赦下さい。主として脚本に関したことがメインですが、自戒も込めて述べておきます。
  まず、全体的に感じたことは、どうも皆さん、わたしも含めて脚本の罠の誘惑に負けやすいようです。罠の名前はご都合主義といいます。
 本はとにかく【幕】と書くところまで行き着かなければなりません。そのためには、やはり脚本を動かしていくドライブマシン(脚本における装置といってもいいと思います)が必要になります。対立とか葛藤とか壁とかいろいろいわれてますね。それをいかに克服していくかでお話がころがっていくし、それらがのっぴきならなければならないほどドラマチックになっていくわけですが(ストーリー性のあるものに限定したとして)、実はこれがなかなかころがらない。うまく転がしていくために四苦八苦するんですが、壁に負けたり葛藤を超えられなかつたりしてどん詰まりの状況になってしまいがちです。そういうとき、悪魔の誘惑が囁くわけです。状況や問題や登場人物の設定時に、ころがりやすいようにしたらいいんでないかいと。ちょっと妥協してもいいじゃんかと。当然それは書くときの計算として許容されるとは思うんですが、それがあまりにもころころころがるようにしてしまうと、ドラマはたんなる、終末への手続きに転落してしまうとおもいます。しかもこいつは結構無意識的にやってしまうから始末におえません。不断のチェックが必要だと思います。自分もさんざんやってきましたからえらそうなことは言えませんが。
 今回は、そういう脚本が多々見られました。きっついことを言いまして済みませんが、わたしにはそう見えました。以下、各校への気づいた点をお読みいただいてわたしの言いたいことをお酌み取りいただければ幸いです。

●各校講評

●1.東温高校『おおつごもりの夜は更けて』

 父帰るか、父帰らないのか微妙なところですが(かえらなくてもいいような気もします。どうせダメ親父で帰ってきたら多分もとの黙阿弥、きっと蹴りをいれられるんでないかな。)お芝居の構造としては「不在の人」をいかに造形するかが勝負かなあと思いました。だからしてこの台本では、「不在の人」の説明に都合がいい「手紙」と「代理人」の設定が結構気になりました。このふたつを省いてしまうと、母と姉妹の三人のお芝居になりかなり書くのに厳しいハードルが立ちはだかります。でも、本来なら、三人の会話を通して、父と三人の関係それぞれの思いと変化が描かれ、舞台には存在しない「父・夫」が浮かび上がる。渋いですねー、それがうまくいけばドラマとして密度のあるものになるのではないかと思います。その結果、大晦日に父が帰ってきても帰ってこなくても、待ち続けても待たなくなっても、それは一つの家族のありかたとしていいのではないか。ようは父なんかどうでもいいんで、母と姉妹のドラマであることがキモではないかと思います。
 その意味で手紙を父の声で読みますと家庭に不在のはずの父がドドーンと居座った観があり、あんたねーちょっとあつかましくないっていう感で、少しまずいんではないかと。3年間父がいないという「家族」にとっての状況の重さが一気にとんでしまってやばいのでは無いでしょうか。なかなか三人だけの会話からは組み立てるのがきついですがそうした方が「不在の人」を浮き上がらせる力は大きいと思いますがいかがでしょうか。ドラマは外部からの介入(手紙・代理人)がないと動かしづらいんでしんどいんですが、踏みこたえてやっていただきたかったです。「妹」という全部知っている(父のもっている情報と全く同じですので)裏切り者が設定されていますので、手紙や代理人を使わなくても、妹を使えばいけるのでは。それぞれの微妙な会話のほころびから、状況説明は可能でしょう。その分三人のドラマの構築が厚くなるのでは。
 その他の細かい点では、間取りがよくわかりません。リアルな舞台ですのでそのあたりもきちんと設定された方が表には出ませんが支える力になるのでは。入り口の高さなんかも(土間と今の床が同じ高さなのはいかがなものか)きになりましたちょっと狭すぎで出ハケに苦労してましたし。大晦日にけじめつけて帰ってくる割には少し大晦日だという雰囲気が稀少だと思います。日めくりとそばだけでは少し物足りないです。新聞の束も微妙に問題かなと。大事な日だからこそ、普段の大晦日と違う、逆に言えばもっとしっかり大晦日を雰囲気として醸し出すほうがよろしいのではないでしょうか。日常的な芝居であるからこそ、装置や小物には最大限の細心の注意を払って払いすぎることはないと思います。直接には関係ないですが、雰囲気として安心してその世界に浸れますから。全然かなり関係ないですけど作者の名前いいですねー。

●2.城東高校『おくる』

 装置の赤の色が印象的です。転換をお芝居の一部に取り込んでいたのは自然で効果的だと思いました。丁寧に作っていたと思います。始まったとたんにああ、この荷物が片付けられるんだなと予想できるのはしかたないですが。(だってあのままじゃ、できませんものね)。(「第三舞台、紀伊国屋ホール進出」つうのは笑えましたが客席の反応が薄かったのは、わからなかったんでしょうね。審査委員長かわいそう)
 さていろいろな部が登場しますが、ウケねらいシーンもあったり、いかにもな演技もあったりで、それはそれでいいんですが、ちと本題に入るのが遅いかなという感はありました。肝の「黒く塗りつぶされた絵」めぐってもっと、もっと掘り下げてもらいたいと思いました。まああまりやりすぎると観念的なお芝居になるおそれはありますが。ラストはやはり唐突すぎて、わかりづらいですね。微妙に伝わりますが、多分伝わり方の誤差が多すぎるだろうと思います。明確なメッセージを生で伝えるとしらけますが、ソフィティケー卜しすぎるとようわからんということになるのでは。シンボルをもう少しちらちらと伏線として張り巡らしておけば、ああねーっとなったと思います。わたしもちょっと誤解しました。時計をだすのであればもっと前になんらかの下ごしらえが必要だと思います。はなしのはこびでそれくさいことは言ってましたが、それでも少し唐突すぎたような気がしました。全体的に少しパターンにはまっているのが惜しいなと思います(脚本や人物造形など)。まあ、作りやすくはなりますが、それが罠でしょう。こじんまりとしてしまいます。できるだけ造りやすくない道をえらんでいただければもっとよい作品になったと思います。
 転換をお芝居として使う手法は各学校が参考にされた方がよいかと思います。暗転は芝居を中断するだけではなく(音楽だけでつなぐのはねー、ドラマと関係なく見え見え多いし)、転換作業をする部員も場ミリあってもしんどいし。要は暗転なしのお芝居を作者が書けばいいだけの話ではありますが、これがなかなか……。

●3.高岡高校『マクベス』

 蛮勇のお芝居だと思います。玉砕してましたが。それはそれとして、一時間以内になんとか押し込めたと言うことと、古典中の古典に挑戦した気概はかいましょう。いまはだーれもせんもんね。でも、役者の訓練が決定的に足りません。日常の言葉とかけ離れた台詞を担うにはあまりにも役者の身体がついて行っていません。無理な注文かもしれませんが明らかに訓練不足な役者が散見されました。そうすると、そのレベルにお芝居が沈下し、台詞をただとにかくがなるだけということになってしまいます。実際、台詞がききとれない。日常の言葉でないので、頭の中で補正しようとしてもなかなかできず、とにかく雰囲気だけはなんとか伝わるということになります。
 しかし、今、こういうお芝居に挑戦することにはそれなりの意義があり、等身大のお芝居が高校演劇に蔓延する中では、がつんと一発横っ面をはり倒すという意味で貴重です。ただ、殴り倒せれたかというとかなりごと疑問符はつきまして、これからの精進にかかるかと思います。
 ラストのシーンははっきり言いましてダメだと思います。聖女たちのララバイではあるまいし、さあ~おねむりなさい~、わたしの胸に~ と救いを与えてしまうのはこのお芝居の「悲劇」としての意味を全否定するものではないでしょうか。それでは、どこまでも破滅に向かって引きずり込まれ落ちていったマクベスは単なるアホになってしまうのでは。まあアホですけど。

●4.高松工芸高校『あした色の空へ』

 おしいなーという脚本です。どっぷりと罠にはまってしまったというのが率直な感想です。非常に重いテーマを扱い問題意識も明確なんですが、それを表現するときに「場」の選択と「都合のいい設定」に足を取られたという感があります。
 場の設定が学校で日常の生徒の暮らしの中に、日航機事故の重い問題をすり込まねばならない。なかなかに難題で、それを解決するために、「たまたま」整備士の娘が二人おりしかもお互いが(というか片方が)知らない。たまたま、兄が事故で云々の生徒がいてそれは誰もしらない。っていうのは、ちょっと都合がよすぎるのでは。しかも、「実はわたしは……」でと明らかになるのは、観客に対して不公平。後出しじゃんけんになります。
 ドラマの設定としてすべて最初からオープンにしてその中から構築していくのが、「実は……」が単なるお話を転がす道具にならなくて良いのではと思います。整備士をめざす生徒がいてもいいんですが、これが最初は説明役になってお話を転がすのも問題だろうと思います。
 確かに日航機墜落というのはもはや歴史の彼方に消え去り、今の高校生にとって(芝居の登場人物の生徒にとっても、観客の生徒にとっても)なに、それという感で厳しいのですが、この台本の肝は どう歴史を継承し、過ちを二度と起こさない という所であろうと思いますから、事故のディティールを細かく情報として芝居の登場人物や観客に提供しなくてもよろしいのではないでしょうか。その部分は単なる説明になってドラマの興をそいでしまいます。
 場を「教室」にしたのが、そういう手続きをしなければならない羽目になったんですから仕方ないことなのですが、最初に設計するときに、情報は最小限にちらちらと、生徒のドラマの背景にしてしまった方がもっとよかったのでは。それか、「場」を教室以外にするかです。「場」の支配力はなかなか強く、意図したことが表現でき無いことは多々ありますので。
 冒頭の棺のシーンはきわめて説明的ですので不要だと思います。最も、霊安室で棺を前にドラマを構築するならばまた別ですが、この場合はきわめて厳しいお芝居になりそうですが、見てみたい気もします。
 生徒たちの群像はよくできていまして見やすかったです。役者さんもそれぞれ健闘していました。まあ ちと不要かなという人物もあってゴチャゴチャうるさいのーというのもありましたが、軽快にいっていたとおもいます。それだからこそ、重い問題をはめ込むには苦労されただろうとは思います。しかし、やはり、それだからこそ、話を運ぶのにつごうがいい設定はあえてさけるべきでしょう。そうしたほうがさらなる高見へと到達できると思います。無茶しんどいんですけど。それも脚本を書く楽しみでしょう。

●5.川之江高校『さようなら小宮くん』

 手慣れた脚本に良く訓練された役者、細部まで行き届いた演出。問題はない。しかし、閉じられた小宇宙は完壁だけれどもそれでも居心地が良くない。なぜでしょう。いらいらしながら見ていました。そう文句はないのに。破綻があってはじめて背後に広がる世界を実感させる。そのドキドキ感がありません。このお芝居は他よりはぬきんでているけれども、内向きの世界で閉じているという意味で、残念ながら今ひとつ共感は持ちにくい。予定調和に鮮やかに落ち込んでいく。お芝居ってこんなもんだったかなあ。
 どうでもいい恋愛関係の編み目を巧みに処理して楽しい作品になっている。一つの小宇宙ができている。きついことをいわせていただけば究極のご都合主義的な演劇だというきがします。ブーイングがおきるかもだけど。そんなにまとまっていいんですかと。完成度も高くて楽しいけど薄っぺらい。こういうお芝居はなかなか評価にこまります。代表として推薦しましたが。
 これだけのお芝居を作る力があれば、もっと違う世界を構築できるはずなのにと思いました。いつまでこのような世界を構築するつもりなのだろうか。生徒は世代が変わるし、生徒には支持されるだろうけれど、どうにも閉じられた演劇世界の自己模倣という気がします。まあ、要求水準が高すぎるかもしけませんが、もっと違うお芝居ができると思います。私的にはこれは、高校生らしい演劇とはあまりおもいません。もどきではありますが。閉じた世界での完結するドラマからもうぼつぼつ抜け出てもいい頃ではないかと思いました。

●6.富岡西高校『海が好き!』

 力が入った装置に感心。いいですね。裏方も気合いを入れて活躍できる。高校演劇は役者だけのものではありません。裏方が生き生きと活躍できる場がなければ。この高校の演劇部員はしあわせだと思います。何かをみんなで作る一体感がある。おまけに転換で動くし。欲を言えば波に動く船の動きがあればと思ったがそれでは役者が困るし、仕掛けが大変ですね。ともあれなかなか見応えある船でした。
 ただ、船の甲板上というエリアが演技の自由度を逆に縛ったのも事実で、装置と演技のかねあいの難しさを感じました。
 脚本的には、大きな物語になるはずのものが、意外に小さい物語に収斂したのは少し惜しいかなと思います。難民の問題はそれだけで重大なテーマを包摂していますが、結局の所、小ネタに終わってしまったのは少しご都合主義的な素材でしか過ぎなかったと思います。せっかくコミュニケーションの問題というおいしいテーマが出てきているのに、もったいないと思います。漂流の追い詰められ方が甘いのも気になります。それが今時の高校生の感覚かもしれませんが少しまったりしすぎて危機感のかけらもないのはちといかがかなと。あと、ラストの方の波間に浮かんで対話のシーンも揺られるのがずーっと同じリズムであるのはなぜ? ともあれ、装置に始まり装置に終わったお芝居の感があります。

●7.高知追手前高校『building』

 語弊をおそれず言えば良くも悪しくも高校生らしい作品です。最初の方のシーン、積み木のビルに飛行機がつっこんで破壊するシーンにどきっとしました。おおーっ、やるんか、それを。と思ったのは早合点でそのままで終わってしまい、何でそこを詰めないのかと。
 装置的には段ボールと、犬の模型(?)。段ボールはほとんど意味をなさなかったと思います。むしろ、壊された積み木と、犬の模型がだんだんとできあがっていく、それだけていい。リリーは犬の化身のようですがファンタジー的処理が少しまずいために、わかりにくい。むしろ脚本的には不要でしょう。なくてもわかるし、無理にファンタジーにすることはない。題名から言えば、自分たちの立つ位置や場所を「建設する」ことをもっと明確に出す必要があると思います。ドラマの進展と共に冒頭で破壊された積み木のビルと犬の模型が再生されていったならば、はるかに、装置と脚本が意味をなしてくると思います。せっかく、再生を描こうとしたのに、リリーという都合のいい説明役を出したのはまずいと思いました。

●8.琴平高校『ボランケンにようこそ』

 個人的には好みです。このダークな感覚は。ただ、少しシステマチックな感があり、もう少し自由な雰囲気があればと思いました。役者は訓練されているんですが、どうにも予定調和的な演技で、生きているとは思えない。緻密な計算を感じますが逆にそれが裏目に出ていると思います。どうしても、内向きになり広がりがない、閉じた世界を構築してしまった感があります。悪くはないんですが。
 最初の異様なオープニングは、おおっこれは洗脳かとおもいぞくぞくしました。でも、認知症とは……。設定にご都合主義的な無理筋があり、その無理を超えられなかったというのが正直なところ。説明役がいたのも興ざめです。もともとこんな学校はあり得ないんですが、それを強引に納得させられる力業がもう少しほしいというのが実感です。それを超えれば、もっともっと悪夢のような世界が構築されたのではないかと思います。破綻がほしいなと思いました。閉じてしまわなくて、枠をはみでたならばすごく面白い世界が顕れたと思います。

●9.松山北高校『トロイ』

 少し、講義か小論文の感があり、ドラマの部分が弱いと思います。秋山好古の一代記というには情報が少なく、トロイ君のドラマとしては薄すぎます。もう少し秋山を背景に隠して、トロイくんを前面にださなければ現代のドラマとしては厳しいと思います。ちなみにトロイくんは、とろいイメージがよくでてまして好感がもてました。いるんですよねこんな生徒。むごいけど。設定的にもすこしくるしいし、模造紙に、書いている事項もちよっと雑すぎです。もうちょっときちんとかかなければ、展示作品にはなれません。
 しかし、社会的事象と、クラスの生徒を結びつけようとする意図はかいます。多少大雑把なところと密度の薄いのは問題がありますが、その姿勢は正しいと思います。直接的に結びつけるのは苦しかったのとドラマの部分がよわいのは問題ですが、それでも、外に向かってひらかれる可能性はあると思います。その意味で高校生らしいお芝居だと思います。こういう脚本を書かれるとき、もう少しのっぴきならない結びつきをみつけてその結び目をしつこく追求されることを期待します。

●おわりに

 二日間力の入った各校上演をみながら、少しずつ違和感がたまっていった。こんなんでいいのという感じ。うまく言えないんだが、外は荒れ狂う波浪が船を襲いつづけている。なのに船内は、のったりとして平和な世界。それはそれでいいのかもしれないが、船が沈没し始めたらどうするのだろうか。タイタニック号の平和。
 高校生らしさということが度々言われる。評価の視点としては少し引っかかるところがある。部活動である以上高校生があるから高校演劇であってそれ以上でもいかでもないだろう。チェーホフをやろうとイプセンをやろうとギリシャ悲劇をやろうと高校生がやる等身大の高校演劇であろう。日常生活を演じるのが等身大ということにはならない。というか、高校生がやる演劇はすべて高校生の等身大の演劇であろう。大人がやる演劇は大人の等身大の演劇であるに過ぎない。等身大の演劇が高校生らしい演劇というのはあまり意味がない言説である。日常を等身大の身体感覚で表現するのは悪いことではないし意味もある。しかし、それは多分に閉じられた世界を構築するだけに終わることが多い。なるほど確かにわかるけどそれは演劇で表現しなければならないことなのかと。
 気になるのは、半径十メートルは見えるけれどその先を見ている演劇があまり見られなかったことだ。拙い表現でもかまわないから、その先にある世界を見てほしい。これは単純に社会性をもつ題材を扱えばいいと言うことではない。扱っていても処理を見るとやはり、半径十メートル以内に収まっている。あるいは、身のまわりのアクセサリーにしかならない。おおきな社会的事象を扱えと言うのではない。半径十メートルでいい。ただ、世界はその先に必ずつながっているはずだ。そのつながっているところをきちんと押さえてほしいと思う。演劇の稽古を熱心にする前に世界を見る目を養ってもらいたい。
 その意味で高校生らしくない演劇なんてあり得ない。大人らしくない演劇って聞いたことあるますか?
 二日間見ていて、不思議な感があったのは、たとえば格差が問題になる演劇がなぜなかったのだろうかという素朴な疑問だった。年間三万人を超える自殺者がでる異常な社会。崩壊し続けると言ってもいい現実があるにもかかわらず、結構平穏でのっぺりとした日常しか感じられないのはどう見ても違和感を感じた。
 なるほど高校生の生活は学校中心に回る。勉強や部活や友だち関係や恋愛やいじめや、なんたらかんたら…。でも、その周りを圧倒的に包囲しているのは時代であり世界であり、半径十メートルの小宇宙を厳しく規定している。小説や演劇はその包囲している壁に小さな風穴を空け、自分たちの世界を広げるツールではないかと思う。ちょっと目を配れば、厳しい状況に置かれているクラスメートだってゴロゴロいる時代だ。
 何も、現実の社会的なテーマを扱え、それが高校演劇だとアホみたいなことを言っているわけではない。要は、お芝居が閉じていることが気にかかるのだ。どんな、テーマを頼ってもいい、だがしかし、見ていてひりひりする感覚が見られないのが残念なのである。
 カナリア理論っていうのがある。ほんとかどうかはしらないが昔炭坑夫がガス爆発などの危険を裂けるためにカナリアを坑道につれていったという話。最も敏感に危険を感じるからカナリアが倒れたらみんな退避ーという寸法。ポイントは最も弱いところに圧力は襲いかかる。その圧力、不条理を最も早く受け止めるのは最も弱い部分である。というところであろうか。私的には高校演劇は時代に鋭敏であるべきだと思う。時代に最も敏感なのは、大人ではなく若い人であるべきだし、事実変革はほとんど若い人によってなされる。時代にそぐわない感覚や怒りや苦悩は若い人々が最も鋭敏に感じる。時代に関してひりひりする感覚、柔らかい肌をこすり取られるような感覚があってはじめて、次へいくことができるのではないだろうか。
 若い人はある意味カナリアだ。社会に対して免疫がない。でも、今は現実が牙をむいて襲いかかる時代だ(正確には今もかな)。もっともっとひりひりしていいし、その感覚を味わっている人は多いはず。でも、それが、高校演劇の現場で表現されているかというと……疑問だと言わざるを得ない。勉強や部活や友だち関係や恋愛やいじめや、なんたらかんたらのお芝居の中でその感覚が全くないというのではない。しかし、それを、いつの間にか予定調和の中に押し込めて丸めてしまって閉じてしまっているのが実際の高校演劇ではなかろうか。少なくても二日間の高校演劇のなかでそれを突破したとかんじられるのはなかった。
 「高校生らしい」お芝居っていうのは、曖昧な概念でそのくせけっこう評価の基準として一人歩きしてはた迷惑なものだけれど、現役の高校生諸君に関して言えば、そういうことは無視して、高校生であること自体が高校生らしいことだから、もっともっと外へ外へ視線を向けてほしい。演劇以外のことをもっともっと学んでほしい。外に対してカナリアであってほしいと思う。その結果として、表現されたものが高校生らしい演劇であるしかないと思う。演劇のことしか学ばないって言うのは最低ですからね。それは単なるオタクであり、自己満足の世界しかつくらない。
 高校演劇は高校で学ぶことのごくごく一部でしかありません。もっとも、なかなかに魅力があり、下手すると社会を漂流しかねない悪魔的な魅力を持っていますが。とにかく、ひりひりする感覚を大切に、次のお芝居を作られることを切望いたします。


猫耳屋は見た のページ