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「飛ぶ教室」    
  作 結城 翼

すべて善き猫たちへ。君たちはいつだってほんとうのことを知っている。      


登場人物
ナナシの猫・・・・・・・・・・・・・・・
夏子先生・・・・・・・・・・・・・・・・
夏緒・・・・・・・・・・・・・・・・・・
葵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
朱美・・・・・・・・・・・・・・・・・・
泡谷・・・・・・・・・・・・・・・・・・
千面鬼・・・・・・・・・・・・・・・・・
シャンプー・・・・・・・・・・・・・・・
リンス・・・・・・・・・・・・・・・・・



Ⅰプロローグ

夏。遥か風の赤道から吹き渡ってきた八月の風が吹く。
声が微かに重なり合って聞こえる。

声  :どっどどどどうど どどうど どどう、
   ああまいざくろも吹き飛ばせ 
  すっぱいざくろも吹き飛ばせ
   どっどどどどうど どどうど どどう

ゆっくりした鼓動音が重なる。一五億回の命の鼓動だ。
溶明。大小、形状様々な階段が舞台全面にあり、全体として螺旋状になっている。奥に白い大きな樹。帽子をかぶった子供たち が、階段をゆっくりとあがったり降りたりしている。樹の上にナナシの猫がいる。風に樹が揺れる。ナナシの猫はやがて起きる。 そうして、あなたに語り始める。ひときわ激しい風が吹く。ナナシの猫の帽子が飛ぶ。晴れやかな笑顔。

ナナシ:充分すぎるほどの風だね。そうさ、僕には充分すぎるほどの夏の風だ。僕は誰かって。僕は猫だよ。それもほやほやといっていい新米の 猫だ。名前はない。それもそのはず、僕は死んだばかりだからだ。生きているじゃないかって、そうさ。生まれたばかりだもの。何のこ とだかわからない?ごめん、ごめん。聞いてくれるかな。僕は人間だった、死ぬ前はね。あの大きな樹が見えるだろう。あの上から飛び 降りたんだ。夕日に向かってね。明日から二学期が始まろうと言う夏の終わりの夕方。とても、赤い夕焼けで、一瞬やめようかななんて 思ったけれど、やっぱりね。こう言うときはかっこよく行きたいじゃない。だから、思い切って飛んだんだ。けれど、飛んだ瞬間、ちら っと思った。ああ、もう一度ってね。何がもう一度かわからないけれど。気がついた瞬間、僕はこうやって猫になっていた。聞いたこと ある。人間が思いを残して死ぬとさ、残念ていうんだけど。人間は猫になるんだよね。どうしてかって、わからないよ、僕には。おかし い?おかしいよね。じぶんだって、しんじられない。・・えっ。これからどうするかって。ちよっと気になってさ。うん。もう一度って、 なんでおもったのか。気になって。・・できたら、もう一度人間に戻りたい気もするけれど。まあ、無理だよね。
夏 緒:無理じゃないさ。
ナナシ:だれだい。
夏 緒:夏緒というよ。新入りだね。
ナナシ:無理じゃないって。
夏 緒:ああ。
ナナシ:君は誰。
夏 緒:君よりちょいと古株。教えてやろうか。
ナナシ:なにを。
夏 緒:いったじゃないか。人間にもう一度なりたいって。
ナナシ:そんなことできるのかい。
夏 緒:ああ、たぶんね。
ナナシ:どうしたらいいの。
夏 緒:夏子先生にきいてごらんよ。
ナナシ:夏子先生?
夏 緒:ああ。
ナナシ:誰?
夏 緒:先生さ。
ナナシ:だから、何の?
夏 緒:八月の夏の国。飛ぶ教室。
ナナシ:飛ぶ教室?
一同 :飛ぶ教室。八月の夏の国。

夏子先生登場。

夏 子:みんな元気だね。結構、結構、じゃ、はじめようか。
夏 緒:起立。 

子供たち思い思いの場所で起立。

夏 緒:礼。・・夏子先生、おはようございます。

夏子、合掌して。

夏 子:おはよう。おはよう。よーしっ。気合いの入った夏の日だね。今日も暑くなりそうだ。

風が吹く。

夏 子:いい風だこと。これぞ天の息ね。・・・ふう、新入生を紹介するわ。君、立って。

ナナシ、立つ。

夏 子:今日からみんなと一緒にやる、ナナシだ。生まれたばかりだから名前はない。とりあえず、ナナシとしておこう。なかよくね。ナナシ、 みんなに、あいさつしなさい。
ナナシ:僕・・・
夏 子:どうした。
夏 緒:ナナシ、まだなれないんです。
夏 子:しかたない。君がめんどう見るんだよ。
夏 緒:はい。
夏 子:ナナシ、夏緒の横に座って。

ナナシ、夏緒の横に座る。

夏 子:では、今月の標語。夏緒!
夏 緒:人には人の時間、猫には猫の時間。
夏 子:全員で。
全 員:人には人の時間、猫には猫の時間!
夏 子:OK、OK!さあ、EVERYBODY、呼吸をしてみよう。今日はいい風が吹いている。大きくガイアの息を吸おう。はい、吸って。

ナナシ以外のもの、大きく深呼吸。ガイアの息を吸う。

夏 子:はいて。

静かにはく。鼓動音。

夏 子:聞こえるか?
朱 美:(メモを取りながら)聞こえます。
夏 子:何回。
朱 美:(数える)4回。
夏 子:OK、では、もう一度。動きながら。吸って。

移動しながら、静かに、吸う。

夏 子:はいて。

静かにはく。

ナナシ:いいですか?
夏 子:何?ああ、ナナシ。何だね。
ナナシ:何してるんですか?

ざわめく一同。

葵  :風の呼吸だよ。見りゃわかるだろ。
朱 美:へんなの。(メモを取る)
泡 谷:新入りだからねー。へへ。

パンパンと手を叩いて静かにさせる。

夏 子:無理もないわ。じゃ、こちらへきてごらん。

猫、夏子のそばへ。

夏 子:はい、りらっくす。りらっくす。最初は呼吸の仕方を教えよう。いい、胸に手を当てて、あ、片手でいいわ。そう。片方の手を挙げて。 指先までね。手を高く掲げる。そう。どきどきしてる?
ナナシ:ここですか?
夏 子:そう、君の心臓。してるよね。はい。心臓の音を聞いて。しってる、どんな生き物でも心臓は十五億回打つのよ。人間でも猫でも十五億 回。命の音だね。しっかり聞いて。風も聞こえるでしょう。では、音に合わせて。

鼓動音。風も聞こえる。葵、遠眼鏡で遠くを見ている。

夏 子:はい、吸って。・・はいて。違う。鼓動4回に一回吸うの。リズムなのよ呼吸は。ブルースよ。タンゴじゃないわ。ワルツでもない。四 拍子よ。鼓動4回に一回の呼吸。いいね。
ナナシ:4回に一回・・。
夏 子:そう。ブルースの呼吸は生き物の基本よ。じゃ、いいね。

猫、頷く。

夏 子:構えて。音を聞いて。・・はい息すって。・・吐いて。

猫、すーはー。

夏 子:そう、その調子。風にも気をつけて。

猫、安定しかかる。ぴしっと夏子先生の指が鳴る。

夏 子:名前!
ナナシ:えっ。
夏 子:もとの名前!
ナナシ:し・・しし・・

呼吸乱れる。

夏 子:駄目。・・・呼吸もとに。すって・・吐いて・・。ブルースよ。いい。四拍一呼吸。その四つ。逃がすんじゃないよ。はい。1・・・2 ・・・3・・・(ハイ!)
ナナシ:しし・
夏 子:・・・駄目だわ。葵!。
葵  :はい。
夏 子:あとでリズム教えてやって。
葵  :ナナシ、おいでよ。こっち。

葵につれられる。葵の脇に座る。

夏 子:さてと、朱美。今日の天気はどうかな。

今日の天気とメモをやめて朱美。葵も望遠鏡をのぞく。遠く遥かな風の赤道まで。

朱 美:心の手帖。○月×日天気晴朗、波高し。今日も快晴日本晴れです。
夏 子:赤道まで?
葵  :(のぞいて)ずっーっとはるか、雲一つありません。
夏 子:風は?

夏緒、指一本掲げて風を聴く。

夏 緒:風力3、南の風が吹いています。熱帯性低気圧が発生しました。(葵、ほんとうだと遠眼鏡)
夏 子:くるかな?
夏 緒:きます。
夏 子:本当に?
夏 緒:二百十日もすぐですから。
夏 子:そうだね。ガイアの紅い帯から名前がもうすぐ生まれるわ。大きいかな。
夏 緒:予報では最大級です。
夏 子:よかった。みんなも、もうすぐだからね。頑張るんだよ。

一同うなづく。

夏 子:この教室に集まっている君たちはまもなく念願かなう時が来る。けれど、勘違いしてはいけない。たとえ二百十日の風が吹いたとしても、 立派な呼吸ができなければ、君たちはいつまでたっても猫でしかない。これは、もうどうしようもないことなのだ。美しい名前、立派な 名前を自分のものにしたかったら、4拍一呼吸のリズムを忘れずに精進すること。いいね。
一 同:はーい。
夏 子:今日は、火送りの祭りがあるね。立派な名前を流してあげよう。夜になったら、川へおいで。あ、川で泳いだらいけないよ。今日は新し いヒトが生まれる日なのだから。・・・では、解散!
夏 緒:礼!

一同礼。夏子先生去る。泡谷もとろとろと去る。
雷が鳴る。生徒たち、空を仰ぐ。風が吹く。

葵  :(ナナシへ)いくぜ。
ナナシ:どこへいくの。
葵  :いいから、リズム教えてやるよ。朱美は?
朱 美:(手帳を取り出す)予定がね・・。どうしようかな。泡谷さんは?
葵  :行くに決まってるだろ。
泡谷 :えへへ。
朱 美:なんせ、ブルースの女王だもんね。
ナナシ:ブルース?
朱 美:四拍一呼吸の達人という訳よ。一番、人間になりやすいんじゃない。
ナナシ:人間になりやすいって?
葵  :何にも分かってないんだ。夏緒。
夏 緒:何?
葵  :教えてやれよ。
夏 緒:分かった、では、まず風を聞くんだ。
ナナシ:風?
夏 緒:葵。渡して。

葵、遠眼鏡を渡す。

葵  :ほら。貸してやる。
ナナシ:これで?
夏 緒:(遠く赤道をさす)見てごらん。

ナナシ、見る。

夏 緒:違うよ。逆さに見てごらん。
ナナシ:さかさ?
葵  :こうだよ。

ナナシ納得、逆さに見る。その瞬間世界が遥か遠くにあった。

葵  :見えるだろ。
ナナシ:ああ、なんだかずいぶん遠くにあるね。
夏 緒:そうだよ。そのずいぶん遠くから聞こえてこないか。ほら。

遥か遠くから微かに声が聞こえる。

声  :どっどどどどうど どどうど どどう、
   ああまいざくろも吹き飛ばせ 
  すっぱいざくろも吹き飛ばせ
   どっどどどどうど どどうど どどう

夏 緒:聞こえるだろう。
ナナシ:この音は何。
夏 緒:波の音さ。
ナナシ:海があるのかい。
夏 緒:生まれるんだ。
ナナシ:何が生まれるのさ。
夏 緒:卵だよ。
ナナシ:何の卵だい。
夏 緒:風の卵さ。
ナナシ:風の卵ってあるのかい。
夏 緒:あるさ。
ナナシ:どこに。
夏 緒:この海の遥か遠くの南。風の赤道。

はっとして遠眼鏡を落としてしまう。

夏 緒:この海の遥か南、ガイアの腰に紅く刻まれた一本の細い帯がある。その果てしない紅い道を風の赤道と呼び、ガイアの自転とともにいつ までもたどるがいい。けれど。やがて、暖かい海の中で、小さな左回りの螺旋の渦が生まれるだろう。そうして、お前は風の卵と呼ばれ、 やがてゆっくりと大きな風になるべく、ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと。・・四つの音ともにのぼり始めるのだ。

四つの音。遠眼鏡を拾うナナシ。

夏 緒:耳に当てるんだ。違う。逆さにだよ。

ナナシ、遠眼鏡を逆さに当てる。

夏 緒:ナナシ。聞こえるかい。
ナナシ:ずいぶんと遠くに聞こえる。これが風の音なのかい。
夏 緒:そうだよ。
ナナシ:規則正しいんだね。
夏 緒:正しい呼吸のためだよ。
ナナシ:正しい呼吸。
夏 緒:正しい呼吸を覚えなければ。人間に生まれ変わることはできない。

雷が鳴る。
     遠くで声が響く。

声  :やってくる。やってくる。やってくる。やってくる。
ナナシ:なにがやってくるというんだい。
夏 緒:大きく育った風の卵が割れるんだ。
ナナシ:割れてどうなるの。
夏 緒:二百十日の風になるのさ。
ナナシ:ずいぶんと吹くんだろうね。
夏 緒:そうさ、50メガトンの大きな螺旋だよ。その螺旋に自分の名前を乗せるのさ。
ナナシ:名前を乗せるって。
夏 緒:左回りの螺旋の渦と身体の呼吸を合わせるのさ。
ナナシ:あわせるとどうなるんだい。

子どもたち、リズムを合わせ始める。

夏 緒:風の螺旋と猫の呼吸が響きあい、リズムを作るんだ。ヒトへのリズムを。

大きなリズム。

ナナシ:僕にもできるの。
夏 緒:できるさ。手を当てて。ほら。このように。

夏緒、手を心臓にあてる。ナナシもまねる。

夏 緒:ナナシの呼吸。
ナナシ:僕の呼吸?
夏 緒:一つ、二つ、三つ、四つ。鼓動四つで一つの呼吸。

ナナシ、確かめる。

ナナシ:本当だ。1・2・3・4。
葵  :早い音、遅い音。いろいろあるけれど、呼吸はいつも四つに一つ、1・2・3・4。リズムは同じ。1・2・3・4。
朱 美:1・2・3・4
葵  :1・2・3・4
ナナシ:4拍子だね。
夏 緒:ヒトも猫も、こうして、ガイアの息を吸うのさ。
ナナシ:ガイアの息?。
夏 緒:生きている地球の風さ。天の息とも言うよ。
ナナシ:天の息。

夏緒たち。呼吸をする。天の息のリズムが聞こえる。

葵  :でも、ナナシには時間がないぜ。
ナナシ:なぜ。
葵  :二百十日の風が吹くと秋になるのさ。本当の猫の時間が始まる。人にはなれなくなる。
朱 美:(手帳を調べる)どう見ても今日明日ね。予定では。どうするの。
葵  :こうなりゃ螺旋の樹使うしかないさ。
夏 緒:それはダメだよ。
葵  :どうして。
夏 緒:夏子先生が下手に使うと危険だって言ったよ。
葵  :それじゃまにあわねえよ。
朱 美:ナナシ、人間なりたいんでしょう。
ナナシ:僕は・・・
葵  :やり残したこと、やってみたいこといっぱいあるだろ。
ナナシ:やり残したこと。
朱 美:ナナシはなにもないの?
ナナシ:そんなことはないよ。
葵  :じゃ、決まった。手っ取り早く呼吸を覚えるんだ。螺旋の樹、使おう。
朱 美:(パタンと手帳を閉じる)行きましょう。
葵  :OK。
ナナシ:これは?(遠眼鏡を)
葵  :持ってていいよ。
夏 子:いくよ。
泡 谷:どこですか。
夏 子:螺旋の樹にいったんだろう。まったく。
泡 谷:樹ですか。
夏 子:そうだ。

泡谷とろとろといく。すっころぶ。

朱 美:ほら、しっかりして。どこがブルースの女王よ。
泡 谷:すみません。へへ。
朱 美:泡谷。
泡 谷:はい。
朱 美:笑顔がいいよ。
泡 谷:へへ。へへ。

泡谷、泣き笑いのような笑顔。不気味だ。
二人去る。
風が吹く。雷がとどろく。仮面をかぶったものたちが現れる。「わいら一同不幸やねん踊り」をしている。
踊りが終わると仮面を脱ぐ。ナナシたち。

葵  :よっしゃ。もうええやろ。
ナナシ:これが螺旋の樹?
葵  :(うなづいて)ここでもうすぐ不幸やねん大会が開かれるわ。
ナナシ:不幸やねん大会って。
朱 美:誰が一番不幸かくらべあうの。(と手帳をパラパラとめくる)ま、今回はあたしの優勝ね。
葵  :俺だよ。
ナナシ:ねっ。
朱 美:何?
ナナシ:気になってんだけど、それ何?
朱 美:これ?心の手帖よ。
葵  :恨み、つらみをいっぱい書いておくんだよ。
ナナシ:えっ。
葵  :(声をつくる)○月×日今日先生があたしの方を見た。いやらしかった。いつか殺してやる。バキッ。
ナナシ:バキッ?
葵  :鉛筆をおるのさ。
朱 美:ふん。メモよ。メモ。ただの日記帳。勝手なこといわないで。
葵  :へっ。へっ。不幸やねんでおいらに勝とうなんて10年早いぜ。
朱 美:まあ、みてらっしゃい。
ナナシ:どうやってきめるの。
葵  :それでも人間なりたいていうか、だから人間もういちどやりたいっていうか。そんな決意表明するわけ。
ナナシ:なんかばかばかしいね。
朱 美:けど気合いが入るわ。
葵  :よっしゃー。絶対、人間なったるぞーってなもんよ。
ナナシ:ふーん。

雷がとどろく。

朱 美:もうすぐ来るわ。
葵  :あわてるなって。ナナシこっち。
ナナシ:どうするんだい。
葵  :樹に遠眼鏡を当てて。
夏 緒:本当に危ないんだよ。
葵  :うるさいな。心配ねえよ。
ナナシ:こうかい。
葵  :ナナシ、そーっとあてて。聞くんだ。ほら。

ナナシ樹に聴診器のように遠眼鏡をつける。はるか地中から天に向かって流れていくジェット水流の音が聞こえる。
葵の声が聞こえてくる。

葵  :水が流れる音がするだろう。
ナナシ:ほんとだ。
葵  :樹の声だよ。深い大地から空へ駈けあがっていく水の音だ。

一同、ひゅーっと風の音を口で作る。次から次へ。

葵  :もうすぐだ。もうすぐだ。もうすぐ8月の風強く吹き抜ける中、身を震わし続ける緑の葉から大空へと旅立つんだ。もうすぐだぞう。も うすぐだぞう。・・・ナナシ聞こえるか。
ナナシ:ああ。
葵  :水と風の音だ。
ナナシ:ああきいてる。
葵  :その中からリズムを探すんだ。
ナナシ:なんの。
葵  :ヒトのリズム。ナナシのリズムを。一つ。二つ。三つ。四つ。

風と水の音が強くなる。リズムが聞こえ始める。

ナナシ:一つ、二つ。
朱 美:大丈夫。
夏 緒:黙って。
葵  :吸って、はいて、吸って、はいて。
ナナシ:一つ、二つ、三つ。
夏 緒:いけない。ナナシ。リズムが違う。
葵  :あぶねえ。
ナナシ:一つ、二つ、三つ。
夏 緒:ナナシ!

リズムが大きくなる止まらない。

ナナシ:一つ、二つ、三つ。
葵  :こいつは。
夏 緒:三拍子だ。一拍足りない。ナナシ!
葵  :巻き込まれぞ!

ワルツだ。情景がパンと切れる。風のワルツ。
優しいワルツが流れる家庭の情景。母(夏子先生)妹(泡谷)慎介(ナナシ)がいる。

慎 介:(遠眼鏡で遠くを見ている)一つ。二つ。三つ。一つ、二つ、三つ。後たくさん。なんだってこんなにあるのだろう。一つ二つ三つ四つ。 物事はそんなに単純にはいきはしない。そんなことはわかってる。わかってるさ。けれどね一つ二つ三つ四つ。数え切れたら何だってや るのに。一つ、二つ、三つ後たくさん。沢山の友達、沢山の先生、沢山の教科書、沢山のノート。いつまでたっても終わらない。
母  :慎介。慎介。ご飯ですよ。
慎 介:はーい。

夕食のテーブル。母と妹。たわいもない会話。

母  :だめ、お葱食べなさい。
妹  :だって、嫌いだもの。
母  :食べ物の好き嫌いは人の好き嫌いよ。立派な人にはなれません。
妹  :だって。
慎 介:あ、その醤油取って。
母  :はい。これ。
妹  :おにいちゃん、たべてないよ。
母  :慎介。
慎 介:分かったよ。
母  :勉強、どう。すすんでる。
慎 介:まあまあ。
母  :油断しちゃダメよ。
慎 介:わかってるよ。
母  :今度の試験できそう? 
慎 介:まあまあ。
母  :本当に。
慎 介:ああ、まあまあだ。
妹  :まあ、まあ。
慎 介:うるさい。
妹  :うるさい。
母  :ちゃんとしなさいよ。お父さんに申し訳ないでしょう。
妹  :ちゃんとしなさいよ。申し訳ないでしょう。
母  :あなたは黙って食べなさい。
妹  :はーい。
慎 介:ねえ、母さん。
母  :なあに。
慎 介:僕は僕だよね。
母  :もちろんよ。何いってるの。

急速に、黄昏る。

慎 介:まあまあだった。いつも、まあまあだった。父さんが亡くなってから母さんは急に口うるさくなった。今日は勉強どうだった。進んだ。 お友達はどう。先生はどうおっしゃるの。体の調子は。まあまあだよ。うんまあまあさ。まあまあ。まあまあやってるよ。まあまあね。 まあまあ。違うよ。母さん。大好きさ。けれど大嫌いだ。父さんはパイロットだった。小さなセスナを飛ばしてた。(遠眼鏡でみる)空 から測量したり農薬散布したり。でもいつもこういった。見てろ慎介今にもっと大きな空を飛ぶからな。でもいつもまあまあの仕事しか こない。母さんはそんな父さんを見て鼻で笑う。僕は心が痛くなる。風の強いある日父さんは飛んだ。あぶないわと母さんは言った。た いしたお金にもならないじゃない。でも仕事だからね。少し疲れた声でそう言って父さんは飛んだ。風の中心へ。そうしてそのまま帰っ てこない。そのあと母さんはちょっと無口になり、引っ越しをした。僕はといえばまあまあだ。相変わらずまあまあまあまあまあまあま あまあまあ。いつもいつもまあまあだ。何にも変わりはしない。一つ、二つ、三つあとたくさん。四つ目はわからない。誰。僕呼ぶの。 母さん。

影がでてくる。

夏 子:リズムが違えば四つ目も分かるよ。
ナナシ:先生。
夏 子:あーあ。危なく巻き込まれてしまうところ。・・そこの死んだふり!
葵  :ちぇっ、ばれたか。あぶなかったなナナシ。
朱 美:葵のせいよ。(と書き込む)
葵  :ちぇっ、勝手に書いてろ。
ナナシ:どうしたんだろう。
夏 緒:違うリズムに巻き込まれたんだ。
ナナシ:違うリズム。
夏 子:呼吸法が甘いのよ。それじゃむり。まだ少し間はあるから。練習するのね。ちょうどいいわ。不幸やねんに向けて練習しましょ。
葵  :えーっ。
夏 子:先生の言いつけに背いた罰。おとなしく言うことを聞く。
朱 美:いいじゃない。ナナシのためにもなるし。
夏 子:そう言うこと。じゃ、はじめよ。位置つきなさい。

夏緒、こっちへ等とナナシをさそう。

夏 子:ホンじゃいってみようかあ。気合い入れるよ。用意はいいかあ。
一同 :よっしゃーっ。

テンションがあがってくる音楽がかかる。

夏 子:声が小さい!気合いはいってるかーっ。
一同 :ばりばりだぜーっ。
夏 子:ようし。みんな、人間になりたいかーっ。
一同 :おーっ。
夏 子:絶対なるかー。
一同 :絶対なってやるぞーっ。
夏 子:ほんとにほんとになりたいかー。
一同 :ほんとにほんとになってやるー。
夏 子:わいが一番不幸やねんー。
一同 :わいが一番不幸やねんー。
夏 子:わいが一番不幸やねん。(不幸やねん)なんちゅうても不幸やねん。(不幸やねん)絶対、絶対不幸やねん。(絶対、絶対)。絶対、絶 対。(絶対、絶対)不幸やねん!出ておいでーっ!

テンションあがるお立ち台。手拍子の嵐。

朱 美:おこのみやきが大好きだー。広島風が大好きだー。だから妹と弟の分も食べました。パパとママのも食べました。気持ち悪くなりました。 だから、げえげえあげました。あげたとたんに(あげたとたんに)いかのしっぽがのどに詰まって。あっというまにころりです。私がい ちばん惨めですー。絶対人間なってやる。(絶対人間なってやる)も一度お好み食べてやるーっ。

手拍子。歓声。

葵  :おいらが一番不幸やねん!聞いてくれー。おいらす巻きにされちゃったー。ちょっとぶいぶいいわせてたらよー。おめえ生やってんじゃ ねーって、体育館でマットです巻きさー。卑怯もんだからよー、6人がかりで踏んだり蹴ったりさ。だせーのなんのって太平洋のマグロ 巻きさ。なさけないったら、おいらが一番、一番不幸やねーん。

おーっ、と盛り上がるところへ。

千面鬼:おーい、おいおい。

と、声がかかる。音楽止まる。

千面鬼:おーい、おい、おい。おーい、おいおい。なけるで。なけるで。ごんごんなけるで。ごんごんなけてなさけなくって涙の波止場や。
夏 子:誰。

怪しい三人組登場。

千面鬼:千の顔を持つ男人呼んで怪盗、千面鬼。
シャンプー:同じく、シャンプー。
リンス:私はリンス。
三 人:三人そろって、銭湯戦隊バンダイン。
リンス:ごし、ごし、ごし、ごし。
シャンプー:ちょっと、ちょっと、あんさん。そこのあんさん。いけまへん。こ汚えパンツあろたら。こか、コインランドリーじゃあらしまへ ん。きっちり、銭湯いうところだす。お風呂だす。番台稼業17年、わいなめたらあきまへんでえなめたら。ばばっちいことやめておく れやーっ!
三 人:天に代わっておしおきよ!必殺猫じゃらし。

一同猫じゃらし。

三 人:うっはっはっはっはっ。見たか。われら銭湯戦隊バンダイン!かかっておいで!
葵  :・・でたな、妖怪変化。
千面鬼:悪かったな。妖怪変化で。おいこら、何が不幸やねんや。ぼけー。甘えんな。もっときっちり猫やらんかい。猫のどこいかんのじゃ、こ ら。人間人間いうてからに。そんなに人間がええんかい。感謝せんかい。ボケ。もっと猫になったことよろこばんかい。おどらんかい。 こん罰あたりどもが!
葵  :やかましい。くされ変態にゆわれとうないわ。
千面鬼:そこんがき。態度がでかい。

必殺猫の顔洗い。つられて葵、猫の顔洗い。
夏子先生、蹴り。軽くかわして気功をあてる千面鬼。

夏 子:また、盗みにきたね。
千面鬼:人聞き悪いこというねんな。猫は猫らしゅうしたらええちゅうとんのや。人間かたけに未練たらしゅうしてからに、やめとけやめとけ。
夏 子:おさらば教のいうことなんぞ聞く耳持たぬ。
ナナシ:おさらば教?
千面鬼:はいな。中国四千年のありがたい教えや。こら、ガキどもこぎたねえ耳かっぽじいてよく聴きさらせよ。ほな、シャン・リンいこか。

シャンプー、リンス。おさらば教の祝詞。

二 人:おさらば、おさらば名前におさらば。おさらばおさらば人間おさらば。おさらばおさらばすべてを捨てて。おさらばおさらば猫になる。 おさらばおさらば、色恋お金、おさらばおさらば名誉に欲望、おさらばおさらば自然に帰る。おさらばおさらばすべてを捨てておさらば おさらば猫になる。だーっ。も一つ、おまけにだーっ。
千面鬼:おーい、おいおい。ありがた涙のちょちょぎれさまじゃーっ。
葵  :じゃかましい。よけいなお世話や。やっちまえ。
千面鬼:生意気な。必殺猫じゃらしもう一度食らいたいけ。
葵  :何度も引っかかるかボケ。
千面鬼:必殺猫じゃらし!

引っかかってしまう泡谷。

葵  :馬鹿ーっ!
朱 美:泡谷さんてリズムの女王だから。
葵  :どこがリズムや!
シャンプー:ごちゃごちゃいわんと名前を渡せ。
リンス:あきらめて猫になれ。

夏子先生が立ちはだかる。

夏 子:名前は渡さない。
千面鬼:じゃまだてするか。
夏 子:この子たちの幸せ奪い取る権利はない。
千面鬼:も一度惨めな人間になるののどこが幸せや。
夏 子:やり直しが利くわ。
千面鬼:ほう、何度やっても同じことやで。
夏 子:やってみなくては分からない。
千面鬼:そいつは無責任というものやないけ。
夏 子:何でもおさらばよりはましというもの。
千面鬼:なるほどな、口だけやとどうとでもいえるわなあ。けど、おんどれ。猫は畜生や。畜生は畜生らしく観念して猫になり。名前をこちらよ こすんや。立派な猫にさせたるで。

と迫るところへ。

ナナシ:いやだ。
千面鬼:ほう。どうして。
ナナシ:帰ってもしかたないよ。
千面鬼:まあまあだからか。
ナナシ:そんなことは。
千面鬼:ないというわけだ。では、どうしてかね。
ナナシ:わからないよ。
夏 子:あきらめるのね。
千面鬼:リンス、シャンプー。かえるで。
二 人:えっ。
家庭教師:考えとくんだな。自分がなぜここにいるか。考え変わったらいつでもつれてくよ。

三人とんずら。
夏子、気を取り直し。

夏 子:夜になるわ。火おくりが始まる。葵、準備だ。
葵  :へいへい。
夏 子:いったん教室に帰るよ。夏緒はどうする。
夏 緒:ナナシと行きます。
夏 子:そう。

一同去る。夏子も去ろうとする。

ナナシ:先生。
夏 子:何?
ナナシ:ここはなんのためにあるんですか。
夏 子:システムだよ。ヒトになる。
ナナシ:システム。
夏 子:そう。
ナナシ:交差点ですね。
夏 子:何、突然。
ナナシ:システムですよ。
夏 子:システム?
ナナシ:交差点。色々な人が歩いている。縦横ナナメ。スクランブルの交差点。色々な人生が交差する。
夏 子:それで。
ナナシ:けれど、信号はいつも同じ。すとっぷ。ごー。すとっぷ。いけ、とまれ。とまれ、いけ。
夏 子:命令形。
ナナシ:正しすぎて誰も逆らえない。
夏 子:ルールだからね。
ナナシ:誰のルール。
夏 子:誰の?
ナナシ:先生は、何を命令するの。
夏 子:何も。
ナナシ:嘘だ。システムでしょう。命令しないシステムなんてナンセンスだ。
夏 子:言われれば。
ナナシ:で。
夏 子:あえて言えば、再生。
ナナシ:再生。
夏 子:リバース。
ナナシ:?
夏 子:ふたたびの人生だよ。
ナナシ:どうして。
夏 子:保険だね。
ナナシ:保険?
夏 子:希望がないと人間は生きることができないでしょ。
ナナシ:希望?もう一度生きることが?
夏 子:安心して人生しなさい。
ナナシ:まあまあの?それがルールなの。

夏子、にっこりと。

夏 子:君の好きなように。

夏子去る。夕暮れが迫る。

夏 緒:日が暮れる。
ナナシ:ああ。ここにも夜が来るんだ。
夏 緒:猫は夜が好きだからね。
ナナシ:なるほど。

夏緒空を見る。夜がきた。

夏 緒:一番星だ。
ナナシ:ほんとだ。あそこにもでてる。オリオンだ。(遠眼鏡を見て渡す)
夏 緒:(遠眼鏡でみる)オリオンだね。・・・こんなこと考えたことないか。・・オリオン、アンタレス、南十字。本当に美しい。けれどこれ は全部錯覚なんだ。何の関係もない星たちが、人間の勝手な約束事に縛られて、何千年も大空に縛り付けられている。星たちはこう言う だろう。私たちには名前はないんだ。関係もない。勝手なことをしないでくれ。・・・星座は寂しい人間が見つけた錯覚だ。
ナナシ:錯覚ね・・・でも。
夏 緒:でもとても大切な錯覚だ。だから猫にも錯覚があっていいはずだ。銀の十字、竜の牙、青の魚座。
ナナシ:青の魚座。
夏 緒:そう、青の魚座。(遠眼鏡を返す)
ナナシ:いい名前だね。
夏 緒:いつか、きっと見つける。そう思っていた。
ナナシ:見つけた。

夏緒首を振る。

ナナシ:残念だね。
夏 緒:そうじゃなくて。
ナナシ:え?
夏 緒:見つけるまで我慢できなかった。
ナナシ:どうして?
夏 緒:よくある話さ。いじめられてね。
ナナシ:よくある話だね。
夏 緒:そう、本当によくある話だ。いい子だったんだ。自分でいうのも何だけど。
ナナシ:いい子、よくないよ。
夏 緒:ああ、ほんとだ。よくない。
ナナシ:どうして、いい子だったんだい。
夏 緒:いじめられてる子をかばったのさ。やめろ恥ずかしくないのかって。
ナナシ:それって恥ずかしいね。
夏 緒:ああ、恥ずかしい。
ナナシ:いいかっこするなっ!てきただろう。
夏 緒:そう。矛先がね。
ナナシ:ささいな話だね。
夏 緒:そうさ、口実はどうでもいい。少しでも違えば。みんないじめたくてうずうずしてる。
ナナシ:ええかっこし、いいこぶりっこ。気持ちが悪い。
夏 緒:先生のお気に入りとか正義派ぶってるとかね。いじめられてた子まで仲間になるんだ。
ナナシ:やってらんないね。
夏 緒:家の近くに川があって、鉄橋があるよ。鉄橋の上からみる星はとてもきれいなんだ。ああ、もうこの道を本当にまっすぐ歩いて行けたら と思ってしまう。
ナナシ:汽車が通るだろう。
夏 緒:そう。
ナナシ:・・・歩いていったんだね。
夏 緒:僕はまっすぐ歩いていった。光がやってくる中を。本当にまっすぐに。

列車の光がやってくる。

夏 緒:光がやってくる。もうこれで、誰にも何にもいわれなくてすむ。ざまーみろ。これでもう本当におしまいだ!

激しい衝撃。

夏 緒:気がつけば、猫になっていた。
ナナシ:やり残したことがあるんだ。
夏 緒:けれど、だめなんだ。
ナナシ:どうしてさ。
夏 子:夏緒はずっと猫のままなんだ。
夏 緒:先生。
夏 子:じゃましたね。ナナシ。身体がないと人間に生まれ変わるのは難しいの。夏緒の身体は霧のように粉々になって一かけらも残らなかった。 何回かチャレンジしたけれど、夏緒は猫のままよ。
夏 緒:・・でも、結構気に入ってる。
ナナシ:青の魚座は?
夏 緒:もう見つけることもないよ。

沈黙。

ナナシ:そんなことない。
夏 緒:え。
ナナシ:青の魚座、きっとあるさ。猫だって猫の星座ぐらいあるよ。猫には猫の時間だろ。だったら、猫には猫の星座さ。きっとある、銀の十字 だろ、龍の牙だろ、そうして青の魚座さ。
夏 緒:・・ありがとう。
夏 子:その意気ね。さて。君たち、火送りの準備だ。

葵たちが準備をする。

夏 子:星がきれいだね。

夏子先生去る。

葵  :名前書いた?
朱 美:書いたわ。
ナナシ:何のために。
夏 緒:猫の名前を書いて川に流す。人間に生まれ変われるよう思いを込めてね。
朱 美:早く流しましょう。
葵  :まてまて、あぶないよここ。

川へよる。

夏 緒:ナナシはどうするの。
ナナシ:僕はいいよ。名前がないから。
葵  :ナナシってかけば。
ナナシ:いいよ。

川へ浮かべる。

葵  :流すよ。
夏 緒:いいよ。

灯が深くて暗い川を流れて行く。

朱 美:きれいね。
ナナシ:どこまでゆくんだろう。
夏 緒:赤道まで。210日の風と逆にね。遠い旅になる。
朱 美:届けばいいね。
葵  :届くよ。きっと。
ナナシ:とどかないとどうなる。

誰も答えない。


夏 緒:・・届くよ。きっと。
泡 谷:・・もうあんなに遠くにいったもの。

ナナシ、遠眼鏡でみる。

ナナシ:すぐそこにあるのに。
葵  :近くに見えても随分とおくにいってるさ。貸してみな。

葵、ナナシから受け取り遠眼鏡を逆さまに見る。

葵  :遠くまで流れてるよ。
ナナシ:どちらが本当なのさ。
葵  :どちら?バカかお前。きまってら。
ナナシ:どっちさ。
葵  :見たい方に決まってるだろ。
ナナシ:だから、どっちさ。
葵  :少しでも遠いに決まってら。みんなそうさ。
ナナシ:でも、まだそこにあるよ。
葵  :お前、かわいくない。
ナナシ:けれど・・・まだそこを流れてる。
泡 谷:遠くだよ。ほら。
朱 美:危ないわ。
泡 谷:大丈夫。

と、水に入ろうとする。

夏 子:みんな、流した?

夏子先生がやってくる。

夏 緒:先生。
夏 子:泡谷!
泡 谷:えっ。あっ。

と、泡谷、びっくりして河へこける。

葵  :ばかっ!
夏 子:ほら、ぼやぼやしないで。つかまりなさい。早く。

急いで、引き上げる、夏子先生。

夏 子:泡谷。
泡 谷:すみません。けど。
夏 子:いいわけはいい。今日は河を汚してはダメ。新しいヒトの生まれる日。たたられちゃうよ。
泡 谷:ごめんなさい。
夏 子:ぼんやりしてるから。気をつけなさい。
泡 谷:はい。
朱 美:泡谷、火送りの日に河へはまる。っと。(手帖にしっかりつける)
葵  :お前、趣味悪いぞ。
朱 美:いいじゃない。DATAは正確にとらなくちゃ。
葵 :なんのDATAだ?
朱 美:回顧録書くのよ。人間なったら。
夏 緒:人間なったら、猫になってたこと忘れるんだよ。
朱 美:うそー。

と、何やかややっている。

泡 谷:ぼんやりか。
ナナシ:ぼんやり?
泡 谷:少し、とろいって、へへ。つらいんだよ。本当はずいぶん急いでるんだけれど、どうしてもね。人とすこし遅れるんだ。トロエモンだと か、じゃまくそとかいわれてさ。いろいろやらされるんだ。逆さにされたり、おしっこ飲まされたり、腹に何人ものられたり、プロレス 技かけられたり、やめてよ、いたいよ、くるしいよ、というけれど許してくれない。そのうち、なんだがぼーっとしてきて、それでもや めてくれなくて、おかげで死んじゃった。へへ。

少しの間

ナナシ:人間になりたい?
泡 谷:へへ。
ナナシ:どうして、
泡 谷:だって、歌好きだから。
ナナシ:え。
泡 谷:へただけどね。へへ。
ナナシ:えらいな。
泡 谷:えらくないよ。ほめられたんだ。一回だけ。先生に。えらいぞ。泡谷は。受験受験とみんななめきっとるだろうが。音楽だって、大事な 教科だ。泡谷みたいに一生懸命やれ。って。へへ。
ナナシ:いい、先生だね。
泡 谷:うん。もう一回歌いたいな。へへ。
ナナシ:きっとほめてくれるよ。
泡 谷:そうかな。へへ。へへ。
ナナシ:きっとだよ。
泡 谷:へへ、へへ。
ナナシ:ねえ。その笑いやめなよ。
泡 谷:なんで。
ナナシ:ちょっとね。
泡 谷:気持ち悪いってみんないうよ。
ナナシ:うん。あんまりね。
泡 谷:笑っちゃいけない?
ナナシ:そんなことないよ。
泡 谷:へへ。ほんと?
ナナシ:ああ。
泡 谷:笑い足りないんだ。笑っても笑っても、笑っても、笑っても笑い足りないよ。へへ。あとからあとから出てくるよ。止まらないんだ。へ へ。へへ。へへ。
夏 子:いつまで笑っていてもしょうがないわ。泡谷、笑うのをやめなさい。
ナナシ:先生。
夏 子:ナナシ、一つ、聞いていいかな。
ナナシ:なんです。
夏 子:君の死んだわけ。
ナナシ:死んだわけ・・ですか。
夏 子:いじめられた。
ナナシ:ノン。
夏 子:難病だ。
ナナシ:ブーッ。
夏 子:交通事故。
ナナシ:違う。
夏 子:ショック死。
ナナシ:残念。
夏 子:殺された。
ナナシ:はずれ。
夏 子:ではこれだ。
ナナシ:なに。
夏 子:なんとなく。まあまあ。
ナナシ:・・・
夏 子:どうした。
ナナシ:・・・
夏 子:図星だね。
ナナシ:わからない。
夏 子:死んだ理由もわからない。いい身分だね。
ナナシ:ごめんなさい。
夏 子:あやまることないわ。
ナナシ:でも。
夏 子:なに?
ナナシ:理由がなくちゃいけない?
夏 子:理由か・・・
ナナシ:なぜ理由がなくちゃいけない。人間死ぬの理由がいるの?理由がないと死ねないの?
夏 子:書類が整わないわ。
ナナシ:書類?
夏 子:警察だとか、評論家だとか保険会社だとか。あっ、それから新聞社も困るわね。
ナナシ:先生。
夏 子:けれどナナシ、これだけはいえる。
ナナシ:なんですか。
夏 子:君は十分に生きたの?
ナナシ:え?
夏 子:もったいないわ。十分生きなくては。
ナナシ:もったいない。
夏 子:そう、人は死ぬために生まれる。これは動かせない運命だ。
ナナシ:死ぬために生まれる。
夏 子:ならば十分生きることが義務ではなくて。
ナナシ:義務。
夏 子:そうよ。君の義務。命令形。ねばならない。I WAS BORN。生まれることは受け身でしょ。すれば生きることは能動形。それも MUST BE。君は生きるべきである。中学2年の英語だわ。
ナナシ:僕は生きるべきである。
夏 子:ブーッ。訂正します。生きるべきであった。過去形だわ。
ナナシ:本当にそう思いますか。
夏 子:システムはそういっている。生きるべきだった。人は十分に生きるべきだ。ガイアの呼吸と共に自分のすべての人生を、あるべき人生を 生きるべきだと。ナナシ、君は十分に生きたの?
ナナシ:風が吹くんです。
夏 子:なんの?二百十日の風?
ナナシ:わからない。けれど命令形はやめてください。
夏 子:あら、何も命令はしていないけれど。
ナナシ:そうでしょうあなたは何も命令していない。けれどやっぱり命令してる。
夏 子:わからない。
ナナシ:ごめんなさい。けれど僕には耐えられない。
夏 子:どうして。
ナナシ:・・・
夏 子:そう。では好きにするといい。

千面鬼の高笑いが聞こえる。

千面鬼:そうだ、すきにすればいい。けれど、ひとたび人間におさらばしたら二度と人間になれるものか。猫の名前を流すって。笑ってしまうよ。 風の赤道まで本当に流れて行くと思うのかね。
夏 子:流れるわ。
千面鬼:楽観主義者だねえ。
夏 子:悲観主義より幸せよ。
千面鬼:なるほど。結構。結構。ではついでにナナシのためにリズムをあげよう。楽に呼吸ができるぜ。
ナナシ:本当に。
千面鬼:ああ、中国四〇〇〇年の心ばかりのプレゼントだ。受け取りな。
夏 子:ナナシ、やめなさい。
リンス:はーっ。
シャンプー:はーっ。

二人、型をする。

二 人:風のリズムに名前を乗せる。人間(ひと)になりたいとお前は言った。
ナナシ:僕は言わない。
千面鬼:少なくともお前の半分は望んでいる。
シャンプー:望んでいる左回りの半分と。
リンス:望んでいない右回りの半分が。
二 人:お前の体で、渦をまく。
ナナシ:僕の体。
千面鬼:素直に体の中の風を聞け。お前の呼吸が聞こえるだろう。

ナナシ、呼吸を始める。

リンス:左回りの西の風。
シャンプー:右回りの東の風。
リンス:半分の西の風、風力3。
シャンプー:半分の東の風、風力3。
千面鬼:半分の風と、半分の風が螺旋を描いて吹き始めた。

二人ナナシを回る。

シャンプー:半分と。
リンス:半分とが。

夏子、止めようとかかるが。

千面鬼:お前の身体で一つになった。
夏 子:このリズムは。

風のタンゴ(黒猫のタンゴ)!呼吸するナナシをめぐって踊る、猫たちと夏子先生シャンプーリンス!高笑いする怪盗千面鬼。
シャンプー、リンス、口でひゅーっと風の音。千面鬼も。台詞のない時は三人で。

リンス:ナナシ、聞こえるだろう。
ナナシ:聞こえる。
夏 子:ナナシ、聞くんじゃない。
ナナシ:この風は。
シャンプー:中国4000年の幻の風。
リンス:聞く耳持たぬものにはきこえない。その名も。
千面鬼:馬耳東風。

千面鬼たち消える。風の音。強くなって、やがて、小さく続いている。
シンスケの部屋。勉強している。家庭教師が、遊びながら見ている。 

慎 介:偏西風、貿易風、季節風、シロッコ、ハリケーン、トルネード・・・
母  :夏の終わりの風物詩だね。
慎 介:遊んでないで、手伝ってよ。
母  :だめだめ。夏休みの宿題は子どものためにあるのだよ。
慎 介:大人は手伝うためにいるんじゃない。
母  :明日はそうやって日本中の先生がうんざりするんだ。何百、何千という大人の宿題を前にしてね。だめだめ。先生を失望させちゃ。努 力したという事が肝心だよ。
慎 介:努力じゃ廊下に立たされちゃうよ。
母  :それもまた運命。
慎 介:ちぇっ。海から立ち上る湿った暖かい空気が螺旋状に天に向かい雲をつくる。雨が降り、エネルギーが爆発して空気を暖め、上昇気流は さらに強まる。50メガトンの熱機関の誕生である。彼女は左回りの螺旋の回転を続けながら、ゆっくりと長い放物曲線を描き赤道をは ずれ北へ向かう。・・ねえ、なんで台風は左回りなの。
母  :右回りもあるよ。
慎 介:ほんとう。
母  :南半球はね。右回り。北半球は左回り。
慎 介:どうして。
母  :コリオリの力が働いているからだよ。
慎 介:コリオリの力?
母  :そう、コリオリの力。2ページ後を読んでご覧なさい。
慎 介:コリオリの力。あ、本当だ。コリオリの効果。回転物体に接触する動く物体は。・・回転物体に接触する動く物体は。

父、現れる。

父  :回転物体に接触する物体は、慣性によって道筋がずれる。赤道から北上する二百十日の風は駆け上がろうとするが、わずかに、わずかに ずれ続け、その中心は私の手には届かない。

父、消える。

母  :地球と風よ。
慎 介:えっ、なに。ああそうだね。ねえ、母さん。
母  :何?
慎 介:風の中心はどこ?
母  :風に背を向けて立ってごらんなさい。
慎 介:こう。

風に背をむけて立つ慎介

母  :そう。君の左手前方に風の中心がある。バイス=バロットの法則よ。
慎 介:こう。
母  :そうよ。風の中心がどうかしたの。
慎 介:こちらに。父さんはこの方向にとんだんだ。
母  :慎介。

遠眼鏡で逆さにみる

慎 介:中心てずいぶん遠いんだね。
母  :どうしたの。
慎 介:僕にもコリオリの力がほしいなあ。
母  :だれにだって働いてるんだよ。地球に生きてる限りは。
慎 介:違うんだ。
母  :何が。
慎 介:僕だけのコリオリの力。
母  :ほう。どうして。
慎 介:だって、僕の胸にはね、大きな穴があいてるからさ。
母  :そんな風には見えないわ。
慎 介:風がすーすー通ってるよ。
母  :詩人ね。
慎 介:信じてないね。でも本当だよ。何してても、僕の胸を通って風が吹いているのが聞こえる。どこから吹いているかわからないけど止まら ないんだ。あとからあとから吹き抜けていく。まるで僕が僕じゃないみたい。
母  :慎介。
慎 介:コリオリの力でねじ曲げてみたい。
母  :ねじ曲げるよりふたね。いい加減にしなさい。
慎 介:ふたができればね。風の中心に。そうしたら、本当の僕になれるかな。
母  :どうしたの。
慎 介:木に登るのさ。
母  :やめるんだ。
慎 介:どうして。
母  :あぶないよ。
慎 介:あぶない?あぶない?(笑う)
母  :なぜ笑うんだ。
慎 介:おかしくないからさ。母さん樹に登ったことないでしょう。
母  :当たり前でしょう。
慎 介:やっぱりね。ほら。安全だよ。とってもね。

慎介、ぱぱっと木に登る。風が吹く。遠眼鏡で世界をのぞいた。

慎 介:みんなずいぶんと近くにある。けれど。

逆さにのぞく。

慎 介:とても手が届かないほど遠いよ。
母  :慎介?降りなさい。
慎 介:夕焼けがきれいだね。
母  :やめなさい。宿題をするのよ。
慎 介:母さんがやってよ。
母  :あなたの宿題よ。
慎 介:いいよ。宿題は親のためにあるんだ。
母  :慎介。
慎 介:ねえ、母さん。風、本当に吹くのかな。
母  :何言ってるの。
慎 介:明日は二百十日だよ。
母  :だから。どうしたの。
慎 介:だから、とんでみようか。
母  :慎介!
慎 介:飛ぶよ。
母  :慎介!
 
慎介、飛んだ。風の音が大きくなる。
夏子先生がいる。泡谷たちもいる。
夜明けが近くなっている。

夏 子:油断して、すっかりやられちゃったね。
ナナシ:えっ。
夏 子:まあいいわ、思い出した?
ナナシ:・・・
夏 子:ぼつぼつだからね。
ナナシ:・・・先生。
夏 子:何?
ナナシ:どうして生まれなければならないの?
夏 子:価値ある人生をもういちどよ。つまらない人生のまま人間終わるのっていやじゃない?
ナナシ:大人は言うんですよね。いつも。よりよい人生。希望ある生き方を選びなさい。そう言いながらずいぶんくたびれてる。濁った目、呂律 回らない舌でうだうだいいながら、よろよろ歩いて、電信柱抱いてげろはいて、翌日またぼさぼさの髪かきながらパン一枚かじり会社へ 駆け出していく。随分とすばらしい人生だよね。
夏 子:こりゃ手厳しいご意見ね。
ナナシ:そうやって、いつも言うんだ。真綿で首しめるようにね。これたまんないよ。
夏 子:愛のムチよ。パシパシ。
ナナシ:僕変態じゃないよ。ねえ、よい人生って何。まあまあじゃないよね。
夏 子:だから、ナナシ、知りたければ階段を登るのよ。
ナナシ:階段?
夏 子:もうすぐね。ほら。

風がでてきた。

夏 子:葵。風はどう。
葵  :ナナシ、返して。(遠眼鏡を受け取る。遠くをのぞく)南の風、風力4。間もなくきます。
夏 子:(ため息をつく)始まるね。・・夏緒。時間がない。ナナシを連れて階段へ行きなさい。
夏 緒:わかりました。
ナナシ:何が始まるの。
朱 美:卒業試験だよ。
夏 緒:行こう、ナナシ。
ナナシ:どこへ。
葵  :風の階段さ。
夏 子:行くわよ。
葵  :行くぜ。
夏 緒:ナナシ、早く!
泡 谷:先生。
夏 子:ぼんやりしないで!

泡谷笑う。笑顔が悲しい。

夏 緒:ナナシ、先行ってるよ。

夏緒、駈け去る。泡谷も去る。
ナナシ行こうとする。が、千面鬼がいた。

ナナシ:千面鬼。
シャンプー:早く行かないと風が吹いてくるわ。
ナナシ:いくさ。
リンス:まだ決心がついてない癖に。
ナナシ:えっ。
千面鬼:だれだってそうさ。死んでみたらもう一回人間やれるんだって。バカにしてるよな。何のために死んだんだか。
ナナシ:何もなくなるはずだった。
千面鬼:何が。
ナナシ:父さんが死んだとき、ほかには何にも覚えてはいないんだけれど、一つだけ覚えていることがあって。
千面鬼:それで。
ナナシ:父さんを焼く焼き場の煙と風の音だ。海辺にあってさ。風がびゅーびゅー吹いていて、気がつくといつのまにか僕の耳の中でなっている。 ああこんな風(かぜ)に父さんは乗ったんだ。そう思いながらみんなと一緒に骨を拾っているときもなりやまない。知ってる?人の骨っ て軽いんだよ。白くって、形が崩れていて、あったかかった父さんとはなんだか違うものがそこにある。これは父さんじゃない、絶対こ れは父さんじゃないよ。突然、僕は骨壷を抱きながら吸い込まれるようにそう思った。耳の中では潮風がごうごうとなる。ぼくの心臓は どきどきして、体はじんじんする。ああ、この僕もここから本当にいなくなるんだ。父さんのように・・・。
千面鬼:無くなりゃしないよ。
ナナシ:嘘だ。
千面鬼:決して何だって無くなりはしない。広がり続けるだけだ。
ナナシ:広がる?
シャンプー:DNAの細い螺旋の糸となって。
ナナシ:DNA?
リンス:遠い昔から命のつながりを通してDNAは広がり続ける。
ナナシ:ネアンデルタール人からも。
千面鬼:そうだ。お前の一部は彼でもある。
ナナシ:違う。違う、それは僕じゃない。そんなの詭弁だ。そんなの僕じゃない。
千面鬼:まあまあの人生にそんなに意味がほしいのかい。
ナナシ:そのどこがいけないの。
シャンプー:悪あがきは人間の悪い癖よ。
ナナシ:悪かったね。
リンス:なんだって、意味はあるわ。
ナナシ:聞いた風なこというな。どうせ僕にはなにもない。まあまあさ。そうして、何にも残らない。

夏緒がいる。

夏 緒:残らない?

振り返って。

ナナシ:そうさ、何も残らない。何の意味もなくなってしまう。きれいさっぱり。
千面鬼:君のことを覚えてくれている人がいるだろう。
ナナシ:僕の思い出が残っている間はね。けれど、僕の笑った顔や、怒った声や、泣いていた姿がやがてだんだんと薄れ、そうしてただのナナシ という名前になり、やがて何百年か何千年かたつともうどこにも、何も残らない。君は、ネアンデルタール人の花束を贈った人のことが 気になるかい。彼は、覚えておいてほしかったんじゃないだろうか。フォアゲットミーノット。勿忘草だよ。
夏 緒:君って欲張りだね。
ナナシ:欲張りだって?どうして。

夏緒、答えない。

千面鬼:ナナシは自分の世界が嫌いなのか。
ナナシ:どうして、そう思う?
千面鬼:そう聞こえるのさ。
ナナシ:嫌いかって?(笑う)。・・・も、・・も・・も大嫌いな先生も、恐い・・も、・・もいる。これが僕の世界だよ。だから、・・・だか らみんな大好きだ。まあまあの僕だけど全部僕の世界だよ。僕はそんな大切なものを残していなくなるんだ。嫌いなわけないでしょう。 僕はみんなが大好きだよ!・・だから、・・だから人間にもう一度なりたいと思うよ。いけないか。
千面鬼:このシステムは間違っている。
ナナシ:どうして。これは僕の希望だよ。
シャンプー:生まれ変われるなら、いまの人生をよりよく生きることなんてばかばかしいわ。
ナナシ:生まれ変われるからこそよりよい人生じゃないか。
リンス:それでは、何度やっても同じよ。まあまあの人生ね。
ナナシ:同じじゃない。僕は、やり直してみせる。
千面鬼:一回限りだから意味が有るんだ。
ナナシ:そんなのきやすめさ。
千面鬼:猫には猫の人生、人には人の人生だ。
ナナシ:今僕ははっきり言える。僕は、人の人生を選ぶよ。
夏 子:その通りだよナナシ。

夏子先生、葵たちと登場。

葵  :ナナシ遅いぜ。
千面鬼:これはおそろいで。
夏 子:じゃまはさせない。風が来るからね。
千面鬼:どうかな。

夏子先生、葵に合図。
葵、遠眼鏡で風を見る。

葵  :風が見えました。風力5。左回りの南の風。夜明けにはやってきます、二百十日の風が!
夏 子:みんな人になるのよ。いいね。
生 徒:はいっ
夏 子:夏緒。
夏 緒:ナナシ、行くよ。
ナナシ:ああ。
千面鬼:シャンプー・リンス!
二 人:はいや!
夏 子:邪魔はさせない。子供たち、さあ、走るのよ。風に向かって。

シャンプー、リンスは止めようとするがこどもたちは走る。

夏 子:二百十日はすぐそこよ。

夏子先生はみている。千面鬼も見ている。
猫たちは走る。二百十日に向かい。
追いかけっこ。ナナシ夏緒と葵たちは別々に逃げる。

夏 子:走りなさい。夜が明けるわ。

シャンプー、リンス夏子先生に追いつくも蹴り一旋。体を交わす暇に。すり抜ける葵たち。再び追うシャンプーリンス。逃げる 葵たち。

夏 子:もうすぐ風の階段よ。

止めようとするシャンプー、リンス。螺旋の階段を追いかけっこ。葵、朱美は先に行く。泡谷、とろとろしている。ナナシ、夏 緒はおっかけっこで別方向から来る。

夏 子:さあ、風の階段よ。これを上りなさい!

風の階段。上には大きな樹がある。
葵たち、すばやく階段につく。
泡谷、夏子先生の方へいこうとする。

夏 子:泡谷、急いで。
泡 谷:あ、はい。
シャンプー:まて。
泡 谷:いまいくよ。
葵  :こっちだよ。
リンス:そうはさせないよ!

リンスに先回りされる。

葵  :あ、ばか。
朱 美:早く。

葵、助けに行くが、リンスに邪魔される。
葵、隙を見て。

葵  :ほら、飛べよ。早く。
泡 谷:あ、うん。
葵  :ぼやぼやするな!
泡 谷:でも。
葵  :早く!
リンス:まて!

リンスが迫る。

葵  :泡谷!飛べ!

泡谷、飛ぼうとして落ちる。

葵  :泡谷!

リンスたち駆け寄ろうとするが、千面鬼止める。
ナナシ、駆け寄る。

ナナシ:泡谷!
泡 谷:おちちゃった。
ナナシ:しゃべるんじゃない。
泡 谷:へへ。
ナナシ:笑うな!泡谷笑うな!
泡 谷:どうして。
ナナシ:泣いたっていいんだ。怒ったっていいんだ。笑うな。
泡 谷:へへ。へへ。
ナナシ:笑っちゃいけない。笑っちゃいけないよ。
泡 谷:きこえないよ。
ナナシ:泡谷!
泡 谷:うまく笑えるよ。
ナナシ:わらうなーっ!
泡 谷:へへ。
ナナシ:先生!
夏 子:何。
ナナシ:猫は死ぬとどうなるの。
夏 子:どうにもならない。
ナナシ:人間にならないの。
夏 子:終わりだ。リターンマッチはない。
ナナシ:そんな・・。
夏 子:手を握っておやり。

ナナシ、手をしっかり握る。

ナナシ:泡谷・・。わらうな。笑うんじゃない。笑って死ぬんじゃない・・・。
泡 谷:ナナシ。ナナシ。
ナナシ:なんだい。
泡 谷:猫っていいね。へへ。

泡谷、笑いながら死ぬ。

ナナシ:泡谷。・・・泡谷。笑うなよ。笑うなよーっ。

泡谷、美しい笑顔。

夏 緒:もういいよナナシ。
ナナシ:なぜ。なぜ猫がいいの。なぜ笑うの。なぜ死ぬの。なぜ、なぜ、答えてよ。なぜ。なぜ。なぜ。

夏緒、ゆっくり泡谷により、ナナシから泡谷を受け取り、葵、朱美と抱える。
  抱えて、去る。ナナシもついていこうとするところへ。

夏 子:ナナシ、君はなぜ死んだ。

ナナシ、振り返り、夏子先生を呆然と見る。

夏 子:君は、なぜ死んだ。
ナナシ:ぼくは・・

ナナシ、バッと夏緒たちを追う。

千面鬼:むごいことを聞くものだ。
夏 子:でもさけられない。さけることなどできはしない。
千面鬼:生まれ変わるためにか。
夏 子:そうよ。
千面鬼:そうまでして生まれ変わらねばならないか。
夏 子:よく生きなければよく死ぬ資格などないわ。
千面鬼:辛い生き方でもか。
夏 子:辛い生き方などありはしない。弱い生き方ならあるけれど。
千面鬼:強いね、君は。
夏 子:強くはないわ。私は義務を果たさせるだけ。
千面鬼:義務?
夏 子:人は死ぬために生まれるわ。ならばよりよく生きることは義務なの。
千面鬼:義務で人間になって意味があるのか。
夏 子:意味?生きることに意味はいらない。ただ生きるだけよ。花はそんな愚痴こぼさないわ。
千面鬼:寂しいね。
夏 子:そのために私はある。さあ、退きなさい。始まるわ。

声が聞こえる。風が吹き始めた。

声  :どっどどどどうど どどうど どどう、
   ああまいざくろも吹き飛ばせ 
  すっぱいざくろも吹き飛ばせ
   どっどどどどうど どどうど どどう

ナナシ:風だ。
夏 緒:二百十日の風が始まった。

ドクン。ドクン。

ナナシ:だから。
夏 緒:行かなければ。
ナナシ:泡谷死んだよ。
夏 緒:そうだね。でも君は人間になるんだろう。
ナナシ:泡谷死んだよ。さっきまであんなに笑っていたのにぼろ切れのように死んだ。そうしてもうそのままだ。けれど僕の手は温かい。ほら、 こんなに。(笑う)
夏 緒:ナナシ、人間になるんだろう。
ナナシ:これは泡谷の体の温もりだ。
夏 緒:ナナシ!
ナナシ:どうして笑ったのかな。・・・。
朱 美:(葵へ)いこう。
葵  :自分は残るよ。
朱 美:どうして。
葵  :バカはしななきゃ直らないっていうだろ。自分バカだから。でも死んでもやっぱりバカは直らない。泡谷死なせちゃった。ざまないや。
夏 緒:葵。
葵  :残るよ。これじゃとても呼吸はできない。
朱 美:葵。
葵  :自分は猫になる。お前人間になれ。
朱 美:でも。
葵  :これってがらじゃねえよな。ナナシ。お前も人間になれよ。
ナナシ:どうして。残るの。
葵  :いっただろ。
ナナシ:説得力のかけらもないよ。泡谷死なせたから?君の責任じゃない。どうして残るの。
葵  :へ。よくわかんねえな。俺にも。でも、猫もわるくねえよ。
ナナシ:猫が・・わるくない。

夏子先生がいる。

夏 子:第一の風がきた。東の風。

風吹き始める。

葵  :ほら、いけよ。  
朱 美:わかった。(辺りを見回し心の手帳を取り出す)もう書くこともないわ。あげる。(葵に渡す)
葵  :回顧録書かないのか。
朱 美:どうせ忘れるんでしょう。・・けど、私忘れない。ここに書いたこと全部覚えておくから。
葵  :だと、いいな。(受け取って)心の手帖か。○月×日、俺は猫になった。ふん。大事に使うよ。
ナナシ:君は行くの。
朱 美:そう。私は行くわ。人間になるの。どこかの交差点で又会えるわ。

朱美、風の階段を上り始める。

葵  :いけよナナシ。ほら、やるよ。(遠眼鏡を渡す)
ナナシ:ぼくは。

階段の上に夏子先生がいる。

夏 子:上っていらっしゃい。
ナナシ:誰?
夏 子:母さんが病院に駆けつけたとき、お前はもう意識はなかった。けれど、お前の頬からは涙が流れ続けた。長い長い夜の間、私は音もなく 流れ続けるお前の涙を拭き続けた。そうして、ようやく明けた朝の光の中、お前は大きく最後の息をして静かになった。お前の堅く閉じ られた瞳から涙が一筋流れてそしてようやく止まった。お前は何をそんなにも我慢していたの?
ナナシ:かあさん。
葵  :ナナシ、いけよ。

ナナシ、ゆっくりと階段を上りはじめる。足止まる。

夏 緒:第二の風が吹くよ。西の風。

風変わる。朱美上がり終わる。

朱 美:ナナシ、待ってるわ。

飛ぶ。

夏 子:さあ、その子のようにそのまま上るのよ。
千面鬼:お遊びはそれまでだ。
夏 子:止められるの?
千面鬼:止めてみせるさ。

にらみ合う二人。

葵  :第三の風だ。北の風。
夏 子:あと一つ。さあ、おいで。
千面鬼:やり直したところで何が変わるものか。どうした、ナナシ。
夏 子:だまされるんじゃないわ。しょせん、猫は猫だけの人生。もう一度やり直す人生があってもいいでしょう。あなたが失敗したところから、 少し賢くなったあなたがやり直す。これはあなたの義務でもあるわ。よりよい人生、価値ある人生があなたのものになる。一つ、二つ、 三つの次は四つのリズム。風が来るわ。さあ、後一息で人間になる。四つの息をリズムにのせて一つにまとめなさい。

ナナシ、ゆっくりと上る。

夏 子:そうよ。ゆっくり上りなさい。
千面鬼:ナナシ!
葵  :風が来たよ。

ひときわ激しく吹く風。ナナシの服が揺れる。鼓動音も。

夏 子:さあ、これが。
夏 緒:風の赤道からやってきた。二百十日の南の風。四つの天の息が揃ったよ。

四つの風がそろった。

夏 子:ヒトへの呼吸を始めよう。
千面鬼:待て、ナナシ。この音を忘れるな。
ナナシ:この音は。
千面鬼:十五億の命の音。
シャンプー:ナナシ右の半分の音。
リンス:ナナシ左の半分の音。
シャンプー:人間の音。
リンス:猫の音。
夏 子:一つ。
ナナシ:僕は。
シャンプー:猫であっても人であっても。
リンス:命の鼓動は同じこと。
千面鬼:一つ、二つ、三つ(鼓動音を数えている)、一つ、二つ三つ。あとたくさん。命の音だよ。生き物みんなの音だ。この中でみんな愛をか たり、夢を見て、人を裏切り、傷ついて涙する。猫だって同じさ。いいじゃないか。まあまあだって。一つ、二つ、三つあとたくさん。 忘れるな。一つ、二つ、三つ、あとたくさんだ。
夏 子:無駄なことを。
シャンプー:ほざけ!

夏子、シャンプーを一閃。倒れるシャンプー、かばうリンス。
夏子の視線と気合いが走る。飛ぶ千面鬼。

ナナシ:・・まあまあだ。いつだってぼくはまあまあだった。・・・・でも、ぼくは選んだ。選んだ道は歩かねばならない。
夏 子:さあ。
ナナシ:僕は。
 
鼓動、ゆっくり。

夏 子:二つ。
ナナシ:僕は・・・
夏 子:大きく息を吸うのよ。そうして、あなたの名前をいいなさい。
ナナシ:・・・
夏 子:三つ。

ナナシ、樹の下にたつ。

夏 子:四つ。さあ、一息でいいなさい。
ナナシ:僕は・・・・
夏 子:早く。
ナナシ:僕は・・・
夏 子:どうした。
ナナシ:ナナシの猫だ・・
夏 子:バカな!何のために!

ナナシゆっくりと左手を左前方へあげる。ナナシ、遥か遠くを遠眼鏡でみる。

ナナシ:風を背にして僕は立っている。この向こうに風の中心がある。父さんが飛んだ風の中心がある。
夏 子:ナナシ。何を言ってる。
ナナシ:僕は泡谷を忘れない。この手の温かさを忘れない。僕は父さんを忘れない。僕は母さんを忘れない。僕はみんなを忘れない。先生だって、 千面鬼だってシャンプーだってリンスだって忘れない。
夏 子:忘れなさい。ナナシ。忘れてよりよい人生を選ぶのよ。
ナナシ:僕はまあまあだった。いまでもまあまあだ。立派な人生なんて僕は知らない。けれど僕はもうそれで十分だ。
夏 子:十分なんて言うことはない。努力しなさい。
ナナシ:いやだ。
夏 子:ナナシ、これはあなたの義務よ!
ナナシ:まるで正義だね。
夏 子:正義?これは人生のルールよ。
ナナシ:あなたのでしょ。僕のルールじゃない。あなたは母さんと同じだ!よりよい人生、努力、一生懸命、価値ある人生。立派だよ。だれも反 論できない。僕の義務だって。ならばぼくは権利として言うよ。立派な人生なんてくそ食らえ!
夏 子:後悔するよ。
ナナシ:僕が忘れられ、僕がいた痕跡すらなくなって、誰一人知らなくなっても、それでもこれは僕の人生だ。父さんから受け継いだたった一つ の僕の人生だ。遠い昔花束を贈ったネアンデルタール人からはるかに続くこれは僕の世界だ。僕はすべてがとても大好きだ。けれど僕は 一度捨ててしまった。
夏 子:だから、もう一度の人生よ!一つ、二つ、三つ、四つ。
ナナシ:一つ、二つ、三つあとたくさん!四つなんかじゃない。一つ、二つ、三つあとたくさん。沢山の鼓動が僕にはある。人には人の時間、猫 には猫の時間がある。僕は、一度間違った。けれどもう過ちは犯さない。僕は猫だ!いつまでもナナシの猫だ。
夏 子:シンスケ!
ナナシ:まあまあの僕は人間であることをやめてしまった。けれどまあまあだろうが何だろうがそれは少なくても僕の意志だ。風を背に受け中心 に向かって僕は樹の上から飛んだ。このように!

ナナシ、高く飛ぶ。倒れて動かない。ゆっくりと夏緒が近づく。

夏 緒:そうして僕は樹に登る子どもを見た。ゆっくりと、ゆっくりと樹に登る子どもを見た。大きな枝に足を確かにかけてゆっくりと登る子ど もを見た。小さな枝を手でつかみゆっくりと樹に登る。やがて子どもは梢に登り風が大きく吹き抜けていくのを聞いた。さあ、吐き出す のだ。自分の体の中のものをすべて吐き出し、大きく息を吸え。そうして、ふたたびまた樹に上り続けるのだ。子どもはのぼり続けるだ ろう。やがて高く飛ぶために。

ナナシ、ゆっくりと起きあがる。

夏 緒:まるでやけくそだね。
ナナシ:ああ、やけくそさ。
夏 緒:ここにいたらみんなに忘れられるよ。
ナナシ:いいんだ。僕がみんなを覚えてる。僕は忘れないよ。絶対に忘れない。だって、大好きだもの。
夏 緒:夜が明けるよ。
ナナシ:風が変わったね。
夏 緒:二百十日の風が行くんだ。
ナナシ:行こう。
夏 緒:どこへ。
ナナシ:猫の教室さ。

ナナシと夏緒、歩きだして。

ナナシ:・・・あっ、夏緒、ほら。
夏 緒:青の魚座だ。

青の魚座がかがやく。
鼓動音。ゆっくりと踊る、猫たち。

ナナシ:八月の夏の日に。十五億回の鼓動。人には人の時間。(本当に晴れやかな光あふれるような笑顔)そうして、僕たち、猫には猫の時間。

踊りの輪にはいる。四拍子の音に鼓動が重なる。朝日が当たる。白い樹が黄金に輝く。
どこからか声が聞こえる。踊りの輪、全員ゆっくりと指高く掲げて

声  :どっどどどどうど  どどうど どどう、
   ああまいざくろも吹き飛ばせ 
  すっぱいざくろも吹き飛ばせ
   どっどどどどうど どどうど どどう

夜が明けて、黄金の秋、猫の時間がやってきた。  
【 幕 】



参考文献
宮沢賢治   「風野又三郎」  筑摩書房
ライオネル・ワトソン 「風の博物誌」 筑摩書房
本山達雄   「ゾウの時間ネズミの時間」 中央公論社
演算星組   「納涼玉簾」   演算星組
野田秀樹   「半神」 小学館


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