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「天気輪の森の物語」〜『銀河鉄道の夜』へ 
 
                           作/結城 翼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
少年・・・・・・  
看護婦・・・・・
 
 
 
#1 プロローグ
 
    紅い靴を履いた看護婦が絵本を読んでいる。
    窓があり、椅子に少年が座っている。幸福そうだ。だが、よく見ると、そ    れは幸福な少年ではなく、訳もなくほほえんでいる老人にすぎない。
 
看護婦 人はいつか壊れるものだとその人は言った。ゆっくりと七日掛けて人は壊 れて行く。まず一日目手が壊れ、次の日に足が壊れて動けなくなってしまう。三 日目に鼻が利かなくなり、四日目には目が見えなくなる。五日目には耳が壊れ、 六日目には口が壊れて、最後の七日目に、最後の日に頭が壊れて、そうして、人 はすべてが壊れてしまう。壊れたらどうなるの。どうもなりはしない。壊れるだ けだ。どうして。その人は微かなほほえみを浮かべてこう言った。人は壊れて行 くときに七つの物語を作るだろう。そうしてすっかり壊れてしまった後……。
 
    ぱたんと本を閉じる。
 
看護婦 おきてもいいころよ。
 
    そうして、物語が始まる。
 
#2 一日目
 
看護婦 一日目、検温。
 
    明るくなった。
    老人が椅子に座っている。見た所はまるっきり少年だ。
    看護婦が検温して、記入している。
 
看護婦 (体温計を振りながら)歩いてみる?
少年 ああ。
看護婦 大丈夫?
少年 うん。調子いいよ。
看護婦 外でも見る?
少年 ああ、ぼく外を見よう。
 
    看護婦、窓を開ける。
    光が入ってくる。
 
看護婦 よく、晴れたわ。……ごらんなさい、汽車が通るわ。
少年 ああ、汽車が通っている。
 
    汽笛が遠くなる。
    何かを思い出しそうになる。
 
看護婦 どうしたの?
少年 汽車が……。
看護婦 そう、汽車よ。
少年 ああ、わからない。けれど。
看護婦 よく乗った?
少年 ああ、よく乗った。
看護婦 もう一度乗りたい?
少年 ……ああ、もう一度乗りたい。
 
    看護婦、窓を閉めながら。
 
看護婦 きっと乗れるわ。
 
    椅子に置いてある本に気づいた。
 
看護婦 どうしたの。
少年 本だ。
看護婦 そうよ。ずいぶん難しい本を読むのね。
少年 ぼくが?
看護婦 そうよ。
少年 しらない。
看護婦 この本あなたのでしょう?
少年 さあ。
看護婦 でも、名前があるわ。
少年 ならそうだ。
看護婦 おぼえておかなきゃ。
少年 このごろ何もかも忘れるんだ。
看護婦 メモすれば大丈夫。
少年 メモしたことも忘れるんだ。
看護婦 おやおやそれはたいへん。
少年 そのうち書くことも忘れるよ。
 
    と、神経質に笑う。
    看護婦、気を紛らわして。
 
看護婦 それにしてもずいぶん古い本ね。
少年 そう?
看護婦 (ぱらぱらとめくり奥付を見て)五〇年はたってるわ。半世紀よ。
少年 そんなに?
看護婦 ええ。
少年 知らなかった。
看護婦 どうしたの。
少年 ……こわい。
看護婦 え?
少年 読むのなんだか、こわい。
看護婦 心配ないわ。これはお話よ。
少年 お話か。
看護婦 お話。
少年 よかった。
看護婦 ……少し暑いわね。
少年 窓、開けて。
看護婦 自分で開けてみたら。
少年 じゃ、じゃんけん。じゃんけんで決めよ。
 
    少年立ち上がる。
 
看護婦 いいわ。……はい、最初はグー。じゃんけん、ぽん。あいこでしょ。あいこでしょ。あいこでしょ。
 
    少年が勝つ。
 
少年 僕の勝ちだ。開けて。
看護婦 はい、はい。
 
    窓を開ける。
    明かりが変化する。
 
看護婦 遅かったね、明智君。
 
    と、ポーズを取る看護婦。
 
少年 えっ?
看護婦 ほらこのとおり。幻の宝石「四葉の白爪草」はすでに私がもらった。
少年 しまった。いつのまに。
看護婦 そればかりではない。五つ葉のクローバー、六つ葉のダイヤモンドももは や私のてもとにある。悔しければかかってこい。
少年 おのれーっ。
 
    飛びかかる少年。鮮やかに身をかわして、手には白爪草。
 
看護婦 (高笑いして)さらばだ、明智君。またあおう。
少年 くそーっ、まてーっ。(と、再び飛びかかろうとするがすっころぶ)いたー っ。
 
    明かりが元に戻る。
 
少年 天気輪の森だ。
看護婦 帰れずの森……と(ノートに記入した)。この本、気に入った?
少年 うん。とても懐かしいような。どうしてだろう。
看護婦 出たくなくなるのよ。
少年 どういうこと。
看護婦 だれでもね。(メモをしながら)居心地のいい所からは出たくないでしょ。
少年 天気輪の森が?
看護婦 首までつかるぬるめのハーブのお風呂。冬の朝のあったかい布団。猫と寝 ているこたつの中。そうしてお母さんの羊水の中。
少年 羊水?
看護婦 (メモを終えて)赤ちゃんが浮かんでいるお腹の中の海。とっても、勇気 がいるのよ、出ていくのには。
少年 帰れずの森……。
看護婦 じゃなくて、正確には帰らずの森ね。さ、手を出して。
少年 (手を出しながら)……あれ、誰だったんだろう。
 
    取り合わずに、脈を取る。
 
看護婦 (脈を診ながら)誰?
少年 一緒にいた子。
看護婦 OK。脈、正常。念のため、も一度検温しましょう。
少年 もういいよ。
看護婦 どうして。
少年 どうしても。
 
    看護婦、ちょっと見て。
    パンと手を打って。
 
看護婦 よっし、わかった。じゃんけんしましょ。いい。はい。最初は、グー。
 
    二人、ジャンケンポン。また、あいこでしょ。あいこでしょ。
    最初は乗り気でない少年だが、けりがつかないので燃えてくる。
    やがて、看護婦はくるりと振り向く。少年は幻の人とつづけている。
 
看護婦 グー。チョキ。パー。グーはチョキに勝ち。チョキはパーに勝ち、パーは グーに勝ち、いつまでたっても終わりはしない。
 
    ジャンケンをし続ける少年。
 
看護婦 ジャンケンをしながら、ああ、ここから、次へ何かが渡されて行くんだと 思ったことがあります。けれど、その伝えられ、渡されていくものは、次に回っ てきたとき、決まって何か少し欠けていました。それは、愛しい人の、目の輝き であったり、夏の夕方私のそばをすり抜けていく風の幸福さであったり、なにが しか、ほんの少しのものではありました。私が、そのことをあの人に言うと、あ の人はぼんやりと笑いながら、こう言いました。それは、人間として生まれたか らには仕方がないことだよ。だって、人は少しずつ壊れていくんだからね。壊れ ていく? そうだよ。生まれた瞬間にね、人は壊れ始めるものなんだ。脳細胞は 壊れ続ける。だから、人はいつまでも同じ人じゃない。生まれ変わりつづける人 と、壊れ続ける脳。正確には、壊れると言うよりも、変化し続けるだろうね。
 
    ジャンケンをする、少年。手が少し痛そうだ。
 
少年 あ、僕の勝ちだよ。
看護婦 そうだね。君の勝ちだ。
 
    そう言って、すたすた去る。
 
少年 (手を痛めたようで、かばいながら)ねえ、どうしたの?
看護婦 それでいいのよ。
 
    呆気にとられた少年、じゃんけんしながら痛いらしくて顔をしかめる。
    ため息をついて、本を読みにかかる。
 
#3 二日目
 
看護婦 二日目、食事。
 
    明かりが少し変わった。
    本を読んでいる少年。
 
看護婦 勉強はかどってる?
少年 まあね。
看護婦 関心、関心。すいたでしょ、お腹。食べる?
少年 ああ、僕食べよう。
 
    手が少し不自由そうに食べ始めるが、変な顔をして、止める。
 
看護婦 どうしたの、手?
少年 あ、ちょっとね。
看護婦 動かしにくい?
少年 たいしたことない。
看護婦 見せて。
 
    何回か、動かしてみる。痛いとかなんとか様子を見て。
 
看護婦 あとで、レントゲンで調べてみましょう。
少年 悪いの?
看護婦 念のため。心配しないで。……あ、ごめんね。食べて。
 
    メモをする看護婦。
    少年は、一口パンを食べ、ミルクを飲む。
    変な顔をして止める。
 
看護婦 どうしたの? 手、痛む?
少年 ううん。……僕こんなもの飲んでた?
看護婦 大好きなミルクじゃない。お砂糖も入れてないわ。
少年 ミルク?
看護婦 絞り立て。これくらいじゃ足りないよっていつも言ってたわ。
少年 ほんとに?
看護婦 本当に。
少年 じゃ、僕飲もう。
 
    一口、ミルクを飲む。
    間。
    少年は片付ける。
 
少年 やっぱり、いい。
看護婦 ごちそうさま?
少年 美味しくない。
看護婦 いつも飲んでたじゃない。
少年 草のにおいがする。
看護婦 そう?
 
    と、ミルクを飲んでみる。
 
看護婦 美味しいじゃない。草のにおいなんてしないわ。
少年 嘘。
看護婦 身体に良いのよ。
少年 ……。
看護婦 さあ、この一杯だけ。
少年 ……。
看護婦 さあ。
 
    と、コップを取って飲まそうとするが、飲まずに。
 
少年 窓開けて。
看護婦 そんなこと言わずに、
少年 開けてったら!
看護婦 (ため息ついて)はい、はい。
 
    窓をあける。
    明かりが少し変わり。
    少年は、本を開く。
 
少年 本当はミルクが大嫌い。だって、何か変なにおいがするもの。あれは、草の においに違いない。夏の草の蒸れたにおいがするんだ。とても、飲めやしない。 でも、身体のためになるからって、母さん言うんだ。
看護婦 いつも決まってこう言うんでしょ。
少年 なんて。
看護婦 あたしはいいんだよ。先にお上がり。
少年 そう。いつも言う。あたしはいいんだよ。先にお上がり。
 
    重なって。
 
看護婦 ああ。お前先にお上がり。あたしはまだ欲しくないから。
少年 姉さんはいつ帰ったの。
看護婦 ああ、三時頃帰ったよ。そこらをしてくれてね。
少年 母さんの牛乳は来ていないんだろうか。
看護婦 こなかったろうかねえ。
少年 僕行ってとってこよう。
看護婦 ああ、あたしはゆっくりでいいんだから。
 
    汽笛が遠くで鳴る。
 
看護婦 誰かいくんだね……。
少年 ねえ母さん。
看護婦 どうしたの。
少年 僕、父さんはきっとまもなく帰ってくると思うよ。
看護婦 ああ、あたしもそう思う。けれどもお前はどうしてそう思うの。
少年 だってけさの新聞に今年は北の方の漁は大変よかったって書いてあったよ。
看護婦 ああ、だけどねえ、父さんは漁へでていないかもしれない。
少年 きっと出ているよ。父さんが悪いことをしたはずがないんだ。だって、今度 はラッコの上着を持ってきてくれるといったんだ。
看護婦 ああ、そうだったねえ。
少年 みんなが僕に会うとそれを言うよ。冷やかすように言うんだ。
 
    汽笛が鳴る。
 
看護婦 誰か行くんだねえ。
少年 今夜はみんなで烏瓜のあかりを川へ流しに行くんだって。
看護婦 今晩は銀河のお祭りだねえ。
少年 うん。僕、牛乳を取りながらみてくるよ。
看護婦 ああ行っておいで。天気輪の森へは入らないでね。
少年 ああぼく、ちょっと見るだけなんだ。一時間で行って来るよ。
看護婦 もっと遊んでおいで。
少年 ああ、母さん窓を閉めておこうか。
看護婦 ああ、どうか。もう涼しいからね。
 
    窓を閉めながら。
 
少年 ……では、一時間半で帰ってくるよ。
 
    窓は閉められた。
    明かりが元に戻る。
    看護婦、メモを取りながら、ミルクをさして。
 
看護婦 飲まないの?
少年 飲まない。
看護婦 片付けるわよ。
少年 いいよ。
看護婦 ほんとに。もっと食べなきゃだめなのに。
少年 ミルクは嫌いだ。
 
    少年、ワゴンから、紙を出す。少し不自由そうに、紙飛行機を折りだす。
 
看護婦 大丈夫?
少年 簡単だよ、こうするんだ。(看護婦に)折って。……ほら。
 
    看護婦、教わって、紙飛行機を折り始めながら。
 
看護婦 君の紙飛行機はどこへ向かって飛ぶの。
少年 (折るのを止めて)どこへ? (少し考えて)空と海の間。(また、苦労し て折りながら)空と海との間だよ。
看護婦 海? それとも空?
少年 (折り続けて)君はどちらへ。
看護婦 海。
少年 じゃ僕は空へ。
看護婦 どこまで飛ぶのかな。
少年 どこまでも。
看護婦 本当に?
少年 ああ、本当に。できた?
看護婦 ……できたわ。
少年 どうしたの。
看護婦 ……何でもないわ。
少年 泣いてるの?
看護婦 ゴミが入っただけよ。
 
    看護婦、記入する。
    少年は紙飛行機を飛ばす。
    しかし、あえなく落ちる。
    もう一つ折って飛ばす。又落ちる。それでも飛び続けているように遥か彼    方を見続ける少年。
    やがて、不自由な手で本を読み始める。
 
#4 三日目
 
看護婦 三日目、服薬。
 
    短い間。
 
少年 どうだった?
看護婦 何が?
少年 レントゲン。
看護婦 ああ、レントゲンね。ちょっと、時間かかるみたい。
少年 どうして。
看護婦 いろいろ調べてみたいらしいから。ちょっと、血液もね。
少年 わるいんだ。
看護婦 そんなこと無いわ。
少年 いいよ。無理しなくても。
看護婦 無理なんかしていない。
 
    去る。
 
少年 無理してるくせに。
 
    手の運動をしてみる。本がぱたっと落ちてしまう。
    いなくなった看護婦に。
 
少年 ほらね。
 
    間。
 
看護婦 はい。
 
    と、拾う。
 
少年 やっぱり無理してる。
 
    と、伺うような問に。
 
看護婦 さ、薬よ。
 
    看護婦、薬を差し出す。
    少年、いうことをきかない手に薬を受け取り、不自由そうに薬を飲む。
 
少年 ねえ、クルミある。
看護婦 どうしたの。
少年 手を見たろ。
 
    間。
 
少年 やってみなければね。
看護婦 そういうと思ったわ。
 
    と、ワゴンからクルミを出して手渡す。
    不器用に持ち、コキコキと少しやってみる。
 
少年 こうかな。
看護婦 こうしたら。
 
    と、アドバイスして直す。
 
少年 (にっこりして)ありがとう。
 
    微笑んで、看護婦、行こうとする。
 
少年 あ、窓を開けて。
看護婦 窓? どうして。
少年 雨のにおいがする。
看護婦 ほんと?
少年 うん。見てみたい。
看護婦 わかった。
 
    窓に近寄る。でも、まだあけはしない。
    外は雨が降っているようだ。
 
看護婦 ほんと、雨のようね。
少年 今日は、傘どうしたの。
看護婦 え? ああ、また忘れたわ。いつもね……忘れるの。
少年 あっ。ねえ、そういえば、雨の味ってどんなだったっけ。
看護婦 さあ。飲んだこと無いから。
少年 でも、あの時のんだじゃない。こうして。あー。
 
    大きく、空向いて、あーんをする。
 
看護婦 え、いつ?
少年 天気輪の森で。
 
    あーんしたまま。
 
看護婦 雨が降ってたの?
少年 ああ、天気輪の丘ははれていたのに、森は本当に雨が降っていた。
看護婦 本当に?
少年 本当に。
看護婦 では、始めましょう。天気輪の森へ。
 
    と、窓を開ける。
    明かりが変わった。
 
少年 そんなにたいしたことじゃないと思った。(やや溶暗。看護婦去る)天気輪 の丘の下に小さな森がある。いつもは回り道をするのだけれど、あんまり風が気 持ちいいものだから、僕は森を突っ切ろうとした。でも、忘れてた。天気輪の丘 に吹く夏の風はとても危険なんだ。夏の風にはくれぐれも気をおつけ。母さんは そう言っていた。けれど、知らない内に風が強くなっていた。思い切って、僕は 森の中へ入っていった。そうしたら……。
 
    森の音楽。
 
少年 誰?
        
    耳を澄ます。笑い声のようでもある。
 
少年 天気輪の森は、いつだって、くるくる天気が変わる。あんなに晴れていたの に気がつけばいつの間にか雨が降りそうだ。僕は傘を 持っていない。
 
    笑い声。
 
少年 誰? 僕を呼ぶの? 誰!
看護婦 遅いね、明智君。
少年 えっ?
 
    はっとして振り返ると。
    看護婦がいたずらっぽく笑っている。
 
看護婦 こうしてごらんよ。
 
    看護婦、おおきく空を見上げて口を開ける。
 
看護婦 雨を味わうんだ。
少年 へえ。……こうかい?
看護婦 そうだ。
少年 ……おかしいな。
看護婦 どんな味がする?
少年 変だよ。この雨。
看護婦 ……どうしてさ。
少年 しょっぱい。
看護婦 そう。
少年 どうして? 雨に味がつくなんて。どうせならレモネードの雨なんていいの に。
看護婦 僕はミルクセーキ。
少年 みかん水でも良いや。
看護婦 コークはやめよう。
少年 身体に悪い雨だもの。
看護婦 酸性雨より良くないよ。
少年 (笑って) でも、どうしてしょっぱいかなあ。
 
    少年、再び口を大きく開けて味わう。
 
看護婦 いつだって降るからだよ。
少年 どうして。
看護婦 (気取って)人の世は悲しきことのみおおかりき。
少年 は?
看護婦 雨は人の涙でできてるんだぜ。
少年 うそ。
看護婦 地球が泣いているんだよ。ああ、排気ガスで目がいてーって。地球の目が 真っ赤になってぼろぼろぼろぼろ涙を流すんだ。これを日本の梅雨という。
少年 あほらし。
看護婦 (笑って)でも、なんだかそんな気がする降り方だと思わない。
少年 それは言えてる。
看護婦 あーっ。
少年 あーっ。
 
    二人上を向いて歩きながら雨を味わう。
 
看護婦 喧嘩に負けたらくやし涙。
少年 人のなさけのありがた涙。
看護婦 愛想尽かして空涙。
少年 え?
看護婦 (笑って)ダイエットは血の涙。
少年 酔っぱらってはもらい涙。
看護婦 退職金は雀の涙。
少年 卒業式は別れの涙。
看護婦 おじいさんの一人涙。
 
    間。
 
看護婦 どうしたの。
少年 年取っても泣くことあるのかなあ。
看護婦 どうして。
少年 だって、悲しいこといっぱいあって、泣いて、泣いて、泣き枯れて。涙なん かきっとでないよ。
看護婦 そうではないよ。
少年 どうして。
看護婦 (思いを込めて)泣きはしないもの。こらえるだけだもの。泣きはしない。
 
    間。
    看護婦、上を向いて歌う。
 
看護婦 上を向いて、歩こう。涙がこぼれないように、泣きながら歩く……。
少年 人の代わりに空が泣いてるわけだ。
看護婦 (上を向いたままで)昔さ、おぼえてない。
少年 何を。
看護婦 どうして、人は死ぬんだろうって思ったこと。
少年 どうして、人は死ぬんだろうって?
看護婦 絶対不公平だって。
少年 不公平?
看護婦 だって、こんなにも僕はここにいるのに。本当にいなくなるってなんだか 不公平だって。
少年 不公平か。
看護婦 神様はいつまでだって生きている。宇宙だって、何十億年も生きている。 こいつは絶対不公平だって。
少年 でも、しかたが……、
看護婦 ないよね。わかってる。それはわかってる。
 
    顔を元に戻して、少年を見る。
 
看護婦 だから、上を向いてあるくんだ。
少年 上を向いて。
看護婦 (歌い出す)上を向いて、歩こう。
 
    少年は上を向く。
        
少年 (ゆっくり歌う)涙がこぼれないように。……ねえ、うれし涙があるといい ね。
看護婦 そうだね。
 
    明かりが変わる。
 
看護婦 風邪引くといけないから、閉めるわね。
 
    窓を閉めている看護婦。
 
少年 年取ると、人は泣かないんだよね。
看護婦 え?
少年 こらえるんだ。
 
    間。
    看護婦、去りながら。
 
看護婦 明日は検査があるわ。
少年 降るのかな、今夜も、雨。
看護婦 多分ね。
 
    と、ドアを閉める。
    声を掛けようとする拍子に本を取り落とす。
    不自由そうな手で拾おうとするが拾えない。
    なんども、やるが上手く拾えない。
    くっくっと笑うが、泣いているようでもあり、こらえているようでもある。
    上を向いてつぶやくように歌い出す。
 
少年 上を向いて、あるこう……。
 
    やがて、そばのクルミをとりコキコキする。一生懸命に。
    何か、ぶつぶつ言っている。
 
少年 人はいつか壊れるものだとその人は言った(繰り返し続ける)……。
 
#5 四日目
 
看護婦 四日目、検査。
 
    ラジオから音楽が流れている。
    少年は、車椅子にぼんやり座っている。
    看護婦が入ってくる。
    手早く、体温と脈を図る看護婦。
    頷いて、記入すると。
 
看護婦 検査よ。えーと、はじめに、血液の検査と心音検査ね。あとで、脳波とC Tがあるわ。
少年 あるね、ずいぶん。
看護婦 こんなものよ。
 
    窓を開ける。
    明かりが変わる。
    天気輪の森。
 
看護婦 雨、すっかり上がったよ。眩しいな。
少年 とってもね。
看護婦 あ、虹だ。天気輪の森で見るとはね。
少年 ねえ。
看護婦 え?
少年 ねえ、僕は何の色だろう。僕には何もない気がする。ねえ、僕は何の色だろ う。
看護婦 馬鹿だな。人には色なんてないよ。
少年 でも、僕思うんだ。何千何百、いいや何万、何千万の色があると同じように 人はたくさんいる。みんなが誰かを思い、誰かはまた別の誰かを思う。だから、 ここには思いがいっぱい溢れている。みんなの思いが混ざっている。だからこん なにも白いんだ。でも、僕は何にも思ってやしない。誰のことも思ってやしない。 君のことだって思ってやしない。
看護婦 僕のことならいいんだよ。
少年 良くない。決して良くない。そんなことって許されない。……でも、いつの 頃からだろう。僕の心の中はだんだん空っぽになってきて。誰のことも思わなく なってしまった。……僕の心の中はあのドボンと開いた宇宙の穴のように何にも ない真っ暗だ。……ごめんよ。
看護婦 ……。
少年 僕はもう最低だよ。
看護婦 悲観しすぎだよ。
少年 悲観しすぎるって?
看護婦 誰だってそんなことを思うことがある。
少年 君も?
看護婦 ああ。
少年 嘘だ。
看護婦 嘘じゃないよ。何の色もないって言ったね。
少年 ああ。
看護婦 石炭袋のように真っ暗だって。
少年 ああ。
看護婦 心配ない。ようく見てごらん。
少年 え?
看護婦 ほら……あの天気輪の上を。
少年 え。
看護婦 みてみるんだ。あの、七つの星の向こうを。何もないだろ。
 
    二人、じっと見る。
 
少年 ああ、なにもない。
看護婦 宇宙にいっぱい星が光っていると言っても本当はあまりに宇宙が広いので すかすかなんだ。星と星の間にはなんにもないんだ。なんにもないのが当たり前 なんだよ。ずーっといっぱい何にもないものが広がってる。
少年 なんにもないもの?
看護婦 真空だよ。
少年 真空……。
看護婦 なんにもないって本当に気持ちがいい。なんにもないことの中にぽっかり 青い水に包まれた地球が浮かぶんだ。これって奇跡だよね。……なんにもないと 言うことはすべてのもとなんだ。そうじゃないかい。
少年 すべてのもと。
看護婦 ああ。すべてを創るもとだ。なんにもないところから、想いが一つ生まれ る。例えば、君への想い。そうすると、それだけで一つの宇宙が生まれる。なん にもないからこそ、生まれるんだ。
少年 なんにもない。
看護婦 そう、なんにもない。だから、君からもうすぐ何か生まれるんだ。
少年 なんにもないから生まれる。
看護婦 そう。なんにもないから生まれる。
少年 では、何を生むの。僕の空っぽは。
看護婦 それは、君だけの秘密だね。
少年 僕にはわからない。
看護婦 ああ、誰にもわからない。生まれるまでは。
少年 生まれるまでは。
看護婦 ああ、たぶん、もうすぐ生まれるよ。
少年 どうして。
看護婦 だって、本当に空っぽになってるんだろ。君は。
 
    間。
 
少年 ねえ、どこにいるの。
看護婦 え? ここにいるわ。
少年 窓を開けてくれる。
看護婦 開いてるわよ。どうして。
少年 真っ暗だろ。
看護婦 え?
少年 この部屋とても暗いから。
看護婦 でも、明かりが……。
 
    部屋は煌々として明るい。
 
看護婦 ちょっと、あなた……。
少年 本当に、暗いんだ。この部屋。
 
    看護婦、近寄り目をチェック。
 
看護婦 どう……見える?
少年 ぼんやりと。
 
    看護婦メモを取り。行こうとする。
 
少年 ねえ。
看護婦 何……。
少年 こわれたんだね、また。
看護婦 希望はあるわ。
 
    看護婦、窓を閉め、去る。
 
少年 本当に生まれるんだろうか……。
 
    天上より、光が降りる。
    なんだか、ピンホールカメラの光のようでもある。
    その光をすくっては、祈るように捧げる少年。
 
#6 五日目
 
看護婦 五日目、回診
 
    薄暗い中。
 
看護婦 回診です。
少年 どうぞ。
看護婦 目、大丈夫。
少年 うん、まあまあ。
看護婦 院長先生よ。
 
    回診が始まる。
    少年は、あーんをして、舌を出す。胸をあげる。診察されている風情。
    看護婦の記入する仕草。
    おじぎをする看護婦と少年。
    明るくなる。
 
看護婦 え? 何か言った?
少年 だるまさんが転んだ。
看護婦 え?
少年 やったことない? だるまさんが転んだ!
 
    思わずストップしてしまう看護婦。
    軽く笑って。
 
看護婦 懐かしいわね。昔はよくやったわ。随分遠い昔。
少年 そんな年じゃないでしょ。
看護婦 そんな年なのよ。お肌の曲がり角も人生の曲がり角も十分曲がり切っちゃ ったわ。
少年 曲がり角か。
 
    ぱっと、何かひらめく。
 
少年 曲がり角ね。
 
    何となく笑う。
 
看護婦 何がおかしいの。
少年 僕曲がり角好きだったよ。
看護婦 なにを?
少年 板塀の、袋小路かもしれない曲がり角。
看護婦 曲がり角。
少年 落としたものにも気付かず、通り過ぎていく交番のある曲がり角。
看護婦 曲がって、曲がって。
少年 曲がって、曲がって。
看護婦 やがて、何処にいるのかわからなくなる曲がり角。でも。
少年 でも?
看護婦 私、あまり好きじゃないな。
少年 どうして。
看護婦 例えばね、まっすぐ歩いているつもりで、気がついたら、良く知っている 風景が何処かずれていって、どんどん離れていく。あわてて、焦って走ったら、 よけい、めちゃくちゃな方向へ曲がってしまう。そんなことなかった。
少年 あるある。
看護婦 どうして、まっすぐにいけないんだろう。あの人と私、何処かで曲がり角 曲がったみたいで。どちらが悪いというわけじゃない。ただ一緒に歩いていた筈 なのに、ちょっとよそ見したら……曲がり角曲がってた。私、まっすぐな道が好 きなのに……曲がってた。
少年 だるまさんが転んだ。
 
    看護婦、ストップ。止まるとき、靴がカツンと鳴る。
 
少年 靴だ。
看護婦 え?
少年 それ紅い靴だろ。
看護婦 これ……。
少年 前から気にかかってた。僕、どこかで見たんだ。
看護婦 お店じゃない?
少年 違う。……そうだ、僕が買ったんだ。
看護婦 そう。
少年 僕が買って、君にあげた。そうだ。そうだよ。
看護婦 興奮しないで。
 
    と、脈を取ろうとする。
    振り払う少年。
 
少年 ごまかさないで。だるまさんが転んだ。
看護婦 え?
少年 だるまさんが転んだ!
 
    反射的にストップしてしまう看護婦。
 
看護婦 何、やらせるの。
少年 それ。
 
    と、鮮やかな紅い靴を示す。
 
看護婦 え?
少年 それはいて、やってたよ。
 
    間。
 
看護婦 ……そう。
少年 会ってるよね……僕たち。
看護婦 …………。
少年 そうだろ、会ってるよね。
看護婦 わからない。
少年 おぼえてないの。僕はおぼえてるよ、その靴。君は誰。
看護婦 私は……看護婦よ。
少年 嘘だろ。そんなことない……。
看護婦 ……どうしたの。
少年 口、まわらない。
看護婦 え?
少年 しゃべりにくくなったよ。
看護婦 も一度言って?
少年 口が……うまく……回……ら……ないよ。
看護婦 待って、先生、呼んでくる。
 
    と、去る。
 
少年 上手……くしゃ……べれないな。……だるま……さんが……転んだ。だ・る ・ま・さ・ん・が・こ・ろ・ん・だ。だ・る・ま・さんが……。
 
    少し、もつれながら言い続ける。
 
#7 六日目
 
看護婦 六日目、診断。
 
    少年は、知恵の輪を一生懸命手探りでやっている。
    なかなかはずれない。
    看護婦はじっと見守っている。やがて。
 
看護婦 違うわ。
少年 見えない……からね。
看護婦 手を添えて。
 
    看護婦は、知恵の輪をとり、少年の手を添えて。
 
看護婦 いい。こうして……こう。ほら。
 
    知恵の輪がはずれる。
 
看護婦 ね。
少年 わ、かった。
 
    看護婦により知恵の輪が元に戻され、再びはずし始める。
    が、うまくいかない。
 
看護婦 あせらないで。
少年 ねえ……、いない、の? ……いな、いか。
 
    看護婦、返事をしない。見守っている。
    かちゃかちゃと知恵の輪をもてあそんでいるが、やがて、ぶつぶつ言い始    める。
 
少年 人は、いつ、か壊れるもの、だとその、人は言った……。
 
    かちゃ、かちゃとひとしきりやってみて。
 
少年 でも、はずれ、や、しないんだ。
 
    また、かちゃかちゃとつつく。
    看護婦がいとおしそうに立つ。
 
看護婦 むかし、あの人が語ってくれた話があります。この宇宙には、大きな風が 吹いていて、それを宇宙気流と言うんだと。学校で習ったんだよ。一緒にね。と、 少しはにかんだような微笑みを浮かべて話してくれました。
 
    かちゃかちゃとつついている。
 
看護婦 思い出して。お願い。こんな話よ。
 
    風が聞こえる。
 
看護婦 では今日は、地球上の生命のことを考えてみましょう。我々の生命を構成 している基本的な物質は何か。わかる? それは何とダイヤモンドや石炭と同じ 炭素なの。炭素原子が基になって、複雑な生命を生み出しているのね。その生命 を生み出す基が炭素原子の大きな流れとなってこの銀河を流れているの。宇宙気 流と名付けられたそれは、銀河系を吹き抜けていく風と言えるわ。我々の母なる 地球と我々の命はその宇宙気流の風の中で生まれたわけ。
少年 命?
看護婦 命。
少年 何? それ?
看護婦 とても難しい質問ね。随分偉い学者たちが研究してもなかなかわからない わ。けれど、このことだけは言えると思う。立って。
 
    少年、立つ。
 
看護婦 私も。
 
    看護婦、立つ。
 
看護婦 手をつないで。
少年 手?
看護婦 そう。
 
    手をつなぐ。にっこりする看護婦。
 
看護婦 何か聞こえない。
 
    かちゃかちゃとつついている。
 
少年 何、も。
 
    知恵の輪を繋ぐ。
 
看護婦 風の音が聞こえない?
少年 風?
看護婦 耳を澄まして風の音を聞くの。銀河を吹き抜ける風の音を。
 
    宇宙気流の音。風が吹き抜けていく。
    やがて、少年、静かに座る。
 
看護婦 待ちましょう。風に乗り、いつか来る人のため。
 
    風を待つ。風が吹き抜けていく。
    愛しそうに、少年を後ろからそっと抱きしめる看護婦。
 
少年 (たどたどしく歌っている)上を……向い……て……歩こう。
 
    少年、かちゃかちゃと知恵の輪をつついている。
    看護婦、少年を見ながら。
 
看護婦 ほんとに不公平な話です。人は一〇〇才ぐらいしか生きられないし、死ん だ人にはかないません。思い出だけが生き続ける。どうやって、私の方を向かし たらいいんでしょう。もう、私には時間があんまり無いんです。いつまでも待ち 続けることはできません。たとえそれが本当に必要な人であっても、待ち続けた くともできないんです。
 
    歩き始める。
 
看護婦 古い、古い話です。三人の子供がいたんです。一人は、ふざけて水におぼ れ、一人はおぼれた子を助けようと身代わりで死に、一人は、夢でそのこと銀河 を旅をした。いじめたり、いじめられたり、ふざけたり、ふざけられたり。よく ある子供のお話です。一番大切なことってなんでしょう。身代わりで死んだ子を 悼むことでしょうか。夢を見た子を慰めることでしょうか。いいえ。本当に大切 なのは、助けられたものの不幸じゃないですか。身代わりで命を失ったものは不 幸だがすくわれる。夢見たものは、その幸せをかみしめればよい。けれど、助け られた子は一生背負わねばならないのですよ。身代わりの人生を。もう、壊れて しまうのに時間はあまりないんです……。
 
#8 七日目
 
看護婦 七日目、告知。
 
    看護婦。本を取り出す。
    読み始める。
 
看護婦 人はいつか壊れるものだとその人は言った……。
 
その言葉のフレーズに何か思い出しそうになる少年。
そして。
 
少年 それは僕の本だ。
看護婦 違うね。
少年 違うって。
看護婦 これは、僕の本だ。
 
    間。
 
少年 どうして? 僕の名前があるだろ。
看護婦 そうだよ。僕が君にあげたんだもの。
少年 え?
看護婦 あのとき、僕は君にあげたじゃないか。
少年 いつ。
看護婦 僕が壊れてしまったとき。銀河のお祭りの夜。
少年 何だって!
 
    子供が落ちたぞーっ、川におちたぞーっ。という声。
    溺れている少年。
    看護婦、ゆっくりと本を差し出す。
 
看護婦 捕まって! これに!
 
    本はゆっくりと手渡され、看護婦はおぼれていく。
    少年は、本をつかんでいる。
    間。
 
少年 うそだ!
看護婦 …………。
少年 うそだ。
看護婦 ぼくの人生なんて背負わなくていいんだよ。
少年 なんだって?
看護婦 そいつは、君のおごりだよ。
少年 おごり?
看護婦 僕は、助けたかったから助けたんだ。誰だってそうするよ。君が責任感じ ることはない。
少年 でも、あれは。
看護婦 誰だって、人の人生なんか背負えやしない。いつまでも人の本を読むこと はないんだ。もういいよ。
少年 わかってるよ。
看護婦 わかってない。……物語が終わるんだ。
少年 えっ?
看護婦 ほら。天気輪の森が石炭袋に吸い込まれていくよ。
 
    激しく石炭袋に吹き込んでいく風。
 
少年 ……もうすぐ壊れるんだね。
 
    間。
 
看護婦 ……うん。
少年 壊れてしまうんだ。
看護婦 ……うん。
少年 君も?
看護婦 僕も。
少年 じゃ、……お別れだね。
看護婦 ああ、お別れだ。でも。そうしてはじめて始まる。
少年 え?
看護婦 君の物語がね。
 
    鐘の音がする。
 
少年 僕の物語。
看護婦 そう。四十五億年前に始まった命の物語。
 
    鐘の音がする。
 
看護婦 四十五億年の昔からつながる一つの呼吸。すって、はいて。
 
    大きな呼吸をする。
 
看護婦 人は誰も壊れるとき大きな呼吸を一つして、静かになる。それまでのすべ ての物語を吐き出して、人は壊れてゆく。大きな、大きな呼吸をね。さあ。すっ て、はいて。
 
    大きな呼吸する少年。
 
少年 ため息みたいだ。
看護婦 そう。ああ、一生なんてなんてちっぽけだったんだろうって。もう、終わ りなのか。なんと短い時間。これでおしまいなのかって。
少年 そうして、息を吐くんだ。
看護婦 そうして、大きな呼吸をする。はーっ。
少年 はーっ。
看護婦 はーっ。
少年 はーっ。
 
    少年むせる。
 
看護婦 落ち着いて。
少年 え?
看護婦 吸わなければね。
少年 吸う?
看護婦 手を握る?
少年 ……うん。
看護婦 大きく吸ってこう言うんだ。……私は壊れ続ける一人です。言って。
少年 …………。
看護婦 さあ。わたしは……。
少年 (大きく吸って)わたしは……。
看護婦 壊れ続ける。
少年 こわれつづける。
看護婦 一人です。
少年 ひとりです。
看護婦 さあ。……(と、手を離す)私は。
少年 私は……。
看護婦 元気を出して。さあ。
少年  私は、壊れ続ける一人です。……そうだ。元気を出して僕はこう言おう。 僕は壊れ続ける一人です。僕はたった一人、壊れ続ける人間です。こんにちは。
看護婦 こんにちは。
少年 こんにちは、元気ですか。
看護婦 こんにちは。ありがとう。私は、元気です。
少年 ありがとう。僕も元気です。
看護婦 ありがとう。私も元気です。
少年 では……。
 
    と、手を出す。
 
看護婦 では……。
 
    と、手を握る。
 
少年 さようなら。
看護婦 さようなら。
 
    鐘が鳴る。
    固く握手して、手を離す。
 
少年 さようなら。
看護婦 さようなら。
 
    ゆっくりと手を振り合う二人。
    ゆっくりと溶暗していく。暗転直前。
 
少年 思い出した、君は! 紅い靴を履いていたんだ君は。
看護婦 そうよ、……私。間に合ったわ。ようやく。
 
    紅い靴が鮮やかに見え、看護婦は消える。
 
少年 待って!
看護婦 (声だけが)さようなら。
少年  待って! ……待って! ……さようなら! さようなら! さようなら ーっ!
 
    暗転。
    鐘の音がウェディングベルのように高く鳴る。
 
#9 エピローグ
 
    溶明。
知恵の輪をカチカチしていたが、それが。
    かちっとはずれた。
 
少年 ねえ。……はず、れ、たよ。
看護婦 そうね。はずれたわ。
 
    やさしく、手を重ねてやる。
 
少年 どう、した、の。泣いてる。
看護婦 なんでもない。ただ。
少年 ただ?
看護婦 終わる、の。
少年 え? 風、吹いてる、よ。
 
    風が吹いている。
    間。
 
看護婦 わかってるわ。風は吹いているの、昔から、ずっと。
 
    窓を閉める老婆。
    本を持っている老人。
 
老人 思い、出した。これ、は、彼の本、で。……そう、して、僕は、君が……好 きだったんだ。
 
    振り返る老婆。
    にっこりして。
 
老婆 そうよ。
老人 ずっと、ずっと、好き、だった。
老婆 そうよ。
老人 そし、て。君、も。
老婆 私もずっと好きだった。
老人 そうか。
老婆 そうよ。
老人 なんだ。そう、だった、のか。
老婆 そうだったの。
 
    二人笑う。
 
老人 おか、しい、ね。
老婆 何が。
老人 君、が、奥さん、だ、なんて。
老婆 そんなにおかしい?
老人 僕、は、いくつ、になった。
老婆 七〇を越してるわ。
老人 君も。
老婆 私も。
老人 あれ、から六〇、年か。
老婆 はい。
老人 無駄、な、ことをした、んだろうか。
老婆 そんなことはありませんよ。
老人 ほん、とに。
老婆 本当に。
老人 でも、ずい、ぶん、年、を取った。そうして。
老婆 そうして。
老人 すっかり、こわれて、しまった。
老婆 でも、間に合ったわ。
老人 ああ、本当に、間に、合った。
老婆 よかった?
老人 ああ、良、かった。でも、遅、かったんじゃ、ない?
老婆 そんなことはないわ。
老人 本当、に。
老婆 本当に。
 
    間。
 
老婆 私、幸せよ。
老人 ……ありがとう。
老婆 ……では、行く時ね。
老人 窓、を、開けて。
老婆 いいわ。
老人 夜、だね。
老婆 ああ、すっかりね。
老人 銀河、見えてる?
老婆 白く流れてるわ。
 
    本が読まれる。
    老人は、ゆっくりと着替えはじめる。
 
老婆 人はいつか壊れるものだとその人は言った。ゆっくりと七日掛けて人は壊れ て行く。まず一日目手が壊れ、次の日に足が壊れて動けなくなってしまう。そう すればもう立派な壊れ物でしかないだろう。けれども、やはり人は人だけあって、 まだまだ人でしかない。三日目に鼻が利かなくなり、四日目には目が見えなくな る。もう世界の光という光を決してみることはなく、丹精込められた料理を味わ うこともない。けれどまだ語ることはできるし、聞くこともできるんだとその人 は言った。でもそれからどうなるのだろうと尋ねると、五日目には耳が壊れ、六 日目には口が壊れて、もう風の呼ぶ声も聞けないし、誰にも語ることもできなく なるとその人は言った。じゃあおしまいじゃないか言うと、お前自身がまだ壊れ ていないとその人は言った。けれども、最後の七日目にお前は壊れるだろう。最 後の日に頭が壊れてそうして、人はすべてが壊れてしまう。壊れたらどうなるの。 どうもなりはしない。壊れるだけだ。どうして。その人は微かなほほえみを浮か べてこう言った。人は壊れて行くときに七つの物語を作るだろう。そうしてすっ かり壊れてしまった後、その七つの物語によって世界がつくられて行くのだ。
 
    老人は、車椅子に座っている。そうして、遥か遠くを見る。
    読み終わり、老婆が立ち上がる。
 
老婆 では。
 
    ぱたんと本が閉じられた。
    老人、本当に優しくほほえむ。
 
老人 …………。
 
    何か言い、手が迎えるように延ばされ、ゆっくりと落ちる。
    老婆はいとおしそうにその手を取る。
    少年を乗せた車椅子を、押す。
    そうして、優しく語りかける。
 
老婆 ゆきましょう……あなた。
 
    鉄道の汽笛が鳴る。
    そうして、大宇宙の黄昏の中、汽車は動き出す。
 
 
                                【 幕 】


 

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