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「霖雨の門・・羅生門異聞」
芥川龍之介 原作
結城 翼  作

★登場人物
男・・・・・・・・
女・・・・・・・・








#1プロローグ 

昔、一つの時代がゆっくりと崩壊していったある頃。
霖雨がすすり泣くように降っている晩秋の都。
荒れ果てたそのはずれに、うっそりと立つ大きな門があった。
羅生門と呼ばれるその門は、黄昏どきともなると、もはや誰も通るものはなく、あたりにはやせさらばえた野犬が食い散らした 行き倒れの死体が幾つか恨めしげに横たわっているという。
緞帳が上がる。

男  :恐れながらだんな様、私ではございません。決して、決して私ではございません。何を仰せられます。私めが不正を働いたなどと、それ はあまりな言いがかりというもの。ひっ

と、たたかれでもしたように悲鳴を上げる。

男  :お願いでございます。今一度、今一度お調べ下されませ。お家のものを一物たりとも私ものにした覚えはございません。これは、誰か の仕業でございます。今一度、今一度、お慈悲を持ちまして、お調べ下さい。わたくし、ここを追い出されば、どこへ行くこともかないま せぬ。このままでは、首くくるしかございません。・・はっ?

衝撃を受けた様子。
小さい間。頭が聞いたことを拒否している様子。

男  :なんと・・・いま、なんと。

驚きと絶望。

男  :首をくくれと。どこなと、いって、首をくくれと。ここにいることはかなわぬと。・・だんな様。・・だんな様。あまりでございます。 だんな様!もし、だんなさまーっ!

と、おいかけようとして、後ろにもんどり打って倒れる。
蹴倒されたようだ。
そのまましずかになる。
いずこからか笛の音がもの悲しく聞こえてくる。
やがて笛の音は一段高くなると唐突に消えた。
情景が変わった。

男  :はーっくしょん。

     と、一声。寒かったようだ。
小さい間。
悲痛な感じで。

男  :くいてえーっ・・。

霖雨はいつやむともなく、しんねりと止めどもなく降り続いている。
若い男がいた。男は門の下で所在なげに雨宿りをしている。
あたりが雨に白くけぶる黄昏時、薄暗くなっていくなか、男はぼんやりとそれを聞いている。
こうして、物語は始まる。
雨がまたひとしきり降るようだ。
笛の音が響く。
ぎくっとした様子で耳そばだてる。
どこやらで低く歌声がする。
門の二階のようだ。
きょろきょろと辺りを見回したが、やはり門の上と見て、男はおそるおそる近寄っていく。(下手へ)
ピーッと高く一声笛の音が響く。

#2 髪の毛を抜く女

歌声が聞こえる。
舞台中央に、女の死体が転がっている。その周りにも何人かの死体が転がっているようだ。
その黒い髪を一本一本抜き取ってはつぶつぶと歌う、ぼろ布ともみまがう衣服をまとった女。若くもあるし老婆のようでもある。
髪の毛はもう、一束ほども女の手にあった。

女  :かわらすずめに参らせそろ。かわらすずめに参らせそろ。花の雨なら二条の殿と、ひいな祭りに参らせそろ。

ふと、手を休める。
辺りをうかがい。
また、髪の毛を一つ抜き取った。

女  :ほんにようふること。春の花の雨ならよいものを。そぞろ冷たい秋の雨では、心もひえびえとこおってゆくわ。どれ、それにしても、こ んなに降っては、お前様もすんぐ腐ってしまうなあ。

笑って。

女  :腐ったところで、文句も言うまいが。

頭を振って。

女  :臭くてたまらんなるなあ。どれ。

と、ごろんと身体を動かした。
弾みで、カッと見開いた目が露わになる。

女  :おうおう。そんな、怖い目でみんと。

と、目をつぶらしてやる。

女  :お互い様やし。

と、嘲るように言った。
むっくり起きあがって、髪の毛を一束つかんだまま、よたよたと上手に行く。
窓があったようだ。外を見て。

女  :ほんとによう降る。

と、一束の髪の毛を我が頭に当ててみる。
嬉しそうにするが、慌てて大事そうにしまっている。
下手より男が顔を出した。
女が引き返すのを見ると素早く隠れた。

女  :はようせんとな。はようせんと。

と、また髪の毛を抜きはじめる。

女  :かわらすずめに参らせそろ。かわらすずめに参らせそろ。花の雨なら二条の殿と、ひいな祭りに参らせそろ。

と、歌い出す。
男は、いぶかしげにじっと見ている。
男は女が何をしているのかは分からない様子だ。

女  :これで一本。

くくっと笑って、熱心に。

女  :なかなかに上質じゃ。喜ばれよう。・・これもよいの。

と、何本か抜いている。
男はようやく、何をしているか気づいた様子
さらに忍んで様子を見る。

女  :まっておれよ、お前たちもまっておれよ。まずはこの女からじゃ。

と、死体たちに語りかけて。

女  :かわらすずめに参らせそろ。かわらすずめに参らせそろ。花の雨なら二条の殿と、ひいな祭りに参らせそろ。

と熱心に取り出すが、やがて、何かに気づいた。

女  :誰、じゃ。・・誰じゃ。

男が見えないらしい。

女  :誰じゃ、誰じゃ、誰じゃ・・。

男は女があまり夜目が聞きそうにないのを見て、大胆に近寄って髪の毛を強奪する。

女  :ひぃーっ。

と、奇妙な悲鳴を上げながら、女は縮こまる。

男  :何をしている。

女は、あたりを見てぼんやりと男が目に入ったらしく、じっと見ている。

男  :何をしていると聞いている。

女は黙ってねめつけている。

男  :この羅生門に人が住んでおるとはしらなんだ。おおかた、物の怪か盗人の類であろう。言え。何をしていた。

女はなおもねめつける。
男は少し和らいだ声で。

男  :おれは役人などではない。たまたま雨宿りをしていただけだ。検非違のようにお前に縄を掛けようとかいうものではない。ただ、今ごろ、 この門の上で何をしていたのか、それを話しさえすればいいのだ。な。
女  :・・・ったのじゃ。
男  :何?
女  :抜いておったのじゃ。その髪を。
男  :見ればわかる。死体から、なぜ抜いた。
女  :売れるからじゃ。
男  :売れる?
女  :そうだとも。カツラにするのじゃよ。
男  :カツラだと。
女  :そうじゃ。若い女どもが買うのじゃ。
男  :死体からか。
女  :死体だからというて何を恐れていなさる。死体は何も悪さはせん。
男  :この女は。
女  :三条河原あたりで阿漕な商売をしていたおなごでの。干し魚の偽物を売っとった悪い女だ。
男  :悪い女か。
女  :悪い女じゃ。
男  :ならばお前も悪い女だ。

けけっと笑う女。

男  :どうして笑う。
女  :死んでしまえばただの土塊(つちくれ)と同じ。土塊をひろうたからとて誰もとがめはせぬじゃろ。

男、こいつはという感じてねめつけている。
沈黙に、女、いらいらと。

女  :いうたはずじゃ。こいつらはみな悪行の果てに死んだ者たちばかりじゃぞ。そのものたちの髪の毛が人様に役立つならば・・

遮って、刀を突きつけた。
女、驚き後じさりする。

男  :言うことはそれだけか。

女、ねめつけたまま。

男  :ならば、覚悟せい。

と、斬りつけようとするときに、女が何か言った。

男  :何。何と言った。
女  :・・どれほどの違いがあろう。
男  :違いだ?
女  :お前様とわたしといったいどれほどの違いがあろう。
男  :何だと。
女  :お前さまはわたしが悪人だとて切るという。
男  :悪いか。
女  :ずいぶんいい気持ちであろうの。
男  :何ぃ。
女  :女一人を斬り殺してずいぶんいい気持ちになるであろうと言ったのよ。

と、嘲る。

男  :何が言いたい。
女  :わたしは人をあやめたことなど今の今までほんのこれっぽっちも無いぞ。
男  :死人の髪の毛を盗ったであろうが。

かぶせて、女。

女  :わたしがこやつらを殺したか?
男  :・・いや。
女  :わたしがお前様に危害を加えたか?
男  :・・いや。
女  :そうであろう。何もせぬものを無慈悲に斬り殺すは悪人と言わぬのか。

と、嘲笑する。

男  :くそ。いわせておけば・・・。

と、むかつくが切れなくなっている。
女は冷たく。

女  :わたしが悪人だからとて切るというのは本当ではあるまい。
男  :な、何を言うか。
女  :わたしを切りたくなったは。

女、くくっと笑って。

女  :本当は、お前様の、身についた、垢のせいじゃ。
男  :何。垢のせいだ?何のことだ。

女、再び死体のそばへ。

女  :垢といったのじゃ。お前様の体についている、いいえ、お前様の心についておるこの世の垢のせいじゃ。
男  :この世の垢だと。ふざけたことを言う。命惜しいとて狂うたか。
女  :狂っているのは誰じゃろう。

と、やおら髪の毛を抜く。

女  :一本。

男、たじろぐ。
女はかまわず。

女  :二本。

男、嫌なものをつかんだような顔。
こらえた声で。

男  :やめい。
女  :三本。

男、こらえかねた押し殺した声。

男  :やめんか。
女  :四本。

女、むしろ楽しそうに

女  :かわらすずめに参らせそろ。かわらすずめに参らせそろ。

と、唄いながら。

女  :五本。
男  :女ーっ!

と、髪の毛を投げつけて思わず切り込む。
女、意外と軽い身ごなしでよけて、はじけるように笑う。
死体を挟んでにらみ合う二人。

女  :私がおそろしいからじゃろ。斬りとうなったは。
男  :何でお前を恐れる。垢だの恐ろしいだのたわけたことを抜かすな。
女  :人は失うべきものを持っておるとどうにも失うのが怖くなるものでな。
男  :何が言いたい。
女  :わたしらを見ると許せなくなる。今にも私らと同じようになりはしないかとおそれるからじゃ。すむべき家、守るべき地位、蓄えた財産。 みんな失われるのではないかと怖くなり、そうして、うしのうておるものを見ると憎まずにはおられない。明日は我が身じゃからな。
男  :こざかしいことを。外道のくせに。

女、かすかに笑って。

女  :髪のことか。
男  :死人の髪の毛抜くなど、外道の仕業。お前などに御仏の慈悲などあってたまるか。

女はにっこり笑う。

女  :仏はすでに許されてあるはず。
男  :たわけたことを抜かすな。
女  :仏はおっしゃられるのじゃ。ここにあるのはただの骸(むくろ)。魂が抜けたただのモノじゃと。
男  :お主、まことにそんなことを思うてか。
女  :おおよ。お前様。

にたっと笑う。

男  :な、なんじゃ。

と、気圧される。

女  :まだわたしを切ろうと?
男  :お、おう。きらいでか。

ほほほと笑い。

女  :私を切っても、お前様には守るべきものはもはやないであろ。
男  :何。
女  :どうやら主を失われた身の上であろう。どうやら、何日も食べてはいまい。
男  :うるさい。
女  :垢のせいじゃよ。
男  :訳の分からぬことをほざきおって。
女  :わからぬか。人を切るなど、今のお前様にとっては、身についた、ただの垢みたいなもの。
男  :うるさいーっ!

と、しゃっと斬りかかる。
女、身を翻し。

女  :お前様もわたしと同類じゃ。行くべき所も、持つべきものも、守るべきものもない、何もない、ただの人斬りじゃ。
男  :うるさい、うるさい、うるさいーっ

と、またもや斬りかかる。
女、笑って、逃げる。

女  :ここにおる死人とかわりはせぬぞ。
男  :俺は、生きてる。
女  :そうして、腐っていくのじゃ。この死人たちと同じに。

女、けたたましく笑う。
男、ほえながら、斬りかかり女を追う。
女、男をじらすよう、あやすようにひらひらと逃げる。
男の声はもはや泣き声のようでもある。
笛の音が聞こえる。
混じって女の歌声。

女  :かわらすずめに参らせそろ。かわらすずめに参らせそろ。花の雨なら二条の殿と、ひいな祭りに参らせそろ。

溶暗。

#3 雨の夜に1

笛がピーッと鳴る。
溶明。
雨音が相変わらずしている。
男がくたびれた様子で座っている。
女もいる。
女は相変わらず髪の毛を抜いている。

男  :おい。
女  :なんじゃ。
男  :怖くはないのか。

このものたちという仕草を男がする。

女  :死人は何も悪さをせん。悪さをするのは生きておる人間だけじゃ。
男  :悪かったな。

女は、肩をすくめたような感じ。

男  :いつからやってる。
女  :忘れた。

と、答えたくないふうだ。

男  :こんなことやっとってもいいこと無かろう。
女  :無い。
男  :なら、なぜやめん。死人がかわいそうではないか。
女  :かわいそう?
男  :そうだ。死んでしもうたとはいえ、人間には違いなかろう。こういう仕打ちされては・・。
女  :と、野良犬に食い散らされた死人に言うたのか。
男  :何だと。
女  :かわいそうか。

ふんと鼻先で笑う。

女  :かわいそうな。ふん。かわいそうな死人。

と、唄うように言って。笑う。

男  :なぶると承知せんぞ。
女  :なぶっておるのはどっちじゃ!
男  :何。
女  :お前の目は節穴か。かわいそうでない死人なぞどこにあるものか。そんなこともわからぬか。うつけもの!
 
気圧された男。

男  :うつけものだと。
女  :かわいそうだなどと余裕のある身か。すんぐにこのようにならぬとも限らぬではないか。
男  :うっ。
女  :死んでしもうたらもう人ではない。はなから人間扱いされたりはせぬ。中には生きたうちから捨てられたものもあるぞ。・・なんじゃ。
男  :恨み辛みがずいぶんあろうな。

ぐるっと死体を見回す。

女  :恨み、つらみか・・。

小さい間。ぼそっと。

女  :そんなもの、とうに捨てておるであろうよ。
男  :どうして。
女  :恨み辛みをいえるのは生きた人間だけじゃ。こやつらは、もう髪を抜かれることしかできぬわえ。ひ、ひ。ひ。

と、泣きそうな声で笑い、一本二本と抜く。
雨音が大きくなる。
無惨なものを見るように男は女を見、ぼそっとつぶやく。

男  :さむいの。

小さい間。
男、なんとなくいらついたか、立って歩き出す。
見ていた女。

女  :お前様はなぜここに来た。
男  :え。
女  :なぜここに来た。

小さい間。

男  :ひどい主人での。
女  :ほう。
男  :人減らしのために、難癖付けて、ありもせぬ太刀を盗んだというて俺をお払い箱にしたのだ。
女  :それは気の毒に。
男  :ふん。

女はくくっと笑って

女  :どうやって暮らしていくつもりじゃ。
男  :さあて・・。
女  :うかうかしておると・・。

と、死体たちを指し示す。

男  :(不機嫌に)わかっておる。

と、立ち上がり、歩き回る。
小さい間。
いらついている。
女は、例の歌を小声で唄いながら髪の毛をまた抜きだした。
急に、男は、髪の毛を抜いていた女から髪の毛を取り上げて、床に投げつける。。

男  :やめんか!
女  :何にいらだっておる。
男  :むごいことをするなといってるだろう!
女  :生きたくば生き、食べたくば食べ、奪いたくば奪う。いかぬか。
男  :それは身勝手というものだ。
女  :身勝手のどこがいかぬ。身勝手にせねば飢えてしまう。身勝手がきかなくなればあとはのたれ死ぬしかなかろうが。
男  :それでは、畜生ではないか。
女  :なりとうてなるわけではないぞ。
男  :何。
女  :だれもなりとうてなるわけではない。けれど、そうせねば生きていけぬと知ったときどうする?死んでしまうか?死ねまい。あさましく ても、獣のようでも生きて生きて生き抜くだけじゃ。
男  :(うなって)地獄じゃな。

かすかに笑った。

女  :なんの。地獄はもっと心地よいかも知れぬぞ。先の世のことじゃ。誰にもわからぬ。じゃが、現世(うつしよ)からは逃げられぬ。

と、頭を振る。

男  :そんなにこのような生き方が捨てられぬか。
女  :捨てる?捨てる。・・はて、不思議なことをいうの。

笑う。

男  :何がおかしい。
女  :これをみよ。

と、自分の肌をさらす。
男は、いぶかしげにしている。

男  :それは・・。
女  :私の肌じゃ。皮一枚で身体を覆っておる。これをむけと言われるか。むいてしまえと言われるか。
男  :何をふざけたことを。このような暮らし、やめようと思えば簡単だろう。もっとまっとうな。

女、セリフを横取りする。

女  :まっとうな暮らしをか。
男  :そうじゃ。それのどこが悪い。今からでも・・。

女、じっと見つめる。

男  :何だ。
女  :・・・。
男  :何か言わぬか。

小さい間。ぼそっと。

女  :お前様はわかっておらん。
男  :こんなものが暮らしというのか。死人から髪の毛を引き抜いて高く売りつける。こんなものが。

静かに。

女  :暮らしというのはお前様、きれい事で済むようなことではない。
男  :俺はそんなことは言ってない。
女  :(無視して)暮らしと言うのはな。

間。

男  :なんだ。
女  :どこまで落ちてもその日が暮れる。ただにその日が暮れてしまう。・・そんなものなのじゃ。
男  :なんだそりゃ。
女  :わからぬか。
男  :当たり前だ。
女  :幸せなお人じゃ。
男  :どこが。
女  :まだ、お前様には明日という日があろう。
男  :無ければ生きていけるものか。
女  :暮らしには明日というものはありはせぬ。ただにその日が暮れるだけ。いつまでたってもただにその日が暮れるだけ。そのほかには何も ありはせぬ。・・ありはせぬのじゃ・・。

女はもうどこを見ているでもない。
男はその深い暗闇を見たように凝然とする。
少しの間。

男  :ただに、日が暮れるだけ。
女  :ほかには何もありはせぬ。
男  :それが暮らしか。
女  :暮らしじゃ。

ほんの少しの間。

男  :くだらん。

不思議なものを見るように女は言う。

女  :お前さまのことでもあるぞ。
男  :俺も?馬鹿な。
女  :心当たりはないかえ。
男  :あるはずもない。俺は、まっとうに・・。
女  :生きてきたなどと言う戯れ言はききとうもない。
男  :戯れ言だと。
女  :こんな世の中に自分だけ、真っ白だなどという奴などおるものか。みんな、少しずつ薄汚れているはず。そうであろう。お前さまも。

男、嫌なものを見るような目つきで女を見る。

男  :くだらんことを言うとただではおかん。
女  :偉そうに人のことをいえるのか。
男  :何だと。
女  :都で生きるということは、そんなに簡単なものなのかえ!お前さまの手が真っ白なはずはあるまい!

男、はっとする。何か、嫌な記憶が蘇るよう。
手を見ている。

女  :ほれみよ。

男、大きく肩で息を吸う。
何かつぶやいた。

女  :どうした。
男  :違う。
女  :何。
男  :あれは違う。
女  :どこが。
男  :俺は、引き返した。
女  :何から。
男  :(聞こえない様子で)俺は引き返した。あのとき俺は!

笛が激しくピーとなった。

#4 引き返した男

情景が変わってゆく。
男の子(女)がやってくる。
疲れたふうである。
門のそばに腰を下ろす。
つってある竹筒から水をうまそうに飲む。
一息つき、門を見てしみじみと感じ入った様子。

女  :これが、羅生門・・。

見ていたが、やおら立ち上がり、近寄って見上げる。

男  :大きいだろう。

男が笑いながら出てくる。

男  :いやいや、そんなに怖がることはない。

こどもは、なおも警戒している。

男  :田舎から出てきたと思われるが、何、そんなにおじずともよい。俺も同じだ。

と、先ほどまで子供が座っていたあたりへどっかと腰を下ろす。

男  :どうだ、くわんか。うまいぞ、都のものは。

と、何か、干物めいたものを出す。
子供、少し警戒心をゆるめたようだが、まだ気を許してはいない。

男  :見れば、一人旅のようだが、偉いの。なかなか大人でも物騒だが。どこから来た?うん。ほら、食えよ。腹へってんだろ。

子供はようやく、近寄ってきて、ぺこりとお礼をすると差し出した干物を受け取った。
近くへ腰を下ろし、腹が減っていた様子で夢中で食べだした。

男  :うまいだろ。
女  :うん。
男  :そうか。

といって、笑う。

男  :ほれ、もっと食うか。少しだがまだあるぞ。
女  :いいの。
男  :いいとも。へってんだろが。
女  :うん。

と、言って受け取り、一口食べて、気づいて。

女  :ありがと。
男  :何。たかが干物じゃが、ちかごろうまいと評判のものじゃ。ほら、食えよ。
女  :うん。

と、言って食べ出す。
見ながら。

男  :都は初めてか。
女  :うん。
男  :この門は大きいじゃろ。
女  :うん。びっくりした。

と、にっと笑う。
男も笑って、

男  :どこから来た。
女  :若狭。
男  :ほう。遠いの。一人でか。
女  :ううん。最初は二人。でも、丹波に入ってすぐに病で倒れ、三日前に死んでしもうた。
男  :付き添いの者か。
女  :うん。
男  :どうして、ひきかえさなんだ。
女  :都はすぐの所じゃし、母上が死んでしまう。
男  :何?
女  :都の父上を呼び戻しに来た。そうせぬと母上の病は治らぬ。
男  :ほう。父上は薬師か。
女  :違う。けれど都には唐から渡ってきたいろんな薬があると聞いた。父上なら手に入れられる。加持祈祷を半年もしておるけれど母上の病 はますます重くなって・・・。

言葉を失う。

男  :そうか・・。偉いの。

小さい間。

女  :おじさんは。
男  :おれか。・・おれはまあ下働きだ。
女  :下働き?。
男  :この都の三条というところにあるお屋敷で使われとる。・・そうか、一人で来たか。いろいろ怖い目にあったじゃろ。
女  :ううん、これがあるから怖くない。
男  :これ?

と、不審そうに問うと子供は懐から小さい三寸ばかりの仏像を取り出す。
男の目の色がかわる。黄金で出来ているように見えたからである。

男  :ほう、たいしたものじゃのう
女  :うん。母上が道中無事であるように、父上に無事会えるようにと。
男  :そ、そりゃほんものか。
女  :ほんもの?もちろん。仏様に本物も偽物もないよ。
男  :あ、そ、そうじゃなくて。

声を潜めて。

男  :それは、・・金無垢か。
女  :金無垢?

困ったように。

女  :さあ、わからない。・・けれど、仏様だよ。

と、しまい込みそうになる。
慌てて。

男  :なあ。
女  :え?
男  :な、ほんのすこし、少しだけで言いから。・・見せてくれ。ああ、粗末にはあつかわぬ。仏様だもの。な。少し。

子供は断れきれず、不安な様子で・・。

女  :ちょっとだよ。
男  :わかっておる。わかっておるって。

と、奪い取るように手に取る。

男  :ほー、これはすごい。
女  :ねー。
男  :わかっておる。わかつてる。少しまっておれ。

男はもう子供など眼中にない。

男  :金無垢の仏様か。

もう夢中だ。
なおもひっくり返して細かく調べようとしたとき。

女  :返してよ!

と、強い声。
びっくりして。

男  :何。ああ、そうか。すまん。いい子だ。もう少しな。
女  :いやだ。

と、疑い深く、きっぱり言う。

男  :まあ、そういわずに。

と、おもわずあたりを見回す。

男  :もう少し拝みたいでの。

と、猫なで声でなだめにかかる。

女  :返して。返して。

と、金切り声になってくる。

女  :何するんだよ。
男  :いいじゃないか。へるもんじゃなし。。
女  :いやだー。

と、むしゃぶりついてくる子供。
離そうとするがうまくいかないので、思わず。

男  :畜生。騒ぐんじゃねー。

蹴倒す。
子供の手から仏像は飛んでいき、慌てて男は、拾いに走る。
子供は、悲鳴を上げて倒れたまま動かない。
男は、仏像を拾い、懐へ入れようとして、何かに気づく。

男  :ん?

と、仏像を改める。
ごしごしこすってみる。
しばらくじっと見ていたが、信じられないような思い。

男  :何だこりゃ。

あてが外れた顔をして。

男  :ちぇっ。おい。わっぱ。こいつはよ・・。

と、子供の方を見て。
悲鳴のような声で。

男  :お、おい。どうしたっ。

と、慌てて、駆け寄る。
が、かすかに息はしていたようだ。
ほっとして。

男  :びっくりさせやがって。おい。わっぱ。こいつは、偽物だぜ。乱暴してすまなかったな。

と、子供に放って、あたりを素早く見て、立ち去ろうとする。
その背中へ、子供はしっかり仏様をしっかり握り、か細い声で。

女  :仏様に本物も偽物もないよ。

男は、まさか答えが返るとは思わずぎょっと振り返る。
倒れたまま強い目で、子供がこちらを見返していた。

女  :仏様だよ。

男は、じっと、見ていたが、悲鳴とも何ともつかぬ声を残し走り去った。
ピーッと笛の音がした。

#5 雨の夜に2

男  :俺は引き返したのだ。

軽蔑するように。

女  :金無垢じゃなかったからね。
男  :いいや。子供の目が俺を天秤に掛けたのだ。
女  :天秤?
男  :どちらに傾くか人にはわからん。俺の天秤はあのとき確かに、お前らの方に傾きかかっていた。この手が確かに白いとはいわん。だが、 あの目が、俺をこちらの方に引き戻したのだ。俺には悪いことはできぬと。
女  :怖かっただけじゃろ。
男  :何。
女  :それは、勇気がなかっただけじゃ。
男  :悪さをする勇気などあってたまるか。
女  :いんや。ある。
男  :なるほど。さぞかし自分はたっぷり持っておるわけじゃ。
女  :私にもない。
男  :ほお、それこそ俺には、結構勇気がいることと思うが。
女  :こんなことは、お前さま、慣れにすぎぬ。
男  :慣れ?

ちっ。と舌打ちして。

男  :まるで仕事のようにいいやがる。
女  :そうじゃ。仕事じゃもの。

男はあきれて。少し笑い出す。

男  :言い方もあるものだな。
女  :だから、いうたではないか。暮らしだと。
男  :じゃ何か。俺が、悪いことをしなかったのも暮らしのせいか。
女  :一歩踏み出せなかったら、その場にとどまるしかあるまい。
男  :おかしいではないか。お前は
女  :ただ一度だけ出したのじゃ。
男  :何だと。
女  :ただ一度だけ出したら後は勇気は入らなかった。後は、ただの慣れ、ただの仕事。ほっ。

と、自嘲する。

女  :今は、勇気などどこにもありはせぬ。ただ、こうやって仕方なく髪の毛を抜いているだけじゃ。
男  :くだらんな。
女  :くだらんか。なら、これはどうじゃ。

笛がピーッと鳴る。

女  :いらんかな。干し魚はいらんかな。味よい干し魚はどうじゃ。

女は、流れるようにあちらこちらにものを売るようす。
長い髪が鮮やかに翻る。あでやかな踊りに近い動き。
男の顔色が変わる。
女の変わり身にあきれるだけではなさそうだ。

男  :何のまねだ。それは。
女  :蛇を干して売っておる。
男  :わかっている。

男の口調は何か変だ。が、女は気づかない。

女  :案外にうまいものじゃ。食べてみるかえ。
男  :誰が。そんなものを。
女  :知らずと食べれば平気であろう。味よいというて帯刀の陣では評判での。
男  :だまされて食べておる。
女  :さて、だまされたというのはどうであろう。
男  :だましておるではないか。
女  :それで何か不都合なことでもあるかの。
男  :それは・・。
女  :味よいというて喜んでおるじゃろ。
男  :それは確かにそうではあるが。
女  :構わぬではないか。誰も困らぬ。
男  :したが・・。
女  :えい、ごしゃごしゃと文句の多い。お主のくらうは蛇の肉ぞと言われて喜ぶものがおろうか。
男  :・・・。
女  :で、あろう。ならば、だまされたというわけではない。知らぬだけじゃ。
男  :本当のことを知れば。
女  :袋叩きにされて命失うやも知れぬ。けれど、本当のことをしったとて味よいものを失うだけじゃ。それではお互い不幸になるというもの。
男  :だが、悪いことだ。
女  :悪いことで皆幸せになるのではないか。
男  :しかし・・・。
女  :干し魚はどうじゃ。味よい干し魚じゃぞ。
男  :やめいっ。

男は、苦いものを飲み込んだように苦しげだ。
女は、冷ややかにやめる。

女  :こんな女もおる。勇気のある女じゃぞ。

小さい間。

男  :ああ、確かにそんな女もおった。

女、男の口調に何か不審なものを感じる。

女  :おった?知っておるのか?蛇の女を。
男  :ああ、よく知っておる。よく知っておるとも。あのときも、物売りをしておった。

ピーッと笛の音。

#6 蛇の女

女  :いらんかな。干し魚はいらんかな。味よい干し魚はどうじゃ。

と、女が軽やかに舞うように物売りをしている。
男が駆け込んできて、ぴたっと止まる。
女もとまった。小さい間。やや冷たく。

女  :なんじゃ。お前様か。

また、物売りをしようとする。

女  :もう二度と帰らぬのではなかったか?

と、嘲るように言う。
男はせっぱ詰まった口調で。

男  :話がある。
女  :私は別に。
男  :いいから来い。
女  :いたい!?・・乱暴な。

若い女を引っ張って、物陰へ。

男  :殺してしまうところじゃった。
女  :は?
男  :・・殺してしまうところじゃった。

女は驚いて周りを見て、さらに人に見つからないようにする。

女  :誰を。
男  :・・子供じゃ。
女  :子供!・・またなんで。
男  :何でといわれても。はずみじゃ。
女  :弾み?はずみで子供を。

男頷く。

女  :何と言うことを・・・。

女は身体を少し引く。
男は、気づき、追うように。

男  :な、きいてくれ。ほんとにはずみじゃ。そんなことするつもりじゃなかった。ほんの少し仏像を見たかっただけじゃ。
女  :仏像?
男  :ああ、三寸ばかりだが全身金無垢での、そりゃ見事な細工で。
女  :子供が持っていたと。
男  :ああ、そうだ。こりゃあ本物に違いない。売れば、お前にも何かこうてやれる。新しい打衣ぐらいかまえてやれる。
女  :お前様。

冷たい声だが。
男は気づかず、熱に浮かされたようにしゃべる。

男  :おれは下働きでやっつかっつだ。だが、いつかは一山当ててやる。このまま終わりたくはねえ。そうだよ。こいつを餓鬼から取り上げて。 何、かまいやしねえ。どうせ右も左もわからねえ田舎ものだ。そう思うと・・。
女  :お前様!

はっと、気づく男。脱力感に襲われる。
間。

女  :仏様は。
男  :仏様?
女  :金無垢の。お前様が取ってきた。
男  :取った?とりゃしねえよ。
女  :子供からうばったんだろ。

若い男、むなしく笑う。

男  :金無垢・・金無垢か・・くだらねえよ。
女  :何がくだらないだよ。ねえ。しっかりして。

と、身体を揺する。

男  :うるせえな。

と、その手を払い。

男  :偽物さ。
女  :偽物・・。
男  :まんまとだまされちまった。へ。ざまねえや。
女  :あんたって人は・・・。

と、愛想が尽きたように言う。
ついと、立ち上がった。

男  :おい。どこ行く。
女  :商いだよ。売らなきゃ食えないだろ。

男、あわてて追いすがり引き戻す。

女  :何するのさ!。
男  :待てよ。な、待ってくれ。

女、追いすがる男を振り払い。

女  :ほんとにあいそがつきるね。
男  :な、ほんとはそんなつもりじゃないんだ。お前に小袖の一つもと。
女  :私のせいにしないでおくれ。
男  :何。
女  :悪いことなら悪いことで自分の胸一つに収めて置いたらいいじゃない。私に慰めてほしいの。後悔するぐらいならするんじゃないよ。子 供はかわいそうだが、それだけの運だろ。人なんかごろごろ死んでるよ。えやみで死ぬも殺されて死ぬも、同じことさ。
男  :お前は・・。
女  :そんなことより、あたしは食い扶持をかせがにゃならない。せめて仏像が本物なら役に立っただろうに。ふん。お前様は、なにやらして もそうなんだよ。

と、一二歩歩き出して。振り返り。

女  :役立たず!

と、吐き出すように言って出ていく。

男  :何!

と反発して追いかけようとするが、それも出来ず中途半端な姿勢で立ち上がったままぼんやりしている。
ぴーっと笛がなった。

#7 雨の夜に3

女  :役立たず・・か。

女は、にやりとした。

女  :あの女の言いそうなことだ。
男  :人の行く道は天秤のようなものだ。どちらに傾くかわかりはせん。だが、俺の天秤はあのとき、確かに行き来をした。役立たず。そうだ、 俺は役立たずでいい。

女は、ひっひと笑った。

女  :以来、まっとうに生きてきた訳か。

嫌なものを見る目で。

男  :俺は引き返したのだ。
女  :女にはその後。
男  :あってない。会う気もおこらん。・・昔の話だ。
女  :そう、むげにするものでもないぞ。
男  :知っているのか。
女  :ああ。
男  :どうしている。
女  :女か?

にーっと笑った。

女  :これじゃよ。

と、髪の毛を男の前につきだした。

男  :なにっ。

と、男は衝撃を受ける。

女  :ほんとうにきれいな髪の毛じゃ。

男、吐き気を催すがこらえて。

男  :蛇の女か・・。
女  :あっさり、えやみにでもかかってしんでしもうたらしい。(笑って)それとも、売っておった蛇の毒にでも当たったものか。夕べ、門の下に倒れておった。
男  :捨てられたのか。
女  :そうかもしれん。あっけないものじゃ。おまけに、こんなものをな持っていたぞ。

と、仏像を出す。

男  :それは・・。
女  :因縁じゃのう。
男  :あのときの。
女  :ひょっと本物かも知れぬと思うと矢も立てもたまらなくなったのであろう。この女は昔からそんなところがあった。
男  :子供を・・。
女  :さて、どうしまつしたか・・。
男  :役立たずとあいつはいった。
女  :立派に役に立ったのじゃ。お前さまの話がの。
男  :そうか。

小さい間。

男  :そうだったのか。

と、いって笑う。

女  :どうした。何がおかしい。
男  :結局、天秤はそっちに傾いていたというわけだ。・・本物と言うことは。
女  :ない。
男  :なるほど。

といって、またくっくと笑う。

男  :そうして、結局、みんな、すべてがお前のものになったわけだ。

笑いながらも、忌避すべきもののように女を見る。
女、ヒヒと笑って。

女  :そういうことになるかの。因果というわけじゃ。
男  :因果か・・。
女  :善じゃ悪じゃとかまえても仕方あるまいということじゃ。
男  :暮らしだからな。

と、冷ややかに笑う。

女  :この世が腐っていくとき、人は、その毒気に当てられるのじゃ。ただ、この世と一緒に生きぐされていくだけじゃわな。

男、かすかにあざけって笑う。女は気づかない。

女  :何がおかしい。
男  :生きぐされか。さぞかしくさいであろうの。ひょっとするとこの死体よりも臭いかもしれん。
女  :なにをいう。
男  :お前のことさ。
女  :私。
男  :お前は、ただただこの世に流されて生きてきただけだということだ。
女  :流されて。
男  :お前だけでもない。おれたちもそうかもしれん。善をなすのが都合よければ善を成し、悪をなすのがよければ悪を成す。周りの言うまま に流れているにすぎぬ。
女  :それは暮らしだというたではないか。
男  :まことの暮らしとはそんなものではなかろう。
女  :何。

くくっと笑って。

男  :ほんとうにこの世は怖いものだ。この門に雨宿りするまでは自分にもう悪いことが出来ようなどとはおもいもしなかった。だが、今は違 う気がする。

女もわらって。

女  :出来るようになったというわけか。
男  :そうではない。生きようと思うようになっただけだ。
女  :ほう。
男  :最前までは、おれはぼんやりと役立たずに生きていた。いや、ひょっとすると、もうこのものたちと同じで死んでいたのかも知れぬ。だ が、今は違う。おれは本当に生きたくなった。
女  :よいことではないか。
男  :ああ、たぶんよいことだろう。おれにとっては。だが、誰かにとっていいことかどうかはわからぬ。

笑って。

男  :俺もどうやら毒気に当てられたらしい。お前がにおうように、俺もにおうておるじゃろう。生きぐされて、腐って行くのかもしれん。だが俺はそいつは嫌なんだ。

と、ばっと仏像を奪い取る。

女  :あっ、何をする。
男  :偽物ならば、どうやらおれにふさわしい。おれが、これを本物にしてやろう。今に金無垢の仏像として高く売りつけて見せる。
女  :お前様に売れるものか。
男  :いいや売れる。蛇の女が干し肉を売ったように、売ってやる。誰もが喜ぶように本当の金無垢に見せてやろう。

と、走り出しそうになる。

女  :あ、まて。それはわたしのものじゃ。

と、取りすがるが。

男  :今まではな。

と、ばっと手を払い、女の衣をくるくると回すように脱がし奪い取る。

女  :あっ。

と、倒れる。
見やって。冷たく。

男  :これと同じで、今はおれのものだ。
女  :おのれ。

と、むしゃぶりつく女。もみ合うが、男はたちまち女を組み敷いてしまう。
そのまま、男は両の襟首をもって、立ち上がる。女も後ろ向きのまま、立ち上がらざるを得ない。
女の髪がぱーっと瀧のように手前に散らばった。
男は正面向き、女はつかまれたまま向こう向き、顔はのけぞっているまま。

女  :おのれ。
男  :お前が教えてくれたのだ。

と、絞めていく。
苦しい息の下で。

女  :何を。
男  :生きて行くには仕方がないとお前は言った。
女  :しかたないことじゃ。
男  :昔の垢をこびりつかせているのはお前なんだよ。仕方なくたって、喜んでやったって、どっみち行くところは同じだろ。
女  :やめて。
男  :おれは、今決心したのだ。おれは生きてやる。いいわけなぞせず生きてやる。仕方ないからお前を殺すのではない。おれは、生きるから こそ、今度は殺すんだ。
女  :やめて。
男  :ああ、やめたい。おれもやめたいが。やめてしまったら、生きぐされるだろう。
女  :やめて。
男  :おれは、ほんとに生きるんだよーっ!

と、叫びながらしめた。
女、ぐったりとなる。

男  :はーっ。

と、太い息をつき、女を突き放す。
女、くたくたと倒れ、髪が床に広がった。
男は荒い息をしていたが。

男  :つまりは、そういうことだ。

と、言い放つと、素早く衣と仏像をしまい込み、あたりをちらっと見回すと。

男  :はーっ。

と、一息、ため息のようなものをつく。

男  :くせえなあ。

と、捨てぜりふのように吐き、階段をたたっと降りて行く。

#8 夜の果てへ

男は羅生門の下にいて、懐に片手を入れて空を見上げる。
ふっと笑って。

男 :空のそこさえ見えん。

雨の音。

男 :後から後から落ちてきやがる。

雨の音。
前方を見て、もう一度かすかに笑った。

男  :ほんとに、道もみえねえな。

と、仏像を取り出す。

男  :恨みがましい目をしてやがる。だけどよ、天秤がこっちへ傾いたんだ。すまねえな。

笑う。
さすって、ぎゅっと握って、しっかりと懐にいれる。
羅生門を見上げる。ほーっと息を吐いて。

男  :怖いところだな。ここは。

行こうとする。

男 :・・はっはっ、ハーックション。

と大きいくしゃみ。
ぶるぶるっとして、鼻をこすり。

男  :あー、畜生、腹へったな。

といいざま、舌打ちして、雨の中きっと闇をにらんで勢いよく走り出す。
懸命に闇の中を走る。
ゆっくりと女の死体がよみがえる。
信じられないほどの声のない笑い。
雨は音を立てて降り始める。
男は、雨をこらえて前方を確かめながら、太刀をしっかり持ち懸命に走り続ける。
女の死体の声無き笑いは大きくなってゆく。
そうしてすべては闇の中へ。
笛の音が一声高くピーッと鳴った。
後は、雨の音だけが大きく聞こえる。
【 幕 】


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