●第27回高知県高等学校演劇祭講評


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~少し遠くへ行くために~
【はじめに】
 三日間お疲れ様でした。参加16校という初めての事態に対して、運営面でかなりご苦労されたことと思います。事務局、生徒実行委員会、裏方の皆様のご苦労に感謝いたします。講師としても大変でしたが、それぞれの発表を真剣に見させていただきました。
 いろいろなお芝居が上演されましたが、それぞれいろいろと工夫していて楽しく拝見いたしました。ただ、全体を通してみるとやはり共通した課題が浮き彫りになったように思います。高校演劇の場合、みな脚本探しに苦労します。創作で無い場合は、とにかく役者の人数にあわせて探さざるを得ず、昔も苦労しました。今は、ネットで多数脚本を見ることができ、その分、楽になりましたが、逆に質のあまりよくない台本も多く、選択眼が問われることとなります。その意味で、今回上演された既成脚本は正直言うとかなりの部分問題点が多く、上演の質に大きく響いていました。また、創作台本も着想は面白いんだけど、それを具体的に脚本にするとき、欲張りすぎたり、シーンやキャラクターのおもしろさに注意がいったりして、肝心の骨格というか、構造の基礎をきちんと作り上げるところが弱くなったようです。45分という初めての制限時間で苦労した性もあるでしょうが。 高校演劇は一般的に脚本の持つウエートが高くなります。演出、演技が発展途上のところが多く、どうしても脚本の質が舞台の成否を左右することになりがちです。生徒は年々交代して、やっと役者の技量が向上したと思ったらもう卒業ということになりますから。中高一貫の場合はもう少しましですが、そうでない学校は2年間で一から仕上げることとなりますからね。演出の場合も顧問が演出する場合は別として、そうでない場合はこれまた生徒が交代していきますから、集団として演出の質を保持するのはなかなかに難しいところです。
 逆に言うと、よくできた脚本は、それが既成であれ、創作であれ、スタート時点でかなりの問題をクリアーしていることになります。既成であるならば、そういう脚本を選ぶ眼、創作であるなら書く技術を磨くことが必要となります。もっとも、ダメな脚本を演出と演技で結構カバーしてお芝居として成立させているところもありました。ただ、原則的にいうと、やはり脚本はよくできたものを選ぶ方がよいし、いい物を書いたほうがいいのは当たり前のことだと思います。何がよいかは、若干幅はありますが、少なくてもだいたいのチェックポイントはあり、自分たちがやりたいように書いたからいいやという物でもありません。観客に見てもらうことを前提とするなら、というか、観客なくしてお芝居はあり得ないし、そのための努力はもっともつとやるべきだと思います。お芝居作りのスタート地点ですので。チェックポイントのことは、後でまとめて別項に整理しておきますので、参考にしてください。
 というわけで、脚本コンクールではないのですが、私の講評は今回は特に脚本中心に書いておきます。演技、演出等は古田先生が目配りされて、書かれると思いますので、そちらも参考にしてください。

●高知小津 「歪みの国のアリス」

 「不思議の国のアリス」はあまりにも有名なテキストで、単純な童話にとどまらない、豊かな世界を持ち、言語遊びや、奇妙で特異なキャラクターや、その論理的展開の不可思議さで、様々な形で表現活動の源泉として、推理小説や、コミックまでに取り入れられています。そういう、表現者を引きつける寓意と難解さに満ちた魅力があります。この作品の元はゲームという二次的表現を元にしたもののようですが、ここでは、当然演劇としての表現に対して見ていきます。
 歪みの国と銘打った以上、自動的にゆがんでいることとは何かと、それに対して歪んでいないとはどういうことかがとわれます。もともと、「不思議の国のアリス」自体、結構歪んでいて、原作者のルイス・キャロルもある意味歪んでいました。生涯独身で通したキャロル(本職は数学者)が、執着した少女をモデルにしたこと自体、ちょっと危ない匂いがありますね(いまでいうロリコンです)。この歪みが、実は様々な表現を可能にしているともいえます。全うであれば、何も生み出しませんから。それはおいといて。
 二つの世界の行き来の工夫が不明確で、結果として、全体の骨格が弱くなっています。たとえば、アリスの少女性が弱かったり、歪んでいないアリスの輪郭が不明だったりして、歪みの国を構築することに注意が行きすぎて、現実の世界のアリスの姿が弱いのが一番大きな問題点となります。というか、現実の問題が、いわば説明でしかないのが痛い。5人そろい踏みのところなど、一番の山なんだけれど、全部説明してしまっていて、それやったらおしまいでしょと言いたくなってきます。複雑な構造になるんでややこしいところですが、このあたりを何とかしないとまずいと思います。
 以下、気づいた点をいくつか、アトランダムに。
 冒頭部分、亜莉子の台詞は完全に説明。カットして、チェシャ猫の台詞から入った方が遙かにまし。というか、そのあたりの2人の会話が完全に観客に状況を説明するためのものなのでつらいです。
 登場人物。ダースベーダーみたいなチェシャ猫、やはり、ふしぎな笑いと顔が欲しいね みえないのは疑問。見えても全く問題ないのに。白ウサギ、不気味さだけではだめ。キャラが先行してるだけで、物語の中での意味が出てきていない。そんなに不気味にやる必要があるのか疑問。しかも繰り返されるからちとうざい。女王さま、歩き方、話し方に注意。普通の人がやってる感じ。
 装置。赤と黒のボックスをちょっと平面的に並べていて、その奥で演技する場面もあるが遠くてしょぼくなる。赤と黒の箱の色は幻想の世界では違和感がないが、現実の世界が舞台の時に、見立てるのが困難で違和感がある。転換に使っているが、ミスしてバラの花が残っていたのは痛い。まあ台本にもぽろっと書いてあったように、複雑な転換はこうありたいという希望にしかならないときがある。戦術的失敗。もう少しシンプルなものにしないとね。合わせて、幕の開け閉めが多く観客の集中を妨げ厳しくなる。
 衣装やメイク。凝っていてそれなりの効果はあるが、逆にそれがじゃまをしている。むしろ、普通の衣装で(現実の場面になったとき違和感がない)、アリスが生み出した幻想の世界の時、それにプラスして、現実とちがう、ゆがんだ感覚を出した方が効果的だと思う。
 結局、歪みということに引っ張られすぎているのが、全体を薄くさせている。楽しい明るいお芝居の中で歪みを感じさせる不気味さという感じにしていく方がよろしいのでは。
 全体を通して言うと、作品の中心部分がうまく処理というか構築できていない、中心となるのは、作品の中に出てくる、「お茶会」なんですが、その組み立てが何とも曖昧でありました。お茶会のシーンをメインにしてその装置をきっちり作り、その中で展開すればいいと思うのですが、ちゃぶ台みたいなちゃちい装置ではキビシイものがあります。また、アリスについては歪みの反対のゆがんでいないアリスの輪閣が必要で、ゆがむ原因と過程をきちんとえがくことが大切なのだが、そのあたりが曖昧で、アリスの歪みがよくわからない。全体の台詞のリアリティーが薄くて、物語を支え切れていない。この点はもっともっと練り込む必要があろう。有名な物語を踏まえて書き、演じる時は、観客もそれなりのイメージを持っているので、それを粉砕するぐらいの、よほどの覚悟がなければいけない。

●高知追手前 「銀河鉄道の夜」

 賢治童話の中でも難解で有名な銀河鉄道に挑戦したことにまず敬意を表すします。まあ、一度はやってみたいテキストですね。これは未完の童話です。だから、後から挑戦するものにとっては未知の領域の部分がすごく大事になります。いかに書かれなかったところをすくい取る努力をするかが台本の質をけっこう左右します。その意味では周辺の調査が少し不足していた気がいたしました。脚本は原作に忠実。ただし、本質と関わる部分微妙にカット、あるいは改変されていたところがあり、それはちょっと残念、というか、結果として、結構痛い。テキストの読み方が今ひとつ不十分な点があります。
 「銀河鉄道の夜」は行きて帰りし物語。物語の王道。行く世界はジョバンニの妄想世界。だからして、銀河鉄道内のカムパネルラ像はジョバンニの理想像だが、現実部分のテキストではジョバンニとカムパネルラの関係は微妙。遊びに行った記述はあるけれど、ジョバンニの積極性に対してカムパネルラはそうでもない。ジョバンニの独り相撲の感もある。それが現実。しかし死者との世界ではそうでもないのだが、それでも「どこまでも一緒に行こうね」というジョバンニに対して、カムパネルラの返答は、微妙にすれ違っている。やがて亀裂が生じて、カムパネルラは「石炭袋」の中へ去るというか消失し、ジョバンニは取り残される。もはや、現実の世界でジョバンニの味方はひとりもいない状況に直面せざるを得ない結末だが、それでもなお、孤独の中に生きなければならないジョバンニに、生者として生きる希望を与えたものは何かということが実はもっともだいじなものではないか。それがうまく描き出されていなかったところにこの舞台の問題があろう。以下、なぜ描き出せていなかったかと言うことを、多少前後するかもしれないが物語の流れに沿って見ていきたい。
 とにかくビジュアル面や、効果、人の動きの操作等各シーンがきわめて表現密度が高かった。基本的に観客にどう見せるかと言うことを意識しているのがよくわかる。しかも、みんなにその共通理解があり、そのために様々な趣向をこれでもかというぐらい盛り込んでいて、楽しくやっていることがうかがわれる。でも全体には抑制がきいていて見やすい。ただ、ちょっとそれが理知的に過ぎて冷たい感もあるのだがまあ、そこは好みかも。二次元のテキストから一つの形を、イメージとしてきちんと造形し、三次元的空間の中に構築する能力がすごいと正直思った。こういう能力は演劇という狭い世界だけで無く、もっと広い分野で将来きっと役に立つというか、演劇やらせとくにはもったいないなあと、演出だけのアイデアや力では無いだろうけれど(もしそうならちょっとお化け)。
 オープニング、天の川を暗示する斜めにかかった網?が効果的で、星球の効果が生きていた。また、全体を通したピアノの生演奏が各場面でうまく使われているし影の大事な出演者となっています。露骨に舞台に出ていなくて天の川の端にあるから、観客の視線にさらされにくく許せる範囲におさめています。プログラムにはピアノ演奏者の名前と役割を出すべきだと思います。立派に一人前の出演者ですよ。技能は正当に評価しましょう。
 ジョバンニの孤独感を表すシーンは良くできている。通行人の動きをうまく使っている。雑踏の中の孤独は一番きついですから。これは、最後の方のカムパネルラの死を知るところでも同様。ただ、ちょっとながいかな。微妙。孤独感は表せても、その原因を推察させ、孤独感の本質を表現するシーンの構築は弱いというかないかなぁ。
カムパネルラとの微妙な関係はもう少し丁寧にやってもいい。後で引っかかってくるので。まあ微妙。でも、本当に大事なところ。
 お母さんちょっと元気すぎ。とても病弱とは思えません。ここでお母さんがきちんと出てくるのが実はラストと関係して大事なのだが。父の不在を語るシーンなのでラストと関連する。祭りへ出て行くところの台詞の順序と付け加えた言葉にはちょっと問題があり、 この母子関係を適切に表現しているとはいえない。
牛乳屋のシーン、あえて言うけどいるのかな、むしろ印刷所(ジョバンニは生活費を稼ぐために植字工のアルバイトをしている。そこでも冷笑される。)の方がと思ってしまう。まあ後段での照応関係から入れたのだとは思うけれど。
 最初の関門・・天気輪の所・・目つぶしの長いのは観客にはつらい。目つぶしは観客にけんかを売ってるんで控えめに。それと、実は根本的な問題が一つある。わりとすらっといってる感じがある。ここはもう少し、引っかかるものがあるようにしたほうがいいのでは。まあ、原作もすらっとかいてるからそうなんだろうけど、演劇としてはもう少し観客に引っかかりの手がかりを与えたい。というか、目つぶしいらないんでは。銀河鉄道のライトと見立てることはまあできるけどね。全体的に抑制された表現が続くんで違和感があった。
 さて、銀河鉄道に乗ってから次々と出てくる乗客たち。できるだけ退屈させないような工夫をしている。鳥捕りのシーン。船(タイタニック)の沈没事故の所。サソリの話しのミュージカル風。インディアンの踊り。サービス精神が現れている。個人的には、遭難のシーンのシルエット処理のハミングと、インディアンの踊り(あんまし必要が無いんだけど面白いからいいや)に一票。サソリの話の歌は、面白いんだけど、意味の本質が伝わりにくくなってまあ、一勝一敗というところ。ただし、乗客たちはジョバンニと出会い、また別れるのだが、彼らがジョバンニに何を残し、ジョバンニは何を得ていったのかをもう少し明確にしないと本質に迫りがたい、ただ情景がパノラマとして移っていくだけになる。個々のシーンは見せておもしろいんだけど。それだけではおでんの串にならない。
 でもって、核になる、銀河鉄道からの帰還とカムパネルラの死を知ることラストの処理。ここが一番困難なところで、なおかつ全体の根幹、ジョバンニは、いかにして孤独な存在から、孤独でありながらも希望を持つ存在になったのかと言うところなのだが、やはりちょっと、弱かった。ジョバンニとカムパネルラの関係をもう少し明確にしないと、そこが浮き上がってこない。
カムパネルラとの感情、あるいは関係の齟齬が微妙に手でくるところをきちんと出してもらいたい(銀河鉄道に乗ったところの二人の台詞の食い違いの中にも出てくるのですが、ちょっとスルーされた感じがある。)。これは、生者と死者との関係も含めて全体を締めるいみで必要なところです。これが少し弱かったですね。これがないとエビソートが平面的になりますし、カムパネルラがジョバンニから去る必然性が弱くなります。ジョバンニの一方的な思いこみかも知れないカムパネルラとの関係が壊れていく必然性や悲劇性、いっそう強まる孤独感が表れにくくなります。「ほんとうのさいわい」に向かって一緒に歩きたいと思っても、それができえない生者と死者の絶対的な断絶性も当然曖昧になります。検討課題ですね。
 で、本質的な部分と関わるシーンで、気になるところがありましたので、以下、詳述します。参考にしてください。
 まずは、ラストから。一つは、お母さんはなぜ登場しないのか(テキストはもちろん登場しませんし、家に帰って語りもしません)。登場していないと、それは観客に対して直接話法になって決意表明になってしまいます。生徒講評委員会の中にありましたが、ジョバンニのサクセスストーリーではなかったかと。そういう印象を与えるのはまずい。決してサクセスストーリーなんかではありません。どこまでも孤独な修羅の道を歩み続けなければいけないジョバンニの(あるいは私たちの)、希望への道はあるかもしれないけれどそれは微かでしかない、つらい現実認識であるはずです。最初に印象的にお母さんとの会話を出してきた意味がありません。こういうラストにするならば、お母さんを登場させて、間接話法で語った方がもっとしみじみとした認識を語れることと思います。
 そうして、その認識自体に若干疑問が残りました。テキストの誤読ではないかなと思います。それは、なにか。キーワードを少し取り違えていたように思います。「しあわせ」という言葉を使っていますが、ちょっと待てよと。些細な語感の違いによる物と思われますが、実は意外と本質的なことに関わります。
 お母さんとのやりとりの中で、不在の父を、嘘と知りながらかばい続ける、孤独な存在であるジョバンニが、友達である(実は、本当にそうかはよくわからないのであるのだが)カムパネルラとの別れを通じて、たとえば、大人がつく嘘、母や、カムパネルラのお父さんがつく嘘・漁にでているとか、お父さんはもうすぐかえってくる。れんらくがあったなどというその嘘を乗り越えて、ジョバンニ自身がついている嘘も克服し、現実の中で、本当のしあわせを追求するという感じですが、実は、テキストでの賢治の言葉では「さいわい」です。どこが違うのか。おんなじようなもんじゃないかと思うところですが、決定的に違います。
 「しあわせ」と「さいわい」。個人と全体。あるいは、「救済」のイメージ。台本では「しあわせ」とありますが、「銀河鉄道の夜」(新潮文庫のテキストによる)の中では「さいわい」が使用されています。「幸福」「しあわせ」もありますが、ごく少数で、鍵になるところでも使われていません。それに反して鍵になる「ほんとうのさいわい」、あるいは「さいわい」というキーワードがほとんどです。明らかに賢治は使い分けています。カムパネルラが「おっかさんは、ぼくを許してくださるだろうか(父でないことに注意)」と言った後「ぼくは、おっかさんが、ほんとうに幸いとなるなら、どんなことでもする」というあたりや、 ジョバンニが鳥捕りに対して「もうこの人のほんとうの幸いになるなら自分が云々」と思うところ、青年の台詞やさそりの火のところ、サソリの火の後、石炭袋を見ながらのジョバンニとカムパネルラの会話、たとえば「きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしにいく、どこまでもどこのでも僕たち一緒に進んでいこう」というところ(直後カムパネルラ消失の大事な箇所)などなど。「さいわい」は明らかに、自己、あるいは個人のためではなく、他者あるいは全体に対しての言葉です。阻害されて孤独なジョバンニが、なぜ、他者、あるいは全体のさいわいを望むのか。あるいは望むことができるのか。ここに銀河鉄道の本質の問題点があると思います。それが「しあわせ」ではやはり掬いきれないのではないでしょうか。「さいわい」には宗教的なにおいがしますね、救済のイメージが重なります。賢治自身も非常に熱心な法華経信者でした。それを除いても、語られるエピソードの中で、サソリの話や、青年の話、あるいは「グスコーブドリの伝記」にもはっきりと出てきますが、自己犠牲による他者の救済、自分が幸せになることではないんですね。この言葉はこの物語の核だと思います。賢治は「農民芸術綱要概論」で、「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福もまたあり得ない」といっています(ここでは幸福という言葉を使っています)。カムパネルラがなぜ、自分の身を犠牲にしてザネリをすくったのか。事故ではあり得ないでしょう。行為に対する当否の判断は別として、劇化するにはこれは避けてはいけない問題だと思います。なぜなら、それによって、多少自意識過剰で自己憐憫的なジョバンニが現実の中で生きていくための一つの力になったはずですので。語感だけの問題ではありません。そういう意味で、この台本は「銀河鉄道の夜」を読み切れていなかったか、誤読だろうと思います。
 せっかくシーンシーンのビジュアルの形象化能力が群を抜いていただけに惜しいというか、痛い。おでんの串がなければ、平面的なシーンの羅列になりショーに過ぎません。演劇として成立するには、厳しい。誠に残念です。もちろん、本質的部分をきちんとつかんで組み込めば、全国レベルになれるはずですので、今一度気合いを入れましょう。 
 以下、せっかく皆さんで創った作品ですので、この美しくストイックな物語をさらに深化させ再挑戦してもらいたいと思います。以下、そのための本質的部分に関するヒントを羅列しておきます。手がかりにしてみてください。
 ★みんなはなぜ嘘を言うのか。
 現実での主な登場人物はジョバンニの父について、それぞれが嘘を言いいます。母、カムパネルラ、カムパネルラのお父さん。ジョバンニ自身さえも。お父さんの存在について 真実を言うのはザネリたちです。これをいじめに歪曲してはならないと思います。
 ★カムパネルラはなぜ死んだのかというか、なぜ死ななければならなかったのか。
  カムパネルラはお母さんに対して「許してくださるだろうか」と思う。父ではない。賢治自身も家業がいやで父に対して反発していた。ジョバンニはもちろん、いわば、カムパネルラも父が不在だともいえる。その意味で、子の不在なってしまったカムパネルラのお父さんのありかたは再検討してよいと思います。もっと、もっと、切なくて、抑制的で孤独な存在のはずです。カムパネルラのお父さんは、死者であるカムパネルラの存在と今後対峙しなければならなくなるのですからね。現実に生きる人としてカムパネルラとの断絶を受け入れなければならない苦渋の言葉である。その重さの上に、ジョバンニの父についての嘘と、ジョバンニへの招待の言葉があるのだと思いますが、なぜジョバンニ対して明らかに嘘とわかることを言ったのでしょうか。単なる思いやりからでしょうか?
 ★結局、ジョバンニとカムパネルラの関係とは何だっただろうか
 別れなければならないことに対する考察と、生者と死者の断絶について 孤独と関係するがそれだけではない カムパネルラとの関係性とお互いの関係の齟齬について注意してみよう。どうも、 ジョバンニの一方的な関係性で成り立っていてそれが裏切られていく用にも思われる。結構、カムパネルラってジョバンニに距離おいてると思いません?
 ★石炭袋って何でしょうか。
 この意味が完全にスルーされてるのはまずいと思います。
 ★ほんとうのさいわい をどうとらえるか
 ★ジョバンニの孤独はどこからくるのか、また、最初と最後ではどう違うのか
 ★そうして、ジョバンニが持っていた切符て何だろう。なぜジョバンニはそれを持つことができただろうか。
 いずれも難問だと思いますが、あなた方の力でいろいろと考えてみてください。銀河鉄道の夜はなかなか魅力的でかつ、謎が多いテキストですので、プロの劇団や高校演劇の方でも様々な取り組みがされています。まあ、それだけ奥が深いので、いろいろな解釈や、アレンジが可能と言うことでやりがいがある作品です。実際高校演劇でも幾多の名作が生まれています。根本のおでんの串をしっかりと構築して、アニメ版の猫がやった銀河鉄道(これはテキストに忠実であるんですが、実によくできています)を超えるような再挑戦を期待します。 
 付け足し。装置が工夫されていて使い方もよかった。衣装も地味めの色調で抑制され見やすかったと思う。カムパネルラの衣装と髪型はおおっ、小公子という感じでカムパネルラらしさをよく表現していた。個人的にツボにはまったんで一票。役者の身体もおおむねよく訓練され力量があった。ジョバンニはちょっと強すぎかなぁ。あまりいじめられそうでなかった。

●高知高校 「トモナリ」

脚本に少し無理がある。二重の記憶喪失はちょっと都合が良すぎるというより苦しい。台詞の作りが全体的に説明的で、それがお芝居を薄くするし、ナレーションが入りすぎで、さらさらと流れてしまう。基本的に、ナレーションは「説明」であって、対話ではないので入れない方がよい。もっと、実際的な「事」を描く中で展開する工夫が必要だろう。事を描くエピソードが不足している。台詞が、きちんと言えていなかったところが多いので、余計にその弱点が浮き彫りになった感は否めない。表題の「トモナリ」=共鳴の概念と「黄昏時」の曖昧さ、二重性の関連をうまく表現できるエピソードを作る必要がある。それがないとこの芝居は成立しない。そのあたりを作ることができるかどうかが、このお芝居の成否の分かれ目だったと思う。
また、あがっていたのか、ちょっと、演技全体が萎縮してしまっている感があり、体も縮こまり、台詞もきちんと言えていなかった。台詞で運んでいくお芝居より、開き直ってまず、体をもっと動かすお芝居をやった方が、役者の訓練になると思う。台詞をいかにうまく言うかより、身体をいかに解放するかをまず課題として選んだ方がよいと思います。その方がやってて気持ちもいいし、舞台の上でリラックスすることを体感的に感じやすいはず。(いわゆる身体の解放とは少し違うけど、少なくても舞台があまり怖くなくなるはず。萎縮から解放されます。)まずは、もっと暴れまくるお芝居をしてみて下さい。絶対次のステップが見えてくるはずです。

●土佐「かえるハイツ」

 コンパクトな作品で、さらさらと楽しめました。ですが、逆に類型的な面もあり先が読めるのがちょっとなあ。こういう流れは高校演劇ではあまりにもありがちなんで、その予測を裏切る努力をしましょう。そうでないと、ああねーで終わります。その意味でちょっと公式的な展開でした。
 配分バランスがちょっといびつ。前半、送り出すパーティーが始まる前ぐたぐだしすぎてと、パーティーの時間がながすぎるかな。伏線になる部分をちょいちょい入れているのはわかるけれど、核心部分の送られたあとの三人になった部分がちょとせわしないというか弱すぎる。はじめてそこで問題が提出され、対立が生まれ1人が飛び出していくのだが、解決するのにのこった2人のトークだけであっさりと解決するディスカッションドラマになってしまっている。ここはむしろ、思い切って、送り出さすパーティーの最後のあたりからハイテンションではじめ、宴の後の虚脱した空気の中でもやもやした問題と対立が鮮明になる所から始めたが劇的かも知れない。うまくいくかどうかはわからないけれど。かつての「マリンちゃんの・・・」ではないが、不在のひとをめぐってというドラマは結構魅力的です。ただ、そのためには、不在の人の人物像を明確にすることと、その人をめぐって、現在いる人の関係性のごたごたをしっかりえがくことと、やがてそれが解決するための外部からの何らかの事件が起こる必要があって結構難しいですが、それでもなお、シチュエーションとしては、かなり魅力的なお芝居になると思います。是非、挑戦を。
 装置は疑問です。平台そのまま出して、居間と廊下を表現するのは痛い。せめて蹴込みをつけましょう。平台は単なる道具です。まして、背景が具体的な壁ですからして。具体と抽象みたいなものが混在してはよっぽどの場合困ります。また、美術に関係させるのならその必然性をもっと。いまのままでは、単に絵を出したかっただけでないのと言う疑いが生じます。
●山田「鎖絡む少女」

 ライトノベル風ホラーファンタジーという趣き。まあ、こういうシチュエーションは嫌いではないというか好きな方なんですが、物語として組み込むには結構力業がいるんで、どう料理するかな思ってみていました。結論的に言うと、ちょっと組み込み方が粗雑でしたね。まあ、45分で料理するには正直難しいところです。
 伝説はなかなか素材としておもしろいけれどそれによりかかりすぎて処理が混乱しています。ファンタジーは、特に、時空を越える場合、観客に二つの世界の関係が混乱することなく理解させることが必要なので、同時に二つの世界を結びつける絶対的な必然を構築することが要求されます。世界が二つ、似通った名前が二組と結構複雑に絡むはずなのでもっと厳密に構築しなければわかりづらい。ちょっと混乱しました。
物語の核になる「七殺し」はお芝居の核の一つだから、何が何でも舞台に形象化する必要がある。説明の長台詞だけでは観客がイメージを作れないし、舞台が豊かにならない。観客の想像力を広げるためにももっと工夫が必要です。逆に言うと、ここをきちんとやっていれば全体の構造が明確になりわかりやすくなります。
 関連して、いつの時代かということも見た限りではわかりづらかった。おばあちゃんの霊が療養中の孫娘に乗り移ったというのだから、それほど古くないんで、30年ぐらい前としたら、昭和末期となり、いくら何でもそんな時代に七殺しはないだろうし、というか、状況的に成立させるのはかなりキビシイ。もしあるとすれば、よほどきちんと特殊条件を与えて世界を構築しないとまずい たとえば言葉遣い、あれでは時代が古すぎる、というか、何世代も前の霊が複合してついているとするならわかるがそれはそれでむちゃくちゃわかりづらいし表現として成立してない。全体的に核になる着想としてはおもしろいけれど、それを具体化する過程でもう少し論理的に組み立てる必要があります。これは、他の学校のお芝居にもいえること。着想におぼれてはいけません。世界観を構築をもっと丁寧にやり、提示する方法をきちんと順序だててやっていきましょう。作っている方はわかっているつもりでも所見の人がわかるとは限りません。お話の構造が複雑になればなるほど細心の注意が必要となることを忘れないでください。一番よいのは友達でも誰でもよいですから、関係者以外の人に一度見てもらうことですね。
 装置、衣装、小道具もその意味で混乱の種になっています。時代の味をうまく出して伝奇風味を増したいところですが、装置でバーに幕を下ろしているので興をそがれました。鉄の棒がリアルに見えてしまうのは苦しいし、見立てとしてはあまり機能していません。別のものにする必要があるでしょう。着物で素足というのは、一つの世界ではいいかもしれないが、別の世界でははてな?になります。まあ、幽霊的なものが素足というのはよくつかられている手ですが、昔の時代でやっているときは当然本人は生きているので素足は?となります。昔風の言い方も結構いい加減で時代のにおいが出ていません。台詞自体をもう少し考えねばならないでしょう。語尾の言い方とか、昔の人間としてしゃべっているはずなのに明らかに現代の言葉や概念が入っているとか、よく考えれば不自然な台詞がいろいろ入っています。細心の注意を払ってかき分けること。鳩笛(オカリナ)はもっと練習してからね。吹くならきちんと吹きましょう。見ていてはらはらします。
 提出された台本を見ますと、ト書きが「暗転」としかありません。最小限、人の出入りは書いておいてください。台本は自分たちのためだけにあるのではないことを頭に入れておきましょう。場面が明らかに変わっているのに、ト書きがなくて台詞が連続しているので、台本読んだだけでは舞台の状態がイメージできません。ごちゃごちゃ説明的なト書きは不要ですが、場面の転換や状態がわかるようにすることは必要です。次回からはト書きにも注意を払ってください。
 創作脚本を書いて、自分たちでやるんだという熱意は大いに買います。ただ、ほんの少し、技術的プラスアルファがあればもっとずっとよい舞台になったはずです。着想がおもしろいだけにもったいないですね。顧問の先生とよく相談して大人の知恵を借りてみてください。舞台のイロハが不足しているところが足を引っ張ってしまっています。顧問の先生の手に負えなければ事務局に相談したらアドバイスの方法など考えてくれるはずです。いろいろ知恵を借りるとまた、ひとつ違う舞台が見えてくるはずです。がんばってください。

●高知学芸「楽しい歓迎会」

 昨年のほのぼのとしてお芝居を思い出させた好感が持てる舞台だった。題材が将棋でちょっと異色で目のつけどころがいいなと感心。普通なら演劇部という設定だろうけどそうでないのがよろしい。部活の新入生と転校を絡め、たった一人の部長兼部員と、たった一人の見学生の新入部員歓迎会というシンプルな構図で結構おもしろく見させた。
 構造は、遊び+ちょっといい話のパターン。シンプルで、深刻なテーマ性とか内容的な深みというものとはそれほど縁がないので、舞台として成立させるには、いかに遊ぶかというところがポイントだろう。遊ぶネタと役者の技量が大事になる。
 最初は一人遊び。部長の一人芝居のシーンはちょっと長くて苦しい場面もあった。もう少しテンポよくやらないとちょっとうっとうしいし、いらいらして部員を待つ気分を台詞なしでもう少しやってもらいたいところ。しかし、一人遊びのくだらなさが割合よく出ていた。
 見学生が登場して二人遊びが始まり、やっと芝居が始まったかなという感じ。
 以下二人のくだらない会話がはじまる。5・7・5の会話ネタは、どうせなら、見学生も思わずそれで返してほしいところ。会話のキャッチボールが割とよくできているのでそれほど退屈はしなかったが、将棋ネタまでが長くてバランスが悪い。将棋ネタのばかばかしさは買うけれど、順次進めていくので、少し単調となる感がある。まあ、遊び部分で時間を稼いで、まとめでしんみりさせる構造なので仕方ないといえば仕方がないが。遊びだけでなくて別の要素の会話を適宜挟み込むという構造も伏線として使えば単調にならずに効果的だあると思うのだが。その他早口でいうところはもっとスピードがほしい。殺陣の動きはもっと俊敏に。
 ラストのしんみり場面で見学生の事情が明らかになるのだが、作り方としては説明的。もう一工夫ほしいところ。一日だけの部員という結末でちょっといい話になる部分は、それまでとの違和感が少しあるが、まあ許容範囲か。
 コンパクトで、肩のこらないほのぼのとした舞台を作り上げていたと思う。遊びネタをもっと厳しく吟味していたら、さらにスピード感があり楽しめたはず。ともあれ、祭を楽しむにふさわしい舞台であったが、欲を言えば、この持ち味を生かす、もう少し深い内容を持つ台本に巡り会えれば、と思う。そうすれば必ず次のステップへいくことができるはずで、また違う風景を見ることが必ずできる。そういう能力を持っている学校だと思った。
●土佐女子「フィナーレ」

 オープニング、意表を突いた多人数のサーカスのカラフルなフィナーレシーン。終わりから始まるセンスがよくて、ちょっとわくわくして見始めた。
 最初はレイ・ブラッドベリの名作SF「何かが道をやってくる」を連想したが、まもなく、そうではなく、二つの世界のお話だということが明らかになる。「ここにいる連中は、みんなサーカスの外の世界は知らないんだ」「外の世界って」「お嬢さんのいる世界さ」。という台詞でこの世界の構造をいきなりばらしてしまっている。うーむ。まあ外の世界にでたくてみんな練習しているっていう設定だから仕方ないかもしれないが、怪しい雰囲気のレベルが落ちてしまい、勘のいい人は見えてしまう。ああ、もったいない。現実のサーカスの中に紛れ込ませた方が格段に面白くなるのに。力業はいるけど、悪夢のような雰囲気を出すには、一つの世界で現実のサーカスの方にしてもらいたかったという、これは無責任な観客の独り言。
 結局、主人公の内面世界(サーカス)でのできごとというまあよくあるパターンになり。いかに現実に帰還するのか(あるいはしないのか)かを見せることとなる。で、そのためのキーとして、謎の団長の存在と、そも、このサーカスはなんなんだということを設定している。主人公(裸足であることに注意)を導いていく存在として、ピエロや猛獣使いがあり、これらの案内でサーカスの世界を探検しながら、主人公はその謎を解いていくという、ロールプレイングゲーム的な仕組みである。
 話の展開とともに、猛獣使いをはじめ様々な団員が出てきて道案内?をしていくのだが猛獣使いは、このサーカスの世界(主人公の幻想の内面世界)の終末を目指す存在として位置づけられており、ピエロはこの世界に安住する存在として対極的に位置づけられている。当然、話の成り行きはこの二人の導き手の間をさまよいながら、主人公が何を見つけていくのかが問題となるのだが、肝心の主人公の抱える現実の問題が今ひとつ不明瞭なので、話が微妙に曖昧でパワーが弱くなる。母と叔母と主人公の関係が、何を基底にしてねじれているのかがわかりづらい。
 世界の構造は「そういう設定だ」とか、誰も見たことはない団長の「楽屋へ行くには、幾つもの重い扉を開けなければならない」という、RPG的な台詞でもわかるように、誰かがこの世界を作ったということが暗示というより明示されるが、説明的でちょっと疑問。仕方ないことかもしれないが猛獣使いの台詞がかなり主人公の置かれた立場を説明しすぎている。ピエロもしかり。語られていることは物語の核心。むしろ形象化の努力で解消すべきです。説明台詞は便利だけど、演劇にはほど遠い。誘惑に負けないようにたとえばおばさんとの葛藤の台詞は、できるだけ具体的な事象に基づく台詞の組み立てを考えないと、抽象的な台詞の組み立てでは説明になってしまいます。これも、核心の一つだからきちんと組み立てなければならない。これは、他校の創作にもいえます。説明しすぎるとそれだけでアウトと思ってください 
 一番やばいのは、猛獣使いの「分厚いカーテンの向こうの団長は彼女自身だ」。それは、本当は主人公自身が直面し、認識することでしょう。そのためのお芝居ですから。これでこのお芝居は壊れてしまいます。ここは、絶対いってはいけないこと。主人公自身の主体的な認識なくしてこのお芝居は成立し得ないはずです。その上で初めて、主人公はこのサーカスを閉じることができる。それが、物語の中で成長し、変化することということです。人に言われてああそうですかでは意味がありません。
 細かいことをいえば、団長の存在はむしろ、黒子を使いシルエットでもいいから、装置の幕の隙間を顔を見せないように通過させるとか、一種のだましですが、そういうテクを使ってもいいんではと思います。主人公の世界というのはラスト近くまで徹底的に隠した方がよい。また、サーカスの団員には全員とはいえませんが一人一芸ほしいところですね。ちょっとバラエティーが乏しいのが残念。ライオンを実際に出せとまではいいませんが。ラストにもう一度別の意味合いの本当のフィナーレ、サーカスの終焉シーがあってもよいかな、それでこそ、本当に現実に生きることができる明確なメッセージですから。また、幻想世界を脱出するときに、サーカスの団員たちが都合よくころっと主人公の味方をするというあたりは考え物ですね。
 全体的の構造的な弱点、二つの世界の論理と課題が明確でなかったこと。進行が説明的台詞に寄りかかっていたことが、せっかくのオープニングでの期待を裏切ることとなり、着想が面白いだけに、もったいないことでした。役者も結構訓練されていて、お芝居になれているのがわかるだけにまことに惜しいと思います。全体的な視点でコントロールできる目を育てる必要があります。それは、何も難しいことではなくて、あれっ?と思うことを、お芝居の製作が進行している途中でも出してくれる他者を構えることですね。友達でもいいですから。やってる本人たちはこれが正しいんだと思い込んでるから、案外欠陥には気づきません。

●高知東「クロスロード」

 急遽代役ということで、台本持ちながらの役者と、もともと男子高校生のお話(作者は高校演劇の大御所。台本はよくできています。)を女の子がやるということでどうなることかと、見ていましたが、結論的にいうと、意外に見やすく、健闘していました。うれしい誤算ですね。
 代役は台本をもって読む、いわばプロンプみたいな役柄として、最初はあれっと思ったが、そのうち黒子的存在となり、気にならなくなった。背景に溶け込んで、いわば、残りの役者でお芝居を組み立てている感じで意外と心地よい。
 なぜ、そういう感じがしたか。それは、結局役者たちが、会話をしていたからだろうと思います。もちろん、最初の方はだめだめで、体も硬く台詞も小さく萎縮していましたが、そのうちに役者が元気になり、舞台に適応し始め、そのあたりから、見る方もリラックスして見始めることとなりました。これは、たぶん舞台に立つことによる、ちからだろうなあと見ていて思います。最後の方になるに従って、役者がリラックスしてきて、棒立ちや、台詞の下手さ加減もなんのその、自分たちのお芝居を構築していくところが、結構感動的でした。もちろん、技術的な面でみれば、まだまだ課題はおおいけれど、それでもなお、お芝居をするという初心がきちんと感じられ、かつ舞台の中で成長していくのが感じれるのがうれしかったです。当然台本のうまさにも助けられていましたが、それ以上に、役者たちの台詞の確かさや、自然さがでてくる力が向上していくのがみられ、ラストシーンはなかなかよかったですよ。
 次回は、やはり、女の子が普通にできるお芝居をやってみたほうがよいでしょう。男子高校生にしてはちょっとかわいすぎる声と身体ですから、あまり気にはならないといってもちょっとその面無理がありました。また、台詞に頼るお芝居よりは、からだを使うお芝居を一度やってみたらよいでしょう。台詞中心のお芝居はその後にした方が、たぶんうまくいくと思います。あと、稽古の時、できれば、客席をもうけ、友達でも引っ張ってきて練習を見てもらうと格段に違うと思います。他者の目、すなわち観客を意識することを体で覚えることはこの学校の場合、かなり有効だと思います。

●土佐塾「鎖をひきちぎれ」

 何となく面白いといえば面白いといえる舞台だった。奥歯にものを挟んだような言い方をするのは、なぜこの脚本を選んだのかなという疑問を感じたからだ。もちろん共感したからだろうが、それにしてもねという感がある。どういうことか説明します。
 自由と束縛をテーマにしたお芝居とみることができるのだが、結末を見ると何か違和感のあるちょっと苦い終わり方です。それだけ、自由にあり続けるのは困難なことだといいたいのかもしれませんが、表題とのズレを感じ、少し後味が悪く感じました。
 それはさておき、お話は愛玩動物である登場人物(?)たちが、死後墓石に鎖に縛り付けられ自由に動けないシチュエーションから始まります。鎖も墓石も形象としては少し不十分かな。飼い主のある意味のエゴの象徴として、まさに絆の本来の意味として、飼い主と愛玩動物との間の関係を明確にするためにも、もう少し大きく大仰であったほうがよいかもしれない。微妙なところだが。墓石はでかく豪華に、鎖、ごっついとてもひきちぎれないようなものがほしいところです。
 犬と小鳥はそれぞれ飼い主に反抗(反逆)して、生前の絆=鎖を引きちぎり結果死ぬ羽目になったのだが、死してもなお、墓石に鎖で縛り付けられている。そうして、それから脱出して自由に死んで生きていくことを目指す。このあたり長台詞で死んだ事情を語るのだが、当然説明的台詞になってしまう。観客に情報伝えるには便利だけど、工夫が必要ですね。やがて、協力してそれに成功するのだが(ちなみにその過程はちょっと安っぽいんで逆に笑いを誘う。)、物語の根幹はそれ以後にある。
 カメは自分でえさをとらなければならないことを知り、小鳥は飼い主の悲しい表情に動揺し、犬は飼い主がとった新聞記事をみて激しく後悔する。
 見てて、なんなんだこの展開はと正直思いました。簡単に後悔するなら死ぬなよっていうところ。そうなれば当然後の展開は早く、墓石は元に戻される。「愛されてたっていう、記憶があればそれで十分よ」の台詞と大団円。ちょっと、待て、ふざけるなと思う。それじゃ鎖を引きちぎりたくない、絆を失いたくないっていうことかい。絆は対等の関係においてのみ現代的意味を持つ。自由とはそういうものだろう。飼い主と愛玩動物はお互い自由で対等の関係であろうか。それは、飼い主、人間の幻想でしかあるまい。それでなくて、なぜ高知県が猫の処分日本一なのか。決して対等の関係ではなく、あくまでも主人と奴隷(といったら言い過ぎかもしれないが)の関係においての「愛された記憶」でしかあるまい。
 基本的に、自由と束縛を、愛されているかいないかという別次元の問題にずらしてごまかしてしまったことが原因で(もっとも、愛するということは時に束縛に転じる。彼氏、彼女が妙に干渉してくることありませんか?それは、愛ではなく「所有欲」です。私の持ち物っていうとこね。)、脚本の中には、自由と束縛についてきちんと考察した跡が見られない。ここで最終的に示されたのは、「奴隷の自由」といって、本来的な自由な生き方とは縁もゆかりもないでしょう。もっとも、最近、こうした人間がかなり増えてきているのは事実で、こんな自由を自由と勘違いするのが多い。それを踏まえて書いたならかなりきつい皮肉な作品といってもいい。しかし、どうもそうでもなさそうだ。動物でなくてこれを人間関係に当てはめれば、どうなるか。かなりいや~な状態でしょう?この自由に感動した人はもう一度よく考えてみてください。あなたの自由を。
 率直に言って、このお芝居をやるのであれば、墓石を元に戻すあたりから、もっともっと考察を続け改稿していく必要がありましょう。最低、「愛」でごまかすのはカットです。そうして、自由と束縛、解放、その後のことを人間のことに戻してみんなで考えてみてください。そうすればまた違った方向が出てくると思います。
 なぜ、この脚本をやることにしたのかはわかりませんが、一生懸命やっていて、頑張っていた分痛いですね。ネット台本だと思うのですが、はっきり言いまして、ネット台本のかなりの部分はゴミです。人数や着想のおもしろさ、場面のおもしろさに飛びつくと後で痛い目に遭います。それでもやったという満足感は得られますが、もったいないことです。他の学校にも当てはまりますので、せっかくやるならば、脚本選択の際のチェックポイントをまとめて後述しておきます。やばい脚本を選ばないための参考にしてください。なんせ、「これは、脚本がだめですね」で落選したとこがありますから。いい脚本を選べばそれだけでかなりのポイントを稼ぎます。

●岡豊「りんく・りんく・りんぐ」

 劇中劇が入っている入れ子構造タイプのお芝居。お芝居の稽古中の演劇部という設定。こういうのやるのは役者に対して結構面倒くさいレベル設定の要求が必要になる。1.劇中劇をやっている時の劇中劇をやっている役者としての演技。2,現実のたとえばこの場合は演劇部の稽古だが、その演劇部の現実として素の生徒としての演技。の使い分けというか位相の差が出てこないと面白くない。有り体に言えば、劇中劇の演技と、演劇部の生徒としての演技の違いというか差が明確に観客にわかるようにしないとまずい。まして、この劇中劇はお芝居の中の現実部分とそれほど変わりはない内容だから、見ている観客が混乱しないようにきちんと演じ分けなければならないのだが、正直、それができていたかというと、ちょっと疑問。劇中劇がたとえば他校のようなロミオとジュリエットとかいう舞台の中の現実と全く違う異質のものであれば、演じ分けが、比較的やりやすくはなるのだが。回想形式の劇中劇とは違うときにはよほど注意して、演技と演出に気をつけなければならない。その場合、二つの演技は 決して等質のものであってはいけないからである。
 その意味で、この台本は結構、役者にとってしんどいものとなっている。同じシーン、あるいは似通ったシーンが繰り返され、先に進まないのもさらにその困難性を増す。二つの演劇の差異が明確でなく、結局同じ演技で通すものだから観客は結局のところ混乱してしまう。登場人物の脚本担当が抱える問題をもっとスピーディーにかつ深めることがされていたら、あるいは違ったかもしれない。繰り返しは一つのテクニックではあるが、そのことが、どちらかというと、退屈と混乱を呼び起こしてしまっている。もう少し、劇中劇の場面を少なくして、整理することが必要だろう。その方が、脚本担当が抱える問題を進化させることがやりやすくなるはずだ。まあ、延々と繰り返されて、先に進めないというのはそれはそれでありだろうが、繰り返すほどの内容とは思えないし、問題もなんか薄っぺらになってしまう。たとえば修羅場の場面は、これから広がるぞという時に、あっさり収束してしまい肩すかしを受ける。みんないい人ばっかりやー。でも、それじゃお芝居としてまとめようとする意識が見えすぎて興ざめちょっと中途半端になります。お芝居の本体はここからではないですか。全部破壊してもいいんではと思う、破壊されつくした後、それでも脚本担当は生きていかねばならず、明日を迎えねばならないわけです。メールしてる場合じゃありません。現実ハッピーエンドに終わることはあまりなく、むしろアンハッピーエンドの中でいかに生きるかということを表現するのがお芝居だと思うんですが、いかがでしょうか。
 気になったこと。装置的に、机などの配置がむしろ邪魔で動きが制限されているし、見づらい。これは要検討。まあ、劇中劇の場面で使うのだが、数を減らしてもそれほど問題はないし、フリースペースが増えるので、演技的にもいろいろと変化が出しやすいはず。装置は基本的に演技の物理的空間を制限する働きがあるのでもっと計算する必要がある。

●高知丸の内「明日二人だけのロミ&ジュリを」

 前校と同じ劇中劇を仕込んだお芝居。ただ、前校と違って劇中劇が「ロミオとジュリエット」なので、混乱する心配はない。
 幕開けで舞台道具で組み立てた大きなセットがあり、ちょっと存在感がつよすぎるなと思った。役者二人だけなので、なかなかセットの存在を上回るには力業がいるのだが、やはり今ひとつ苦戦していたようだ。道具をそのままつかうのはこの場合は、稽古中ということなのでOK。劇中劇の進行とともに、二人の関係がだんだんと明らかになっていくのだが、劇中劇を除いてしまえば、実はそれほどたいした問題は起こらない。ラストで二人の関係を劇中劇に引っかけて改変した台詞でお互いの思いを確認するというだけのお芝居といっては身もふたもないが、この現実の問題をもっと展開しなければ、「ロミオとジュリエット」に寄りかかっただけのお芝居になってしまう。別の劇中劇でやってもそれほど問題ではないというのは、作劇上弱くなってしまう。そういう意味で台本的に薄い。
 役者の台詞は、やはり「ロミオとジュリエット」の部分で弱い。お遊びの京都弁風バージョンの部分等はそれなりに生き生きとしているが、本格的な場面では、台詞に負けている。脚本的に、「ロミオとジュリエット」部分が長すぎるせいもあり、これをきちんと見せるには、またまだかなり精進する必要があるだろう。またそこをしっかりとやりきらなければ、現実の部分とのギャップがあらわになり苦しい。というか、もともと脚本の構造自体が、現実部分との関係が弱く(演劇部が上演する。恋愛。という要素は入っていますが、それだけでは・・・)、二つの世界が乖離しているだけに、ラスト部分の二つの世界の強引な結びつけだけでは、正直やりにくいものがあったと思います。本当は各部分部分できちんと、「ロミオとジュリエット」の進行と現実の進行がシンクロナイズしないといけないのですが、そこまではできていないので、役者にかかる負担が大きくなりました。
 幕切れはセンスよくできていた。台詞が入ったのはOK。幕切れにふさわしい処理だと思います。台本の処理補を超えていました。こういう感覚が必要なんですね。いい仕事してました。
 今後の課題として、役者の技量を上げることはもちろんだが、まずは、表面的なおもしろさに惑わされることなく、自分たちの問題と正面からぶつかってくれる脚本を選ぶなり、自分たちで作るなりすることが大事だろうと思います。まあ、たぶん、ロミオとジュリエットやりたかったというのが正直なところだと思いますが、それならそれでもう少しやり方があるはずで、中身ももっと濃くなって、この学校の持っている味をよりよく出せるはずです。幕切れなんか見ると台本超えてて、演劇的処理のセンス結構あると思いますので、頑張ってくださいね。
●高知南「贅沢な骨」

 ライトノベル風展開の、二つの世界ものというところでしょうか。前回と同じく脚本的に欲張りすぎたかな。整理しきれていません。まあこれでもかという気合いはわかるのですが、制限時間でやれることは何かというあたりの計算が狂っていたのと、行き抜けてしまう決心がついていないのでちょっと中途半端になってしまっていました。行き抜けたらおもしろいのになあ。
 記憶か吹っ飛んで煮詰まっている作家の、記憶をよみがえらせる怪しい機械を臆面もなく持ち出すところが、面白いというか、笑ってしまう。何ともご都合主義なんだが、堂々と出しているので愛嬌がある。うまくやれば、ドタバタのコメディーになるのだが、なり損ねた。こういうのは、もう一つの世界をきまじめにやるのではなく、どうせ怪しい機械だから、無茶苦茶な方が効果があるし面白い。初期不良の見本みたいなエラーがばりばり出てきて、作家の現実と、もう一つの記憶の世界がいり乱れ、ごっちゃごちゃになって訳わからんようになって、登場人物一同、ほとんど阿波踊り状態になっていくお話にしたら、ものすごいものができたと思う。かなり綿密な計算と仕掛けが必要にはなるが。
 二つの世界の関係と移動の手段、動機は怪しい機械を媒介にして明示されている(このインチキさが結構いいですね。もっとインチキにしてもよかったなあ。)。 で、その頭の中の世界では、また、天使と自称する怪しげな存在が現れお話が進んでいくのだけれど、この世界が実質芝居の本体であるだけに、きちんと作る必要がある。その点でちょっと整理し切れていない面があった。詰め込みすぎかな。
 時代は明治。ちなみに時代考証が微妙におかしい。まあ、いい加減な作家の脳内の幻想ということでとりあえず目をつぶるが、男の着物で着物の着方全く正反対に着ている人がいた。どちらが正解か後でチェックをしてください。ちなみに男の帯は腰で着ること。あれじゃ胸だかで、女の人の着方になってしまう。
 死んだ想い人(古風な言い方ですね)に会うために飛行機を作ろうと設計している男(しかし、飛行機でどうやったら天国へ行けるのだろうか。素朴な疑問です)、やはり、想い人に会うために天国から落ちてきた天使、うーむ、ライトノベルでは有りだろう設定だけれど、何だかなあ、それに絡む飛行機の設計図を奪おうとする明治政府の悪徳(?)官僚つうか軍人、その走狗にされ、心ならずも、親友を裏切る親友。脅迫の道具に使われたフシン病(この物語を動かすエンジンの一つだけど、ちょっと都合がよすぎる)。やがて物語は破局を迎える。いやー、てんこ盛りです。
 欲張りすぎですね、45分でやるには場面が多くてストーリーを追っかけるだけになり、シーンが断片的である分、台詞が説明に流れ、暗転の多用で話がぶち切れる。もっと整理しましょう。さもなくば、スプラスティックなドタバタにした方がよい。話の本体は飛行機を作ろうとした男が、設計図を国に奪われ、取り返そうとして死ぬ。それに、作る動機や、邪魔をする要素や、裏切り、恋愛未満を配置している訳です。もう少しシンプルに作った方がわかりやすいと思う、少なくとも、暗転が最小限にすみ、無理な暗転のないように話の構成を考える必要があろう(処理ミスがありました)。また、都合のいい設定は幾つも使ってはいけません。せめて一つだけにした方がよろしかろう。
 で、現実への帰還。そこで物語上の登場人物が現れて、アドバイスして去って行く。なんか昔フレドリック・ブラウンのSFにこんな感じのがあったと思うが、ここの処理は面白いし、これをもっと全体的にうまく使ったらよいのにと感じた。単純な入れ子でない方が、どうせこの場面も作家の妄想で有るわけだから、複雑な入れ子にした方が混乱するけど、作品としてはグレードが上がるはずだ。最後、飛行機の音、プロペラ機の音の方がよいなあ。ジェット機じゃ意味が出てこない。
 役者は、もう少し会話をきちんとした方がよい、そのためにも台詞の意味をもう少し理解しておくこと。そのあたりがちょっと雑いかな。暗転が多かったせいもあるが出捌けには細心の注意を。観客の目に触れている間はきっちりと演技をしましょう。転換へ注意がいってしまい、演技をやめているときがありました。歩くのと移動は違います。

●宿毛「令嬢メイド・御堂河内アンナ」

 コミックというか、コントというか。脚本の構造とかいうのは野暮というものというお芝居。このタイプは、キャラクターのデフォルメ度と、活きのいいテンポ、間の適切な取り方、会話の的確なキャッチボールがなければ、死んだ鯖の目のようにまったりしてしまうし、ギャグも生きない。観客を楽しませるには、実は意外と高度なテクニックが要求される。
 そういう意味で、少し、スピード感と切れが不足していた。アンナの凶悪度ももっとあってよい。傲慢さをフルに出してこそのこのお芝居であろう。強盗役の腰の引け方はなかなかによかった。演技なのか素なのかはちょっとわからないが、舞台の形象化としてはよくできていたと思う。店長のとぼけた味はもう少しほしいところ。ピントのずれた葵はもっとキャピキャピに。脇のボケがきっちりできないとこの脚本が生きない。あざといくらいの対照的なキャラ作りを突き詰めた方がよい。深遠な意味も何もないのだから、いかに軽やかに疾走するかがこのお芝居のポイントだから。自分たちで考えたであろうギャグも結構笑えたから、よけいそうした点をきっちり考えた方がいい。遠慮したらいけません。もう、とにかく徹底的に行くべきです。そんなあほなと言うぐらいがちょうどよいことを覚えておいてください。所詮、舞台の虚構ですから。
 空間的にもう少し狭めた方が密度とテンションが高くなる。演技に比べて空間が広すぎ、拡散してしまい、スピード感がなくなってしまった。少しの工夫で全然違った感じになります。このお芝居にどのくらいの空間が適切なのかを計算しましょう。与えられた空間でそのままやる必要は全くありません。おそらく、教室の半分くらいの空間でやるともっともっと面白くなるはず。併せて装置はちょっとしょぼいなあ。遠隔地から運ぶのは予算の関係で厳しいので、現地調達できる抽象的な装置の方がよかったかも。舞台道具をうまく使って無組み立てて、カバー掛けるなどしたら、むしろ、よかったかもしれない。まあ、遠隔地のハンディをどう乗り越えるかは工夫次第で何とかなりますから、県大会の時は頑張ってください。
以下、細かい点のダメ出しをアトランダムに。以後の参考にしてください。
全体的に台詞のしゃべり方が遅い。もっと、ぱんぱんいかないと。まったりとした間がありすぎます。もっと、切り詰めていきましょう。アンナ登場、もっと高ビーで高圧的方がいい。高慢というか、傲慢さを出しましょう。それが、このお芝居を支配する最も大事な要件です。まだちょっと弱い。台詞ではなく、態度、動き、雰囲気。演技力の試されるところ。台詞ももっと歯切れよくして、作り込みましょう。立ち方がまだ弱い。えっらそーに立てていませんでした。体の芯がまだきちんとできていません。頑張ってください。
 ハプニングというか、事故が意外に面白く意図しない効果があった。演劇ってこういうことがあるんですね。でも、これはたまたまなので段取りはきちんとしましょう。
 動きの切れが悪いのでその面も損をしている。身体的に鍛えて、キレのいい動きを目指しましょう。日常の身体訓練が大切、運動部の顧問に相談してもよいですよ。バスケ部やあるいは空手、剣道などの武道系などはおすすめです。体をきちんと立てることと瞬発力、変化の動きなどを鍛えるトレーニングメニューをしてみてください。その中で発声すればまた違う風景が見えます。
 今の段階は、とにかく舞台に立ちましたというところなので、これを契機に、それぞれの能力を鍛え、よい脚本を選ぶのが今後の課題です。頑張ってください。

●高岡「王女様のいるところ」

 一人芝居。頑張っておりました。危惧しましたが意外に見させた。一人芝居の難しいところは、目に見えない他の登場人物との会話のキャッチボールを、観客にうまく見せることで、間合いと視線の工夫がいる。幻の登場人物との距離感も見せなければならない。その点では、まだ一工夫と修練が必要ではある。脚本自体がストーリー解説や説明台詞的要素がどうしても多くなるので、余計にその努力が必要になる。それを考えると健闘していた方だと思います。
 最初はわからないがやがて二つの世界というか、おそらく認知症の登場人物(おばあさん)の妄想の世界であることがわかる。おそらく実際は看護婦であろうと思われる従者との会話から、王女の成育史がゆがんだ形で語られる。それは、彼女の人生が夢をあきらめというか奪われたものであったことを暗示している。難破して島に流れたついたという王女というフィクションの中に、歌、あるいは後半の語りの中でそれは切れ切れに語られる。王女という妄想のキャラクターの表現と、実人生を語る表現がもう少しきちんと使い分けられていたら、全体の骨格がしっかりしてきたと思う。まあ、かなり難儀な作業であり、成功していたとはいえないが、努力の跡はうかがわれた。
 歩くスピードや、角度、視線の変化、間、すべてに気配りながら、決して観客に向けて語ってはいけない制約の中、一人で演じきるには、客観性が必要だが、それを獲得するのはなかなか難しい。一番簡単な方法は他者にきちんと見てもらうことだろう。どういう稽古をしたかわからないけれど、一人芝居をやるときは、鏡としての観察者を用意する方がよい。人は直接自分の背中を見ることができないのだから。難しければ、稽古のビデオ録画するとか。結構、何がいけないかがわかります。
 装置は、台本の内容を効果的に表現するとは言いがたかった。現実には病室での出来事なのだから(最後は抜け出すのだけれど)、ベッドを暗示するような装置が用意できなかっただろうか。海岸の岩にも、ベッドにも見える抽象的なものでよい。空間ももっと狭めて、全体の密度を上げること。役者の演技の密度と空間の密度をもっとシンクロさせれば、さらによくなると思う。役者的には、もう少し身体を訓練した方が台詞に負けないと思います。きちんと立てること。できそうでなかなかできないんで。幻想といえ王女役としてはりんとして立てることは必要です。まして、その正体は現実にはということになりますと。台詞回しだけでは表現できない存在感を出す必要がこのお芝居にはありますから。
 ともあれ、一人で演じ切る満足感は大変大きいものがあったと思います。お疲れ様でした。

●春野「しあわせな男」

 安定した舞台だった。肩の力もほどよく抜けていて、最初はちょっと力が入っていた登場人物も進むにつれ舞台の中で自然に生き始めていたと思う。
 元々かなり長い脚本をほとんど半分くらいの時間にカットした努力はなかなかに大変だったと思う。それほど破綻もなくうまくきちんとお芝居として成立する脚本にカットできたのはたいしたものです。
 別役テイストの、「家族」を巡る不条理劇と言ってよい。リアルな家族が解体したそれぞれの登場人物が巡り会い、「ドア」をキーにして(ウチとソトを分離し、家族を創る機能として着目している)、一つの疑似家族を形成し、やがてまたそれが無残に崩壊していき、残されるのは男の死体とすべてを吹き飛ばしていく風。疑似家族の形成のあたりがなかなか面白かったが、以降の展開がある程度見えてしまうのはちょっと残念。それぞれの家族を待つ人たちが、せっせと家族を作ろうとする男ととともに、ドアを媒介に家族装置を作り、やがて現れるであろうそれぞれの家族を待つ。一種のゴドー待ち?ただし、きちんと待っていることを表現し切れていたかというとちょっと疑問。「生きる実感」とも絡むだけにここらあたりはもう少し詰めねばならない。それぞれ待つ人の告白ごっことなって、いくらエピソードを集めても質は深くならないのでダメだが、ここらあたりの展開は脚本の問題。
 結局、家族を手に入れようとした何の関係もない男は、何らかの関係になることを求める。「思い出」を語ることにより、「古き良き家族」の幻想を固めていくが、「風」が吹いて壊されていく。結果、みんなにすべての関係を拒否されてしまう。家族は再び解体されたのだが、それに気づかない男は、幸福感を抱いたまま毒殺されてしまう。ある意味ゴドーは帰ってきたのだろうが、帰り着いたのはただ風が吹き渡る空っぽな場所だった。
 役者たちは年代設定が類型化された演技を(これは脚本のちょっと都合よすぎる設定)、を無理なくこなしていた。普通、類型化された演技はよろしくないけれど、このお芝居の男の幻想としての疑似家族は、まさに類型化された家族であり、現実の曖昧なつかみ所のない家族の実態を、逆に浮かび上がらせる意味で戦略的な選択であったと思う。リアルな家族を演じられると逆にこの場合はまずい。ドアのうちらは、紙芝居、外は、ハードな砂嵐という感じですから。脚本自体もそのような狙いがあったと思う。当然、その類型的な家族像は破綻せざるを得ないし、男は、殺される(幻想は現実に拒絶される)。そのあたりを類型化された表現でうまく演じていた。ドアのうちら側と外側の演技の差をもう少し明確にできたらもっとよかった。いわばこれは、ある意味「行きて帰りし(帰れなかったんだけど)物語」でもあるから、二つの世界を鮮烈に表現するためにも。
 中年女の雰囲気は特にいい。30代半ばの愛人役はもう少しきびきび目がよいかも。靴が赤いのはよくわかるが、衣装の色彩とちぐはぐ。派手目か地味かどちらかにした方がよい。類型的な表現ですからもう少し徹底した方がよかったかも。総体として役者たちは身体も無理なく脚本の内容を支えていたと思う。呼吸が全員よくできていた。こういう役者たちがいると、創る側としては非常に楽ですね。さらにパワーアップすることを期待します。
 細かいことですが、オープニングの照明少し明るすぎて、風の音の入り方もちょっと乱暴。些細なことだけど気をつけましょう。音は音量もそうだが、入り方、消し方に特に気をつけること。雰囲気を壊さないように。

●高知工業「修学旅行最後の夜」
 リラックスして見ることができるよい舞台だった。実はメモをほとんどとっていません。それだけ見ることに集中できた。余計なことに気をとられずにすんだというのは実は結構たいしたものだということです。
 脚本自体はたわいもない、修学旅行を入れ子にした卒業旅行の夜ということですが、たいしたことのない脚本でも、役者のリラックスと会話のキャッチボールがきちんとできていれば結構な舞台が成立するということになります。ネット脚本のしょうもないやつでも、役者と演出が頑張ればそこそこのものができるということでもあります。でも、ほんとにダメなのはいくら頑張ってもダメですからね。
 脚本の入れ子になった二重構造は、実はそれほど機能していません。修学旅行と卒業料の間の歳月でどれだけ関係が変わったか、あるいは成長したかということがあまり語られていない分、構造が弱く、二重にする意味がそれほど必然性を持たないからです。これが、実社会で何年かやってきた後で仕事の一線でそれぞれの悩みを抱えながらやっている中のセンチメンタルジャーニーということになればまた違うでしょうが、少なくても今のままの設定ではそれほど効果はありません。
 まあ、そんなところよりは、このお芝居の眼目はとにかく遊びを徹底してやっているところで、中身は本当にくだらない、馬鹿騒ぎです。その馬鹿さ加減が実は徹底することにより、登場人物の今を非常に具体的に表現しているというところに、価値があります。何にせよ徹底することは質の転化を呼びますね。まあ、もっとも役者たちの素の部分もあろうかと思いますが。
 男中心のお芝居はなかなか他校では難しく、その意味でも価値があったと思います。男のばかばかしさは、これはほんとに男でないと訳わからんとこがありますので、私も大学の寮生活を思い出して、ばかなわこといっぱいやったよなーとしみじみしてしまいました。いや、これは講評とはちょっと違いますね。他校でも男の子がもっと増えれば芝居の内容が多様化できるんですが、せいぜい二人いれば御の字という現実ではね・・・。
 ただ、こういう脱力系というかゆる~い、演技スタイルは、取り入れやすいけれども、失敗する確率も多いスタイルです。必要なのは、会話のキャッチボールと身体。この学校の場合身体はむしろ素でやっていたような印象を受けました。内容的にまあそれでもかなりカバーはできますが、やはり、演技としての「素」というところまで行きたいですね。少なくてもそれをきちんと意識しておくことです。失敗するとほんとにただの悪ふざけをしていただけの舞台になりますので。コントロールが難しいスタイルでもあります。決して適当にやればいいというものでなく、力を抜く演技を真剣にやるというなんかちょっと意味不明なコントロールが必要だと思います。自覚してやってたかどうかはちょっと疑問ですけど。
 一般には、変に途中でまじめになったりして、遊びの質を維持しながら最後までやり抜くということは、特に県コンクールなどは及び腰になり、結局中途半端な舞台にな自滅することが多いようです。ゆる~いお芝居を最後までつづけるのはなかなか勇気がいるんで無理ないけど。まあ、一種の覚悟がいるお芝居ですね。演劇祭だからできたということもあるかもしれません。県コンクールで遊びきれるか、見てみたい気もします。挑戦してみませんか?四国レベルでは、まだ遊びきったとこを私は見ていません。たいてい妥協しますね。まったりと続けるエネルギーと根性がありません。士道不覚悟です。


【まとめ】
 今回の演劇祭は、参加校の増加で盛り上がったものの、高知県の高校演劇の課題がよりいっそう明らかになった大会だったといえる。
 参加校のほとんどが、技術的な問題を抱え、それを解決していく方法がわからないままもがいているのを見ていると、顧問の果たす役割はますます大きくなり、それに対応しきれていない現状がより明確になった。当然演劇のプロでもない教師ができることには限界があるが、それでもなお、顧問としてもう少し助言できることはあろうし、またすべきであろう。今の教師は無茶苦茶忙しいし、教師自身にもたぶんあまりノウハウはないだろうということは推察される。しかし、まるっきり素人でも、初めての顧問でも、観客としてつきあうことができれば、それなりに見えてくるところはあるはずだ。生徒が悩んでいるときに、観客として、気づいたことを言ってやるだけでもずいぶん違うだろう。生徒の自主性に任せるとかいうような都合のいい言葉はききたくない。顧問として、部活に正対していれば、必ず道は開けるはず。
 こういうことを感じたのは、結局、先輩たちの失敗を懲りずにまた繰り返している学校が多いからだ。生徒はだいたい部活動は2年ちょっとぐらいしかできず、世代交代していく。そのノウハウが伝えられている学校とそうでない学校との差が大きい。そういう世代交代のときに、経験を継承させていくのが顧問の仕事でありましょう。その意味で、顧問の先生のさらなる奮起を期待したい。
 で、言いっ放しでもいけないので、いかにすればよいのか。あるいは、どんな展に注意をすればよいのかという手引きを講評の付録の形で2つ付け加えておきます。一つは、既成脚本の選択、あるいは創作の時、気をつけなければいけないチェックポイント。もう一つは、お芝居を創る過程の中でチェックしておかなければいけない技術的ポイントです。これをやればすぐにお芝居の質が向上するという物ではありませんが、少なくても、残念なお芝居になることをある程度避けることができます。後は、各校のがんばり次第と言うわけで、できるだけ、実務的なことを書いておきます。生徒たち自身の手で作ることを想定して書きましたので、是非、参考にしてください。
【 以下は別項に形を変えて記載します 】




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