第26回高知県高等学校演劇祭講評


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●【前説】
 三日間お疲れ様でした。今年もまたお世話になりました。以下、ささやかな観客としてみた感想を書いておきます。

 お芝居を観ていると二通りのお芝居があるのに気づく。ひとつは感情を揺すぶるお芝居。もう一つは認識を揺すぶるお芝居。もちろん、明確に別れるわけでもなく、片一方の要素のみでできているわけでもないし、両者が混ざり合っている場合もある。どちらが優れているというわけでもなく、たぶん作り手が、世界に対して、信頼しているか、疑念を持っているかの違いであろう。もっとも、無自覚に世界を信頼している場合も多々あるけれど。好みは別れようが、私的に言うとどちらかというと認識を揺さぶるお芝居の方をみたいとは思う。それは好みの問題というより「芸術」がもつ優れた機能のひとつだし。ま、そればかりではつかれるけれど。
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3.11は、いわば無自覚に世界を信頼していた多数の日本人に対して、その世界が確固たるものでなく、かなりあやういバランスの上に立つ、砂上の楼閣であることを改めて意識させた。もっというなら、世界はただあるだけなのに、私たちは、あたかも私たちの生活、私たちの欲望のままに「コントロール」できる現実だという思いこみの虚構を、まさにあるがままの「現実」として提出した。今回、今私たちがおかれているそういう「現実」に、直接、あるいは「間接」にかかわるようなお芝居がいくつか見られたことを評価したいと思う。細かくは、各校の感想の方で。

●【高知追手前高校】『番町皿屋敷』

 演劇に対する高い志を感じる舞台でした。志だけでは演劇にはなりませんが、志がなければただの時間つぶしにしかなりません。それでは高校演劇としては誠にもったいない。高校演劇は教育の場でもありますから、クラーク博士の言のように「青年よ大志を抱け」とありたい者です。
 さて、お芝居を観るとき予備知識がなくてももちろん楽しめますが、予備知識があれが観客の理解や楽しみがさらに深まる場合があります。このお芝居の場合は江戸時代の知識ですね。台本自体は近代にかかれたお芝居ですので、登場人物の心理等は近代的自我が貫かれていますが、それでも江戸時代の知識があれば作者の意図や演技者の表現をより楽しめると思います。たとえば、武士はお家がいかに続くかが第一というより絶対的な価値観であるとか。男の子がいなくて家長(わからない言葉でしょうね)が急死した場合悲惨でお家断絶になり、あとは一家離散といってもいい事態になるとか(もちろん、いろいろ、抜け道があり、死んだのを隠してあわてて養子縁組をして、届け出るとかして賄賂まき散らしお家断絶をさけるとか。ま、時代小説を読んでみてください)。跡取り息子と腰元の恋愛などもってのほかで(これも、ま、いろいろ抜け道はあります。)正式な結婚など考えられないとか。おてつきとかいう感じで側室というてもあるとか。とにかく規範が絶対。けっこう些細なことで切腹しなければならないとか。
 平成の世の常識を江戸の世の恋愛に当てはめても意味がありません。様々な制約の中でもがき苦しんだ恋愛を想定した方がよろしい。ひとつ間違えば簡単に命を落とす恋愛なんですね。枷ががっちりかかっています。心中は当時相対死にと呼ばれていまして。失敗すると、生き残った方は、さらし者にされたあげく非人に落とされます。両方ともに生き残ればお互いに背中合わせに杭などにくくられて町中でさらし者にされます。なかなかにシビアな時代ですね。
 さて、余計なことを書きましたが、このお芝居は引き算を選択したお芝居のようだと思いました。シンプルな舞台と身体で表現する。衣装や装置も色遣いを含めて最小限必要なものだけで構築しようとしたようです。封建の美意識の中に近代的精神を組み込んだ台本を、シンプルな様式で表現しようとするなかなか気合いの入った舞台です。
 様式は、単純化、抽象化作業がありますから、ややもすると不必要なものを排除する引き算になるのはいなめません。その学校はそれを丁寧にやっていました。たぶん時間不足もあったことだろうとおもいますが身体の動きや、衣装も工夫していました(旗本奴と町奴の衣装の違いがもっとわかりやすくあればとは思います)装置もシンプルです。色遣いも赤と黒の基調で絞り込んでいました。意図はよくわかります。ただ、なんかちょっと寂しい。まあ以下は個人的好みと思っていただいて結構です。
 足し算、過剰も選択肢のひとつではなかったかなと思いました。江戸と近代を引き算でまとめたこの様式は近代の美でしょう。でも、江戸と近代の二重構造の中で近代のみを選択するのは少しもったいないかな。観客は(といっても高校生にはちょっと厳しいけれど)江戸の「番町更屋敷」を知っていてその上で、岡本綺堂の企みを楽しむのがより深いしおもしろいと思います。ヒュードロドロの幽霊譚を知っていて、江戸の様式美、粋といなせの要素があればさらに味わい深い。旗本奴と町奴のさや当て、当時のカブキ者たち(まあ、不良少年、青年の意地の突っ張り合いですな。そんなことでしか、生きる意味を見つけられなくなった封建の世の閉塞感漂う末世的状況です。もう少しすると新しい時代の展望がでてきて日本中の若いつっぱらかっている人たちが発狂状態に陥る幕末へ突入していくんですが)の美意識や、意地、価値観を表象する華麗な舞台があってもいいのではないか(じっさいまあ彼らは、ほとんどいってんでねーかというほどのファッションでのし歩いていました。ファッションは明確な自己主張ですからね。当時の規範や価値に徹底してはみかえっていたようです。だからして、かれらはかぶきものと呼ばれました。かぶく、社会からの逸脱を意図的に自己主張として展開していました。やがてそのエネルギーは幕末、明治維新をつうじて新たな体制に回収されていきますが。)。色彩にあふれたそんなんあだ花のような中でこそ、男の愛を確かめようとする近代的女性としてのお菊の姿がよりいっそう立ち上がると思います。禁欲的な舞台装置と衣装では、ちょっと幅というか世界が狭められてしまう。絢爛豪華な色彩にあふれた徒花の世界こそ、共に滅びるお菊と青山播磨にふさわしいと思います。それは一瞬、明るく解放される幻想を抱いた大正デモクラシーがやがて崩壊していくそのちょっと前にかかれた岡本綺堂の脚本にふさわしいのと通底するのではないかと思いました。まあ、実際には予算と日にちという壁がありますが、もう少し華やかさを感じさせるものがあればまた違った様式の中で表現できたかなと思います。ようは、様式=引き算ばかりではないこと。また別の可能性があることを覚えておいていただければ。
 「さくら、さくら・・・」の琴の音。いかにも過ぎてちょっとねと言うところはあります。まあ小学唱歌だから明治以降の曲ですよつうような野暮なことは言いません。効果音として雰囲気が出ていました。ゆったりしたテンポがよろしい。それより何にもまして桜の花びらの降り方、量がばっちり決まっていました。おおすぎもなく、すくなすぎもなく。雪籠揺らすのは結構むつかしく、どさっとふったりいくら振ってもおちなかったり。演出の指定と、雪籠振る裏方さんがいい仕事してました。ご苦労様。
 非常に短い時間で仕上げなければならなかったはずでくろうが忍ばれます。でも、時間がなかったというのはいいわけにしかならないのがつらいですね。舞台は、そこで表現されたものがすべて。それ以上も以下もありません。演劇祭は日程的に厳しくどの学校もひいひい言いながら作らざるを得ない。あと、一週間、せめてあと三日。というのが全出場校のいつわざる所でしょう。そのような状況の中でとにもかくにも志の一端をとりあえず形にした努力と、安全運転でなく挑戦することを選択した決意に敬意を表します。「力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずしてくじけることを拒否する。」。これからもさらに精進されることを期待します。あ、もちろん今回のお芝居、倒れたって言うことではないですよ。

●【高知南高校】籠目

 おなじみ「かごめかごめ」の童謡にのせて送る伝奇ファンタジーという趣。まあきらいではないこのジャンル。結構期待してました。
 オープニングがきれいです。竹林(というにはちょっと足りなくて通路の役目をしてましたが)、赤い鳥居(小さいんで、ちよっとしょぼい。脇の神社かな)。たぶん境内と思われるアクティングエリア。怪しげな仮面の人びと。照明もいかにもで一生懸命工夫した観が伺われます。ああ、こういうのやりたいんだなというのがよくわかる。こけおどしの観はあるけれどビジュアルに凝っているのは○。見せ物としてよろしい。
 で、もって、正直に言うと欲張りすぎでした。物語の種がいっぱいありすぎて60分ではおさまらない。「かごめかごめ」、「ムラ」、「オニ」、「昼と夜」、「不老不死」、「恋愛」・・・まとめて言えば、世界観の設計が甘かったというか、詰め込みすぎて混乱しています。だから、一生懸命説明するのだけれど、説明すればするほど、お芝居にはならなくなって、「ストーリー」になってしまった。我慢しましょう。やりたいこと、組み立てたいこといっぱいあっても、できるかぎりそれを最小限にすること。そうしないと、役者はただだ説明の台詞をしゃべらなければいけなくなります。アニメや映画や小説で若い人たちにはおなじみの設定ではあるけれど、現実の肉体を持った役者がその場で表現するには、要素が多すぎてお話の構造が少し複雑すぎると思います。断腸の思いですっぱりいくつかを切り離した方がよかったと思います。全部入れればたぶん2時間半くらいはかかりそう。
 基本構造を「ロミオとジュリエット」にして、人とオニの恋愛だけに絞り、「ムラ」を、人とオニが、ある意味共存しながら、支配権が時間と共に逆転していく様相をもっと明確に表現すべきで、そうした中で、「かごめかごめ」を二つの世界をつなぐ装置として整理し直した方がもっとすっきりしたものになるはず。たぶんそれを目指したんだろうと思うのですが、余計なものが入りすぎたようです。制限時間があるので、それに応じた要素だけでつっこんでいった方が世界を構築するのに適当であったと思います。欲張りすぎはいけません。

●【小津高校】白昼夢

  「夢」を核にした知的で乾いたお芝居。躍動する情感の面白さより知的な面白さを誘う。説明はほとんどなく、ただ、現象が展開していく。とらわれたものが脱出するお話だけれど、ラストの「行ってきます」という台詞から見ると脱出できるのかどうか曖昧なままに終わり、それが逆に余韻をもたらす。全体のほとんどは、とらわれた場での、あまり意味もなさそうな、「遊び」や「行為」がだらだらとつづく。観客としては、なぜ?これからどうなる?という思いにとらわれひたすら意味を探していく行為を余儀なくする。あるいみけっこうずるい作り方である。
 「夢」の話しはなんかありそうで実はあまりない。「砂時計」が意味ありげにでてはくるけれど、これとてもそれほど意味があるとは思えない。というか、余り意味を持たせないようにしているかもしれない。全体のシチュエーションもじつはそれほどのものでもなく、むしろ、余り意味を持たさないようにしている。三人の内二人しか起きていられないという設定もおもろしいけれど、実はかなりご都合主義的な設定であるが、それがあまり不自然に見えないのは、お話全体に余り意味を持たさないようにしているからであろう。
 そのことがたぶんこのお芝居を成功させている要因かもしれない。説明をできるだけ排しようとし(あるいは放棄している?)、意味のあるものをにおわせながら決定的なものにさせないよう工夫している観があった。結局そういう場では、役者は、お話の意味を背負わなくてすむし、逆に、役者がある時間を生きているという表現がダイレクトに伝わってもくる。台詞の少ない分、沈黙の、動作だけの時間が広がり、それが逆に観客の集中力を誘っていた。欲を言えば根本的な設定が薄い。従って、展開がそれほどなく曖昧なままに終わらざるを得ない。だからどうよという側面はある。おでんの串があと日本ぐらいは欲しいところで、濃密な空間と時間を設定するには力不足であったと思う。
 それはそれとして、なかなか果敢な挑戦であったと思う。もっともこんなお芝居ばかりではちょっとたまりませんけど。

●【高知工業高校】アルバム

  みながら、ちょっと幸せでした。もはやほぼ半世紀昔になった「今」が眼前に浮かんできました。そうだよなー、こんなグダグタでノー天気で、でもなんかどっかでとんがってて・・。どうあがいても帰ってこないあのときの「今」。喪失感がひたひたとせまり結構切なくなってしまいました。そういう、「今」、陳腐ですがそのときでしか語れない「青春」があったと思います。題名の「アルバム」。演じた生徒たちがやがて私のような年齢になったとき、アルバムの彼方にある喪失した時間をたぶん、ちくりとした胸の痛みと共に思い出すだろうとおもいながら。見ていました。
 とにもかくにも、結構わやくたな「今」の時間を遊び倒したその徹底性がこのお芝居を成功させた第一の要因だろうと思います。なかなか遊び倒すのには覚悟が必要です。どうしても、まとめてしまおうとするヨコシマな誘惑にかられます。それは、演劇ってなんか訴えねばいかんのではないかとか、テーマがないとまずいんでないかとか、入賞したいとか、四国大会へ行きたいとか(今回はコンクールではないですけど)。無理はないですけどね。でも、そういうヨコシマな誘惑には負けないでください。負けて四国、あるいは全国行くコザカシイお芝居はいっぱいありますけど( ´Д`)y─┛~。私が審査をする時はだいたい鉄槌を下しております。はい。演劇ってそういうヨクボウにも負けず、ただただ、今、「現在」を役者の身体で表現するものだと思います。あ、でも、やっぱり負けても四国や全国行きたいわねー。まあ、それもしかたないか。でも、そういうヨコシマな野望を振り捨てる潔さをやっぱり希望しますね。自覚しているかいないかは別として。
 このお芝居の徹底性についてもう少し言いましょう。このお芝居は全編はっきり言ってしょうもない、ぐたぐだな高校生たちのやりとりで終始します。もう本当にしょうもない。何の役にもたちません。しかし、だからこそ、お為ごかしの人生訓やきいた風の前向き発言や小理屈が一切ないぶんすっきりと、「今」が立ち上がっています。別に馬鹿にしてるわけではないですよ。登場人物が生きていると言うことです。役割をしているわけではないということ。四国大会(全国ではもっと巧妙ですけど)でも、なかなかやるのーとおもっていても後半になると何か人が変わったように突然倫理的状況を構築してしまうヨコシマな舞台が結構あります。おこがましくも「等身大の芝居」と称するようですが笑ってしまいます。けっと言いたいですね。実際言いますけれど。そんな生徒がいたらお目にかかりたい。「等身大の生徒(なんかすごく変な表現ですな)」って私が教師の現役時代にはしばいたろかっていうようなのばっかりでしたぜ(o'ω')y-~
 脇道にそれました。「徹底性」に戻ります。高知工業の場合、後の方に少しヨコシマな台詞が入っていましたがそれは目をつぶるとして、問題は、自覚的に構築したか無自覚で結果的にそうなったかですね。判定は難しいですがここは一応自覚的にということにしましょう(やったもんがちですので)。
難を言えば、最後の表題と(しかも劇の構造と関係する)写真を写すシーン。段取りがうまくいかなったかとも思えるがしょぼかった。「今」が「過去」に閉じこめられる決定的かつ結構切ないシーンであるはずなんだけど、うつったのかうつらなかったかあれーとおもうひまもなくおわってしまった。ここはきちんとやって欲しかった。時間の流れの中で「今」ははかなくも「過去」のアルバムの中に収斂されていく。そのときの「今=生」が単なる「記録」になってしまう決定的な喪失の瞬間であるのだからもう少しきちんとってほしかったと思
う。
●【安芸高校】「心体検査」

  題名と内容が微妙にずれていて、少しとまどってしまった。「幽霊」をだすのはけっこう禁じ手でそれなりの設定が必要だけれど、そのあたりわりといいかげんで「幽霊」にしなければならない必然性がみられなく、ご都合主義的なところがみえる。便利ですけど、逆にその必然性をきちんと設定できないとただの絵空事になってしまう。舞台は何をやっても許されるが、それでも必然性はきんと設定しなければならないと思う。
中心的な骨格、おでんの串がくだくだになっていて何をやりたいのかが正直よくわからなかった。いろいろな要素を入れすぎて焦点がぼけてしまったのは残念。結果としてやすっぽいコミックのようになってしまった。役者に表現しようとしていた意欲が見られただけに惜しい。全体の流れができた段階で、観客の目ででチェックすることが望まれる。

●【土佐女子高校】「心にかんじる えたいのしれないものを ふかくふかく かみしめながら」

 うーむ、結構挑戦的な題名。というかテーマを露骨に全面展開している。では、その「えたいのしれないもの」の正体と、「ふかくふかく」かみしめているかどうかをみてやろうではないかと挑発されてしまった。形態は生徒会もの。主人公は副生徒会長。なんと生徒会長は失踪というか家出というか逃亡というか行方不明で最後まで姿を現さない。文化祭は刻々とせまり、枷が強く働くなんとかせねば。でもってドラマが始まるのだけれど。
 最初の方のあそびがすこしごちゃごちゃしてメインフレームが浮かび上がるのがちょっと遅い感じ。生徒の存在感は十分にあるし、呼吸も結構合っているけれど、エピソードが多すぎるのでもう少し刈り込んだ方がよろしいと思う。欲張らないこと。欲張ると、枝葉が多すぎて、焦点がぼけてしまう。ここでは、不在の生徒会長の問題を、副会長が引き受けるのだからあまりやりすぎると、ただ遊んでいる感じになってしまう。たとえば風紀委員会の設定と登場も構造上余り意味を持たない。コミック的キャラとしてはよいだろうけど、生徒会に対する「外圧」、環境としてはちょっと陳腐。風紀委員会の中に「えたいのしれないもの」があるとは見えなかった。風紀委員会の中にある「えたいのしれないもの」をきちんと描くか、あるいは、生徒会内部にあるぐたぐたな方向性をもっと押し出したほうが事の本質に迫れるだろう。「えたいのしれないもの」は外部にあるのではなく、その内部にあるもののはずだし。まして、それは、すべての生徒たちの中にあるはずだし、それなしで登場させると、このお芝居ではお話を進めるだけのただの部品になってしまって、本質を薄めるだけになりまずい。
 そういう意味で、バッドエンディングはよいのだけれど、なぜ先生がトップサスにいっしょにいるのかなぁ。この台本では、先生は、外圧を告知する役目しかしていない。「ふかくふかくかみしめる」資格は構造上持っていない。当然先生も現場の矛盾を体現してるから当ててもいいけど、このお芝居では先生のドラマが描かれていないし観客にそれを理解してくれというのはちょっと無理です。であるならば、当ててはいけない。それが表現されていなければ見る方にはわからない。もし、先生のドラマが描かれていたならば、このお芝居はもっと複雑な構造になっていたはずです。先生はいわば体制の内にいて社会的関係の中にいる。単純に文化祭うんぬんよりもっと複雑な関係にある。生徒とはちがう先生の「えたいのしれないもの」を描かないと、たんなる狂言回しにしか過ぎない。それがかかれていない以上ここでは先生にトップサスを当てるのは少し無理があります。舞台で表現されたものがすべてで、作る側の思いも意図もくそもない、身も蓋もない現実で、この舞台表現からすれば、副会長だけにしかトップサスは当てることはできないと思います。またそれで特に違和感はありません。照明は時に全体の構造を担うし、なかでもトップサスはけっこうやっかいで、慎重に検討したほうがいいと思います。意図が観客に100パーセント伝わることはまずありませんから。
 で、じつは本当の演劇はたぶんこのラストから始まるものだと思います。ここから実は「ふかくふかくかみしめながら」こころの奥底に潜んでいる「えたいのしれないもの」が表出する瞬間が。これ以降の物語が、このお芝居が本当に表現するべき本質であろうと思います。観客としてはそれが露出していく展開をみたいと思いました。

●【土佐高校】「七人の部長」

 高校演劇では結構おなじみの脚本。観客の「センチメンタル」を揺するけれど「認識」をゆらすことはない。安心してみられる。「リアル」をアプリオリに受け入れてその中の処理で終わるからきつい言い方をすれば口当たりのいい砂糖菓子的なお話。しかし、演じる時には結構役者のレベルと演出の小技が要求される。
 予算編成会議ですったもんだするところの人間関係の変化と、終わった後の処理が見せ所。で、もって人間関係の変化をやりにくくしたのが装置の配置であったと思う。教室のならべかたではこの台本はけっこうきつい。くるくる変わる予算編成をめぐる部の力関係を表現するには、授業形式の机では(まあ実際にはそうだろうけど、表現としては。。。)けつこうむりがある。円卓会議的な並べ方でいいのではないだろうか。部の数も少ないことだし。そのほうがもっとくるくる変わる力関係がよくわかる。無理に席を移動しなくてもよい。
 予算会議終わってから後は、説明的なシーンが続くが、まあ台本がそうなっているから仕方ないけれど、それまでの会議がけっこういきいきと展開していただけに残念なところがある。ある種のバッドエンディングだが、それでも、少しは前進したという希望を持たす終わりのはず。予算書の扱いにみられるたがそのあたりが曖昧な幕切れであった。幕切れは大事だからここのあたりはもう少し検討する必要があるだろう。幕が下りるのも微妙に遅く感じられた。

●【高知高校】「心友」

 現実と夢?二つの世界を行きつ戻りつしながら、登場人物が成長していく、いわば「行きて帰りし物語」でファンタジーの王道。問題点を抱えた登場人物が、その問題点をある程度克服して何かを得(あるいは失い)新しい生を獲得していくということになるのだが、こういう構造の場合、注意しておかなければいけない点がいくつかある。小説と違い、芝居は観客の目の前で生身の役者が表現するものであるから、活字と違い観客に違和感なく、リアルな表現として受け取ってもらわないといけないから気をつけなければならない。
 たとえば、二つの世界の移行をスムーズに違和感なく行うこと。装置、小道具、照明、音響、しかけ、演技何でもよいが、できるだけさりげなく瞬間的な方がいい。引き割りの開け閉めがこの芝居では使われていたが、芸術ホールでは時間がかかるし、音がどうしてもする。何回もやられると興がそがれてしまう。音響や、照明、演技だけでもできるのではなかろうか。
 また、現実と違う世界の役割が説明にならないようにすること。このお芝居の場合マントの登場人物が導いていくのだがこの部分は説明的になりすぎていた。違う世界でもやはりドラマがないと厳しい。また、マントは衣装としていかがなものか。ちょっとチープすぎていかがわしい。インチキさをねらっていたなら別だがそういうことでもなさそうだった。結果として、別の世界が、ファンタジーの構造としても機能していなく、むしろ、この芝居の場合、別の世界を設定しなくても、現実の日常的な場だけでも十分できるのではないかと思う。せっかく演劇部という設定があるのだから、劇中劇という形でも処理できるのではないかな。
 二つの世界を設定するのは便利だからよくあります。私自身も結構書きました。けど、基本的にはお芝居としては弱い構造です。ひとつの世界で押し通せるなら、それで押し通した方がよい。どうしても二つの世界でやりたいのなら、それなりに強固な設定をするべきです。そうしてそれはやってみればわかることですがけっこう骨が折れる作業です。
 その他いくつか目についたことを言えば、やはり女の子がある程度以上の男役をするのは厳しいですね。せいぜい小学生ぐらいまでと考えた方が無難です。創作であるならば無理に男役にすることはありません。どうしてもやりたければ、不自然でない設定を考えること。下向きの演技が多いのも気になりました。全体的にウェットな感じがあるからかもしれません。もう少しからっとクールにいった方がいいでしょう。悲しいときやくるしいときの演技で下向く人が多いのはこの学校に限りませんが気をつけることです。いつも下向く演技をするのは類型的な演技でしかないので、もっと自分ならどうするか工夫しましょう。ラストの踊りは余り意味がないのでやめた方がよろしい。踊りたいならば、踊っても不思議でないような設定にするべきでしょう。違和感が出てくるだけになります。
●【中村高校】「それでも世界は回ってる」

 原作者なので、なかなか言いづらいところですが、エビソートがかぶってしまったことと、宮沢賢治の「オッペルと象」の組み込みが消化不足で説明的になったところです。仕上がりが遅かったにも関わらずきちんと作品に仕上げてきてくれた中村高校の部員さんに感謝とお詫びを申し上げます。
 なにより、装置が圧巻でありました。装置を考える場合、引き算と足し算がありますが、ここは足し算で、これでもかという感じでゴミを積み上げていました。その組み方がまたビジュアル的によく計算してくまれていて、照明もよかったせいもあり荒廃感がうまく表現されていたと思います。「過剰」にものを置く場合、演技エリアがより限定されることや、装置の意味がぼやけることがありますが、ここは装置そのものがひとつの登場人物としてよく機能していました。欲を言えば、もう少し「辻」の表現がわかりやすければよかったのですが。「過剰」というのは見た目のインパクトもありますし、その存在感をうまく使えばかなり有効であると思います。当然「組み方」には細心の注意が必要ですが、そのあたりこのお芝居はよくできていたと思います。
 そして、なにより、経費がゼロというのがよろしい。たまたまだったかもしれませんが、会場校が工事をしていたとのことでそれらの廃材を現地調達(落ち葉も、周りの道路を掃除して集めたそうで、美化にもボランティアとして貢献したようです。)。脚本指定がそうなので結果論になりますが、遠隔地から装置を運ぶには乏しい部の経済にとっては頭が痛いところです。うまく解決した知恵と工夫をほめたいと思います。ま、どんなお芝居にでも適用するわけにはいけませんけどね。臨機応変ということは常に心しておきたいと言うことです。とにかく安い(あるいはタダ)材料を、うまく使う工夫を頭に置いて、常にあたりの日常的なものに目を光らしてみてください。今は使えなくても、何かのお芝居の時に使えるかもしれません。
 掘る女、ちょっと世を投げて疲れた感じがするような力を抜いた台詞。それもありかなと思うけれど、張り詰めて糸が切れそうな感じがあったほうがいいような気もした。死んでる人たち、全体にもう少し、あっけらかんとやった方がいいかな。死んじゃったよー、あはははは。ぐらいな感じで。象の檻の所の動きはちっょと曖昧になっていてわかりにくかった。盆踊りは意外にさまになっていたけど、後半部分の踊りはもっとスローに。まあ伴奏?のテンポの問題もあるけど。
 こうやって舞台化された者を見ると自分の脚本の欠点があらわになって、申し訳なくてちょっといたたまれない。しかし、反面、ああこういう作品だったんだということがはじめてわかる。生身の役者や演出によって、頭の中のイメージにすぎなかったものが現実としてその場に現れる。これはやはり、脚本を書く者にとってはこの上ない幸せである。今回、創作脚本が久しぶりに多かったが、たぶんその作者たちもこんな気持ちでいるだろうなと思いながら、嬉しい時間を過ごさせていただいた。多謝。
●【岡豊高校】
 物語派の舞台です。私もそうですから結構興味津々に見ました。設定的にはSFかファンタジー。でもって結構見事に自爆しています。ごめんなさいね。なぜそうなつたかということを
述べたいと思います。
 物語派が演劇の舞台で成功するのは実は結構ハードルがあります。まあ、みせものとわりきればどうということはないんですが、演劇とか言うものがハードルになりますとけっこうしちめんどくさい。あれやこれやといろいろブーイングをされます。体験的なものをふくめていいますとそれは二つのハードルを越さねばなりません。
 ひとつは物語としてよくできていること(これは小説でも同じです)。世界観やお話に破綻があまりないことがまず求められます。もう一つは、それをベースにして、役者の身体がいかに舞台で生きているすかと言うこと(これは小説では表現できないことをやるといううっとうしい要求があるからです。できなきゃ、なんで演劇でやるのそういうの小説でもできるじゃんという理不尽な攻撃があります。そんなんいわれてもね。たまたま演劇つう場があったんでやっただけじゃん、楽しく表現するのに差別するなよいいたいですね。でも許してくれません。演劇ってそんなとこなんです。。高校生に小説で自己表現しろってあほじゃないかと思います。からだつかってそこそこやったほうがなんぼからくでないかい。だってみんなでできるもの。小説って一人の表現ですっごく利己的なもんですよ。みんなでわいわいしたほうがなんぼか学園生活が楽しいというもんです。でも、それは演劇的でないって鉄槌下されます。この世は理不尽にできてます。ひとつ学習しましたね。私的に言えば、そんなんどうでもいいっしょていうとこですがどうもこの世界、そうでもないようですね。しょせん、見せ物なのに)。この二つでしょう。
 ではまず、最初の物語性からいうと、設定と表現がけっこうちぐはぐでした。というか、設定を突き詰めていなかった感があります。いわゆる世界観ですか。土俗的な踊り、きれいで現代的な衣服、それでいて日照りの害・・・統一された世界観がないので見る方はちよっと混乱。外から来たキーパースンについてもけっこう曖昧な扱いをしすぎで物語を支える力を持たない。基本は日照りでにっちもさっちもいかない近未来というのならもっともっとシビアな設定がかんがえられてしかるべきで、なんかそのわりにはみなさんのどかで、雨乞いの踊りだけが前面に出ている。しかもあとで、いわば人柱のはなしがでてくる。ならばもうすこし全体の空気が厳しくあるべきでしよう。のほほんとしすぎです。というか世界の設定がようわからない。ここはもっと詰める必要があります。近未来という設定が余り意味ないし、もっと絶体絶命という設定をつくりあげたほうが物語の場としてもっとイメージを喚起できたはずです。
 その中途半端な設定が演劇という形で表現するときに災いしました。まずは、空間が部屋の中というので、どうしても動きやお話が外から訪れる人びとのお話による間接話法になってしまったこと。ドラマになるより説明になってしまうのは避けられません。次に大事なキーパースンがお話の中にしか出てこなくて、目の前でドラマを構築することができなかったこと。さらに、なんかみんな結局いい人たちばかりでほとんど対立らしいものもなくすらすらとハッピーエンドになってしまったこと。ハッピーエンドが悪いというわけではありませんが、これでは、登場する人びとがただただ説明するだけで終わってしまいます。みせものとしてもちょっといかがなものかと。
 もう少しの工夫で、たぶんかなりちがったものになるはずです。たとえば、キーパースンを出す。問題点は解決できない(このばあいキーパースンは、殺されるか排除される だいたいまれ人はころされるものと相場は決まっています。)それでもなお、あるいはだからして人びとはどうなるのかが、実は設定した物語を出発点としたドラマの始まりであろう。このお芝居は実は、演劇としてスタートするその前の種になるものだと思います。ここから、では、これを壊してこの世界観(はっきりいつてけつこう不十分です。もっと精密に)から出発できるさらなる物語の上にたち、その世界の中でいきなければならない人たちの言葉を紡げば十二分に演劇になると思います(そしたらうだうだ言われないと思うよ。)。
 まとめていうと、このままじゃ枷が足りません。この意味は顧問の先生に聞いてください。

●【高知学芸高校】「神さま事情」

 ほのぼの癒し系神さまファンタジーといった趣。そういえばこういうコミックあったなと思いながら見てました。ある意味殺伐としたお芝居が多い中けっこう心洗われます。
 狛犬役の役者が、素直でいじらしいキャラクターを好演していました。神さま役もやさぐれおばさんの感じが出ていて対比がよろしい。兄妹役の位置というか機能が少し薄くて、全体の構造が弱くなっていたのは残念。キャラクター的に言えば、狛犬をもう一人出してちょっと意地悪、あるいは怠惰なキャラクターとして設定すれば、狛犬が一匹しかいない不自然さとか、狛犬の台?がひとつしかない空間的アンバランスが解決でき、対話ももっと幅が広がり、密度も深く作ることができたと思います。2人では1対1しかできませんが、3人になれば、1対1でも相手を変えて3通り、1対2も3通り、一気に対話のベクトルが6倍になります。もちろん、1人の場合も3通り、3人でごちゃごちゃも入れれば台詞のモードがさらに増えますから表現しやすくなると思います。
 まあ、元の脚本がそうなっているからしかたないけれど、兄妹を一人にして脚本を書き直せば役者の数も変更しなくてよろしいでしょう(原作者の了解はいりますよ。もちろん)。ネット台本の場合そのあたりの脚色はわりあい許可されると思います。台本を全部受け入れるのではなくて、観客の目で見直せば、私たちならこういう風にしたいな、こうすればもっとよくなるのではという点や想いがきっと出てくるはずです。それが、お芝居の組み立てと密接に絡むようなときは、原作者にと相談して、是非、改変する勇気と努力をしてみてください。基本的には原作者も拒まないと思います。まあ中には一切許可しないという方もいますが。ようは、完璧な台本なんてそうそうあるものではないということです。検討してみてあまりにそういう点が多ければ、やる必要もないですし。
 装置的に言えばちょっと不安定で偏っていたように見えます。また、神さまが主に支配していた階段状の部分(たぶん神殿に続く階段でしょうが)が、平台そのままのむき出しでありました。神社の階段が木でできているからよしと思ったかもしれませんが、それはちょっとだめです。舞台上の補助の道具類はやはり単なる道具で、装置にはなりません。(そういう設定が、納得できる場合を除いては。たとえば、舞台や稽古場の場面であるとか。)のような場合は、別の板(紙や布など材質は舞台として納得できるものを選べばよろしい)でけこみをつくりましょう。ほんのちょつとのことできちんとした装置になります。
●【高知西高校】「dearest」

 七年ぶりに帰ってきた女性と、偶然公園で出会う幼なじみの男女。会話が盛り上がり、季節がめぐる中で、それぞれのもつれた秘めた想いが浮き彫りになり、やがてまた、三人に別れがやってきて、それぞれ新しい道に出発する。という風に組み立てられた、ありがちと言えばありがちなお芝居ではあるが、素直に丁寧にお芝居を進めようとする努力がみられ好感を持って見ることができた。
ただ、いくつか改善の余地があるところがあるので述べておく。
 全体の組み立てで言うと、思い出話が説明にならないように気をつけなければならない。
ややもすると、思い出は現在進行形でないので説明的要素が強くなる。まして、傷ついているのが現在まで続いているのだから、思い出にできるだけ頼らないようにエピソードの組み立てを考える必要がある。さらに、公園での出会いの一瞬ですべてが終わるお芝居ではなく、現在での時間的経過が結構あるから、現在でのドラマをもっと豊かにする必要がある。というか、思い出はできるだけしぼる。今よりもっと削ってよい。装置が最初から変わらず空間の転換がないので、時間的経過を表現するのに手こずっていた感がある。暗転だけでは厳しい。しかも暗転がうまくいっていなくて気がそがれてしまう。そうした点を考えてみると、むしろこのお芝居は、再会してから別れるまでをひとつの場面としてやりきった方がよいのではないかと思う。逆の面から言うと、主人公の心の変化はそれほど劇的には変わりきれなくなるが、少しでも変わるのではないかという余韻や期待を感じさせるだけでも十分お芝居として成立できるはずだ。人間は、よっぽどのことがない限り。そうそう劇的にかわりはしない。変わるかもというぐらいでいいと思う。時間的経過も、せいぜい、ゆっくり照明を変えて夕暮れから夜までとすれば十分であろう。むりやり、時間を経過させ人間が変わっていくのを見せる必要がない。
 空間について。ちょっと広いかな。公園という設定だけれど、木の一本もなく、逆に寂しい。広い空間がそつようなお芝居ではないのでもう少し狭める工夫が必要かな。ベンチの立派さに対して、滑り台のチープさが悲しい。児童公園だとは思うけど、それでも。いっそ、ベンチだけでもよかろう。あと、街灯でもあれば別役実になってしまうけど。
 高知を舞台にしているとのことではあるけれど、その必然性は感じられなく、方言を使用しているわけでもない。田舎へ帰ってくると、いくら共通語をしゃべっていても幼なじみに会うとついつい地が出て方言でしゃべり倒すもの。そのあたりの計算をもう少しきちんとするか、あるいは高知に限定しない方がよかろう。特に高知でなければならない設定もなかったことだし。
 まとめて言うと、お芝居を作るとき、その空間や、時間経過、装置は本当に必要なのかと言うことを常にみんなで検討した方がいいし、するべきだ。なくてもよい、あるいは使わなくても別の方法で解決できるのではないかと言うことを考えておく必要がある。これは、脚本や演出の段階で常に考えておくと、無駄な努力や余計なことをせず、本当にやらなければならないことだけにエネルギーを集中できるから。まあ、いろいろやりたくなってくるのはわかるし楽しいけれど。これは、この学校だけではなく、他の出場校にも多々見られます。というか、どの大会でもいやになるくらい常に見られる問題点です。なかなか難しい問題ですが、心にとめておくのとおかないのとではずいぶん成果がちがいますので考えてみてください。
●【春野高校】いかけしごむ
 
 演劇の持つ力というか、脚本書く私としては、言葉の持つ力というものを感じさせてくれるお芝居であった。私たちがなんとなく無前提に承認している「現実」を、言葉だけでゆるがせ、ひっくり返す力業を見た。もちろん、別役実の脚本の台詞の力がその大前提だけれども、それをよく訓練された役者の身体がくりだす台詞の力と、演出の(全体を構想すると同時に、あまり見えないところに技を仕掛ける)力が、私たち観客の認識を揺るがして不安定なものに落とし込む。
 登場人物は基本的に二人。荒涼とした風景の中で、洗脳とも言うべき言葉の力業が展開される。イカをベースに消しゴムを発明したと主張するいかがわしげな男と、子どもを殺したと強引に主張する女のバトル。背景には、世界のデッドゾーンである、立ち入り禁止のテープが張られている。その奥は、暗く、そこへ入り込めばもはや一切が消滅しかねない3.11を強く暗示するいわば絶対防衛線の前で、存在のぎりぎりのところで、必死でとどまりながらお互いの現実を浸食しようと戦いを繰り広げる。
 別役さんはレトリックをさながら悪用するように言葉を展開する。些細な台詞をきっかけに、いいがかりとしかいえないように強引に論点をねじらせてずらす、拡大解釈をする、飛躍する、受け入れるように見せていなす。そうして、一番の方法としてパターンを変えるけれども反復して、繰り返し、相手の自我を攻撃する。詐欺師か洗脳のテクニックといってもいい。実際洗脳のお芝居とも見て取れるし。まあ登場人物のキャラ的な存在としてお局様とうだつのあがらないサラリーマンという形象を役者が作っていたから勝負は明らかなんだけれど。演出的にもう少し、頑張る男を作ってもらいたいとは思います。ともあれ、台詞の切った張ったがもたらすスリリングは脚本の力と役者の功績。なかなかに軽快に緊張感を持って見せた。高校生の身体でもこれぐらいのことはできるんだという心意気。下手な等身大の台詞より気持ちよい。
 そうこうして、男の現実の認識がゆらぎ、「真実」らしきものがあきらかになる瞬間。男の持っていた袋の中身が観客にさらされる。んでもって、申し訳ない。私は眼鏡を忘れていたため、よく見えず、人参かなーと思ってしまった。いや、人参でも、イカでも、バラバラ死体でもいいんだけど。たぶんぼたぼたと血がしたたっているはずなんだけどみえないの。こういうの認識の揺らぎというよりなんか異形のものが出現した感じで実は結構面白かった。
 そうして、とぼとぼと警察に出頭するために男が去り、すぐさま唐突にも殺された?ことが明らかになるのだが、それを告知する「刑事」が、台本と違い、男と同一人物がやることにより、横顔しか見せないこともありさらにうさんくさい現実となる。男のもっていたものはイカだったという「事実」が告知され、現実の認識がいっそう揺すぶられるという実にぐだぐだで気持ちのいい結末となる。現実ってこんなもんだと。同一人物がやっていることはプログラムでわかっていたのでそう見たけれど、知らなかったら、同じ人物だとは思わなかった。横顔ということもあるが、演技がまた全然別の役者であるように見えた。ここはこの役者のヒットですね。
 女が言う「わたしはここからにげない」というこことは何か。その台詞まで立ち至ったとき、はじめて、ほとんど無視されていた、立ち入り禁止のロープが圧倒的な存在感を持って観客に迫ると思う。私たちがよってたつ現実の認識など実はたやすくひっくり返るものだし、それほど強固な確たるものではない。それでもなお、その現実にたっていようとするならば、結構、ぎりぎりの覚悟はいるだろう。いわば人間の尊厳としてのボーダーライン。それでもそれが正当なものかどうかは保証の限りではないというところが別役さんのいやらしさだと思う。ロープの前に立つ女はたぶん男と夫婦だったんだろうということを暗示させてたっている。台詞を追いかけるとどうもそういうように見えてしまう。ならばこそ、よけいに荒涼とした思いを感じさせる。私たちが確固としたものと何となく思っている現実など実は非常に危ういバランスの上に奇跡的に成り立っているものでしかないことを。ロープ一本で表出させるという、こういうのやっぱり演出の醍醐味でしようね。
 これは、3.11後の私たちがそれまであった認識を変えざるを得ない事態に陥ったことと通底しているお芝居だと思います。ずいぶん前の台本だけれど、やはりきっちりした力のある本は古びないわと改めて思った。いや、いいもんみせてもらいました。

●【高知東高校】「昭和みつぱん伝~浅草・橋場二丁目物語」 

 題名からはノスタルジックな雰囲気が漂うが、しかし実際の舞台にはあまり時代のにおいが感じられない。どうも平成風すぎた。具体的に言うと、奉公人とお嬢様の言葉遣いの分け方もきっちり必要だし、衣装の考証、さらに開戦時の大本営発表とか雨の神宮外苑学徒出陣壮行式など(録音や映像があるのでそれを使うとか)の戦争のにおいとか、きちんとをしっかり出した方が、時代に押し流されたものがしっかりと浮かび上がってくるはずだ。
 また、舞台が広すぎる。狭めないと装置の貧弱さが浮き彫りになるし、演技もエリアをある程度狭めないとやりづらい。引き割り幕を締めてその前でやった方がよかったと思う。ホリゾントを使わない方がこの芝居には合うのでしないか。そうした脇を固めてやってから、お芝居をした方がこの芝居の場合はもうすこし演じやすかったのではないか。やっている役者をその時代の中に放り込むという意味でも。ある程度役者をその気にさせておかないと、こういう、時代物(昭和18年なんて今の生徒さんには大昔ですものね)をストレートに演じるのはつらいだろう。余り動きもなく、固定して台詞をしゃべるというところが多く、稽古不足もあるとは思いますが、それより、たぶん芝居が要求する時代、空間に想像力がついて行ってないんだなと思われた。現代の高校生の生活とはちがうところでのお芝居をする場合は、まあこそくな手段といってしまえばそれまでだが、それなりに脇を固めておく必要があります。少し、調べればわかることが意外に多いのでそのあたりの事前のリサーチは大事です。
 台本もいろいろ問題があり、中でも一番問題なのは「事」がおこらず、なんとなくたらたらと時間がすぎていくという点でしょう。戦争の進むにつれ登場人物たちの外面や内面に「事」がおみり、それぞれが変化していくところがきちんと書かれてないと演じている役者たちもなかなか役作りの手がかりがなく苦労します。そういう面でちょっとキビシイ台本でした。
 あ、最初に幕前で小芝居がありますが不要だと思います。ではけに苦労していたようですし。どうしても説明になってしまいますから。


●【終わりに】

  今回は久しぶりに創作が多く、皆さんのやる気が伺われました。既成は人数やなんやで制限が多くなかなかこれはというものがみつかりません。その意味で、それなら自分たちで書こうという積極的な志向を大変評価したいと思います。あとは、いい台本にはどうしたらなるかと言うところですね。まあこうしたらいい台本なるという特効薬はそんなにはありませんが、すくなくてもこんなことしたらやばいぞというのは明確にあります。とにかく作ってみて、そこで、やばい点をチェックして書き直していく作業が必要で、やりたいこと、書きたいことがはっきりしていたら、足りないもの、余計なものをみつけるのはそう難しくはありません。県コンクールでも創作で勝負したい学校は夏休みに気合いを入れて取り組んでみてください。夏期講習で創作脚本の検討会なんてあれば、つたない小知恵ならいくらでもお貸しいたしますけどね。ご相談ある方はいつでもどうぞ。
 すべての参加者の皆様お疲れ様でした。



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