第25回高知県高等学校演劇祭講評


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●全体の感想

 三日間お疲れ様でした。私もお疲れいたしました。年には勝てません。それでも、かなり面白いといっては悪いですが、時間と空間を満喫いたしました。
まずまず、バラエティにとんだ上演が行われ、良かったと思います。不満は、実験的な舞台や、はじけたお笑い志向の見られなかったことでしょうか。賞を構えるとどうしても意識してしまうようで、真面目にまとめようとするんでしょうかねぇ。しょうもないことです。そんなのは県コンクールでやればよろしいのであって、もっともっと演劇の可能性を追求してもらえたらなぁと思いました。無茶苦茶やっていいんですよ。だってお祭りですもの。おとなしすぎたのが残念。
もう一つ、裏方の技術水準の衰退が顕著に感じられました。これは、四国四県の中で最低水準です。特に大道具。まともに作った装置はゼロでした。もう、唖然。経済的問題や時間的制限もあろうけれども、技術の伝承が崩壊しているのがいろいろ聞いていてわかりました。ホントに何とかしなければどうにもならん状況。信じられない。幸い、事務局が夏季講習で遅まきながら大道具の講習をするようなので、絶対に参加してくださいね。もはや、これは業務命令レベルです。
これに関して、下記の本を、各校是非常備することをおすすめします。役に立ちます
 「THE STAFFザ・スタッフ 舞台監督の仕事」晩成書房
裏方の教科書です。というか、もはや聖書か?図等が豊富に入り、具体的ですので、即役立ちます。全体の芝居作りにも当然役立ちます。
事務局にもう一つお願い。メイクの講習をやってください。どうしていいかわからない参加校がありまして、のけぞりました。状況はそこまで来てるんです。こういう、基本的な技術の講習は事務局の責任として行うこと。高知県の状況を考えれば、事務局主導でやらなければ解決しません。よろしくね。

●高知追手前高校 「グッバイ・シルバーチルドレン」

 当方の脚本ですので、少し解説(いいわけ)をしておきます。10何年前の脚本で、かなりオーバーにデフォルメした物ですので、当然現在の介護現場とはかなりずれがあります。しかしながら、公的介護保険の制度が創設され、かなり改善されてはいますが、それは、システム化され見えなくなっているだけで、現在も現場の本質はほとんど変わっていないと私は思います。むしろ、表面上本質が余計見えなくなっているだけで、その分たちが悪くなっています。最近、近所のおばちゃんのお見舞いに行ってきましたが、そこでは、近代的な設備やサービススタッフに囲まれて、まるで、幼児のように扱われる表情に乏しい老人たちの群れがありました。一見大事にされているようで、しかし、それは老人のひとりひとりの尊厳を大切なものとして尊重されていると言うには、あまりにも痛ましい姿がありまして、いたたまれなく早々に引き上げてきました。そうして、それらは、善意からであれ、生活の便宜からであれ、普段の私たちの生活や目の前から、隔離され、目に見えないものとして私たちの彼方に存在しています。そうした施設のかなりの部分が結構市街地から離れたところにあるのは象徴的でしょう。私は、幼児語のような言葉をかけられ、奇妙なリズム遊びや、車椅子にあちこち運ばれながら集団としてくくられ管理され統制される老後はこの上ない、侮辱であるとしか思えません。生の最後はあくまでもそれぞれの個人の尊厳を最大限に生かす場で迎えたいと思うと同時に、そうした現実が普通の生活の場からいかに隠されてしまっているかに怒りを覚えるものであります。
この国は、いつのころからか、弱いものや、老人を切り捨てる社会になってしまい、しかもそれはなかなか表面には顕れにくい巧妙な 姥捨て山システムが働いていると、私は感じています。自己責任論しかり、格差社会しかり、強いものだけが生存の栄華をうたえる社会は、それはもうただの弱肉強食のジャングルでしかなく、そういう、社会を作るために人間はえいえいと努力してきたのではないはずなのに、それでも、なお、無慈悲な無関心と結果責任がまかり通るのは、なんとも腹立たしい限りです。
お芝居に戻りますと、脚本的には単純で、いいたいことは、青山看護師のラストの台詞につきまして、余り深みもない結構いい加減な脚本です。むしろ、眼目はファンタジー場面をいかに軽やかにコミカルに演じるかだと思います。見捨てられた老人たちの意地というべき物を悲壮にならずに脳天気にやってほしい。重苦しい現実はありますが、意味ありげにやりすぎるとあまりおもしろくありません。スピード感と軽快さをもう少し出した方が良かったのでないかと思います。
空間的に見ますと、ピアノがある分ちょっと拡散していて、役者もやりにくかったかと思います。ありす役がピアノを弾くのでどうしてもそこへ移動しなければならないので、やや演技的に苦しくなりました。中央にある椅子の固まりの意味がわかりにくかったのも一因かと思います。古田先生からも、むしろ中央の椅子の固まりの意味がわかりにくいのでないほうが、空間が自由に慣れたのではという指摘がありました。なるほど。その原因は、ピアノを使ったことではと。むしろおもちゃのピアノにして(おとはきちんとでるやつ) そのほうがありすも動けるし、空間が安定するのではと言うことになりました。
演技的には、ファンタジー部分の、軽快さとコミカルさをもう少し押し出した方が良かったと思います。その方が現実のしんどさの方に余計うまくつながるし、全体のスピード感があがります。全体に少し、もたもたした感があり、お話がころがりづらかったかなと言うところです。役者の皆さんもがんばってはいましたが、台詞を相手にきちんと届けることと、台詞の色に今少し気をつけられたら更に良くなるのではと思いました。

●山田高校 「ハンバーガーショップの野望」

 ほのぼのとした感じで見ていました。
ネット上で割合評判のよい脚本のようですが、ちょっと底が浅いようですね。それでも、もう少し生き生きした感じになる作品だと思います。気の弱い強盗がやがて立場が逆転していく経緯がもう少しテンポよく、コミカルに、間とスピード感があれば、小粋なお芝居になるかなと思います。アルバイト志望の学生の位置が脚本的に曖昧なのがちょっと惜しいですね。役者さんは、身体がゆれすぎです。自信がないというのを表現しているような物ですので、しっかりと舞台に立ちましょう。それと、素足で皆さんいるのはなぜかな?履き物履いていいんですよ。やりにくいと思います。装置的には、空間を支配しているようにはみえません。クロスもきちんとかけてください。みんな、もっとはじけてやりましょう。はじけなければこの台本はおもしろくありません。舞台にでたら自意識は捨てましょう。人間止めるぐらいの意識でね。
あ、強盗さんはキャラ的には台本にあっていますが、台詞が弱いですね。もう少しがんばらねば。覆面しているとよけいくぐもって弱くなりました。もちょっと工夫すれば良かったと思います。


●土佐高校  「Catchall」

 がらくた箱の魅力と生徒会に象徴される体制との比較が、今ひとつ不鮮明であるのが弱いところです。がらくた箱の中味と魅力が輝きを持たなければこのお芝居は成立しません。その意味で、がらくた箱が せいぜい 思い出 みたいな物でしかないというところは最大の弱点でしょう。 問題生徒の4人も何が問題生徒だかよくわからない。コスプレやオカルトなどふつうにあるし授業妨害も台詞でしか語られないからインパクト弱い。(コスプレももっと度肝抜くコスプレであってほしい)。話が進むにつれ、唯一の問題はいじめによる不登校ということになるけれど、「登校してるやん」ってつっこみを入れてしまった。生徒会の役員とのいじめの種明かしも表面的で一エピソードになっていて深みがないので、話が流れてしまう。
生徒会VSがらくた箱 とーいう構図がもう少し鮮明にならないとごたごたしてわかりづらい。いっそ、生徒会が問題生徒と言っていいほど、コスプレして体制の権化みたいな制服で出馬する方がよかろうと思う。ようは、誰が誰やらよくわからないのが問題です(台詞ではなかなかわかりにくい)。道具を置きすぎて物理的に演技の動きを制約したのもやりにくかった原因だろうと思います。平台置かなくてもいいし、あの人数なら舞台一面使った方が動きやすい。 それぞれの生徒役はがんばっていたし、もっと動けると思うので、キャラクターのわかりやすさと、それぞれの色をあざとくでいいから濃くしたほうが楽しめたと思います。
ラストのあたりはもう少し整理をしないと、なんやごたごたしながらおわってしまう感があります。幕開けとラストは勝負所ですので幕がきちんと下りたなという感じをもっと表現しましょう。


●高知小津高校 「スリヌケル」

 あなた方の大先輩でプロの劇団を率いている人の脚本。
面白いお芝居だったと思います。といっても、やはり脚本の面白さが引っ張っていました。
親子(この場合は母子)の問題はなかなかに葛藤が多い。このお芝居は母と息子という形だけれど、オープニングに出てくる二人の和服の女にみられるように、実は母と娘に違いない。実際、母と息子という組み合わせは葛藤よりも依存の問題が多く、父と息子というのは以下に克服するかという葛藤になることが多い。父と娘はおいておいて、母と娘は父と息子と同じように同性であるゆえ葛藤が多い(最も、年が行くと同志になる場合が多い)。特に、抑圧的な親のばあい、その葛藤は深刻になるだろう。
キーになるのは砂時計と白衣だろう。砂時計はたぶん流れ続ける親子の時間。うつぶせに寝るのは子どもの親に対する拒否感。というふうにいろいろ読み取りながらお芝居を観ていけるのが面白い。役者も一生懸命男の子ががんばっている。最も、長い沈黙や、間はどうも、呼吸や感情からというよりも段取りとして取っている感があるのは残念だ。お芝居の理解が今少しかな。空間的にももう少し照明で場を区切って、狭い空間(母親の子宮)にしてほうがみるほうも見やすい。休憩室(というのも象徴的だけれど)の応接セットはちょっとチープすぎ。職員室のを持ってきたという感じ。どうせなら校長室のをかっぱらってきてほしい。
さて、白衣の交換になるけれど、医者と立場を交換するというのは、いわば主体から離れて客観的な立場を獲得して自分を見つめ直すということかもしれないなと思いながら見ていた。その中で語られるキーワードは 品性。そうして、言葉を素直に受け取り全裸になる女性の患者の話。無防備であり無垢でもあるこの患者は 品性の 象徴かなぁなどと考えさせられる。 やがて、爪だけが伸びる植物状態の女(これもある意味では無垢であると同時に、胎児を宿している母の原型)の元に行く二人。白衣は脱いで、主体としての息子に戻るけれど、白衣に象徴される 品性は 息子に宿っているのだろうか。
そうして 砂時計は落ち続け、親子の関係はたぶん続き続けるのだけれど、息子は果たして、うつむけに眠るのを止め親子関係を受け入れられるのかはやや不分明である。というかたぶん、すり抜けようとしてもすり抜けられないものであるのだから。
でもって、問題は冒頭部分の女二人に象徴されるものが最後まで通底されているかというと、少しわかりにくい。そのあたり脚本にはないけれどあってもよろしいのでなかろうかと思う。
こうした、観念的な台本に挑戦する意欲は大いに買います。と同時に、高校生の肉体ではどうしても若すぎてしまい、馬脚を現すのは仕方がないところでしょう。でも、それであるからこそ、なお挑戦していくのが高校生の高校生たるゆえんです。がんばりましょう。それでも、お医者さん、衣装何とかしなさい。あれでは高校生の制服の上に白衣引っかけただけです。またスニーカーはないでしょう。せめて医者がよく履いてる便所サンダルにしなさい。


●高知西高校 「THE GENIUS」

 基本的にディスカッションで進むドラマでしょう。ディベート形式といってもいいですが。誰でも一度はぶつかる、何のために勉強しているの? という疑問ですね。大人の側の代表者の先生と疑問だらけの生徒が対峙する。でも、この生徒、全然努力や勉強していないのにうだうだ言うています。説得力がないですね。たんなる逃避かやけとしか思えない。対峙する先生も安直に説得されたらいけません。厳しく壁となって立ちはだからなければ。そもそも、起こる事件が逆立ちしていて父が仕事を辞めるというのが 事件 ではないでしょうか。それによって、うだうだ言ってる主人公の 現実の岐路があぶり出されて、さてどうすべきかというのが本来あるべきことのあり方でしょう。このままではドラマではなくて小論文の論旨をたどっているに過ぎないと思います。
何のために努力するのか、努力してもわからない人間はどうすればいいのか、生きるための勉強とは何かとか、そういう、一度は問い直してみる普遍的な疑問は、ぐたぐたな日常が、ある日突然破壊されるところから始まります。猿の調教師になるかならんかは、まずはそういう コト が起きてからの問題であろうと思いますね。ドラマの組み立てというものを今少し、考えておく必要があります。
役者はがんばっていましたが、台詞に変な抑揚があるのが気になりました。意外と気づかないことが多いのですが、くせになるとやつかいです。自分ではなかなか気づかないので、聞いてもらってチェックする必要があります。
装置的に言うとただの壁ではもったいない。べたべた、学習事項や、塾であおり立てるのを全面的にはるとかすれば、賑やかになるし空間的な意味が出てきます。

●安芸高校 「HERO SHOW」

 いかにもありそうで、少しマンガ的な感じもありますが、まとまっていてわかりやすいお話です。個々の場面ではがんばっているのですが、いかんせん、転換が悪すぎて、観客がおもろいなぁーとおもった次の瞬間お預けを喰らって、何も起こらない時間と空間を見続けなければいけなくなります。当然、観客のテンションは落ちて、また最初からということになり、効率が悪いことおびただしい。
この、作品のキモは、転換をいかにスピーディーにするかにかかっています。その意味で二面舞台は足を引っ張っていました。着替えの問題もあるんでしょうけれど、いかに素早く転換をし続けるかを第一に考えないと成立しません。だいたい先が読めてしまう作品ですので余計考える暇を与えない工夫が必要でしょう。役者は結構がんばっていましたが。
ラスト、ブルー舞台でシルエットでいいですからヒーロー・ショウやり続けながら幕というのがいいのでは。声だけではちと辛いです。

●岡豊高校 「葵上」

 三島由紀夫の台本。幕開きファンタジックな舞台装置の中、これまたファンタジックな衣装の人物。中央、玉座のような感もあるベッド、手前や上下に不織布の波のような感を与える置物(後にヨットの帆になるのだが)。この空間の意味が実はよくわからない。後に帆になる不織布を光がまたいで移動したりするので、余計にその感がある、結局、下から帆を立ち上がらせるためと、帆だけでは違和感があるので他の不織布で空間を埋めてその違和感を軽減しようとしたのではと感じてしまう。ちょっと、意味のないむしろご都合主義的な装置であろう。
幕間討論での質問でもあったが、1.光をスピーカーとプレイヤーの二人で演じたこと。2.葵を男子がやったこと。ねらいがあっての演出方法であろうかと思われたが、部の事情であったようだ。しかし、観客にとってし知らぬことなので、この方法はむしろ意味を持たねばならない物である。部の事情を逆手にとって、むしろ、光を二人でやる演劇的意味づけをするべきではなかったかと思う。スピーカーの存在感が大きすぎることと(意味ありげなテディベアがすごく気になる)、動きを分離することで台詞の距離感が喪失され、観客にとって感情移入が難しくなる危険性を考えれば、なおのことそれを問題にさせない演劇的意味づけが必要であろう。それが上手くできていないので単なる思いつきとみられても仕方がない所がある。
六条康子の造形が、中年と言うよりも、キャピキャピギャルっぽく軽いのもちょっと違和感があり、ねらいとすればうまくいっていない。光が悪い貴公子という感じではないので余計にそう見えてくる。台詞が安定していないので余計に存在感が薄れてしまう。留め袖もラストの蜘蛛の糸で絡め取るようなシーンに連なるためと考えればある程度納得するけれど、全体を通してみると少し衣装としての違和感が見られる。スピーカーと葵が少しコスプレ的な感じの衣装である分、康子の軽い人物造形とあわせていっそコスプレ的な物にするばよかったかもしれない。まあそれはそれで余計に混乱するかもしれないが。
看護婦がおどるシーン、曲の雰囲気と動きに違和感があり落ち着かない。曲を変えるかダンス?をかえるかしないとねらいが見えなくなってしまう。
光的男性原理を粉砕する、上野千鶴子ばりのフェミニズム視点からの強烈な批判かなとパンフを読んで期待していたけれど、結局、男性原理にそのまま飲み込まれている六条康子の「ハッピー」な姿で終わったのはちょっとがっくりでした。
全体的にちぐはぐな面が見られるので、むしろスピーカーを更に全面に押し出して、テディ・ベアに収束させていくのも一興かもと思った次第です。それならば十分に光からも康子からも離れうる存在となれるはずです。

●高知高校 「Blue Star~信じあう心~」

 生徒の創作脚本でがんばっていたと思います。ただ、他の脚本でもそうですが、根本の核になるたとえばいじめなどの扱い方がきわめて表層的で浅いです。だからして、解決策も、かんたんで、おいおいそんなんで解決かよという感じ。結局みんないいこなんだぁー。これでは、ちょっと。総じて、悪意の突き詰め方が足りない。もっとも、突き詰められてもそれはそれで問題はありますが、少なくても現実はこんなレベルではないはずです。もっと、とらえどころもない、ひそやかな悪意の集合が被害者に牙をむくのが現実です。そのあたりがんばってください。
ざしきわらし をくみいれるひつようがあったのかどうか、組み入れるならもう少し工夫をというのが正直なところです。去っていってはじめてわかる風の又三郎のような形にできればいいですね。
終わりがくどいというか、ラストが、4,5回あったような気がします。もっとシャツ切り終わりましょう。最低、最後のフィナーレは不要。
役者はかなり気合いが張ってましたが、登場人物のキャラと違うかなと言う感じもしました。たとえば、いじめられているはずの主人公の台詞の力がきわめて強く、いじめている方のキャラが弱いとか。ちょっと説得力が弱くなりますね。

●高知丸の内高校 「四姉妹の不在証明」

 ある日突然、不条理に断ち切られる家族の情景がよく出ていたようです。
生活感のある装置。しかも無駄な物はないことがやがて劇が進むに従い明らかになります。ただ、問題点が三つ。一つは事務机を使用したこと、足が見えていて違和感が出てくる。二つめ、テーブルクロスのかけかたがおかしいなぁと見ていたらミスではなくて、登場人物が隠れるシーンを観客によく見せるためということがわかる。これはご都合主義でしょう。三つ目、照明ともからみますが電話に当たる赤いスポットはやり過ぎ。
四人姉妹の空気感というか、情景がよく出ていたと思います。やはり、高校生では少し出しにくい年齢がわりとよくでていて違和感がなく、言葉は悪いですが年の功というところでしょうか。台詞も力まずにだしていて聞きやすい感じ。ただし、バーより後の席では少し苦しいところもあり、あの声で後まで響かせる発声ができていればなお良かったと思います。台本の良さにも助けられ、淡々と進み、それが突然立ちきられるところでパンと終わるおいしいお芝居でしたが、ラスト余分なお芝居があったのはちょっと惜しいです。 OB・OGが参加する形態は演劇祭ならではのもので、お芝居の幅も広がりますので、他校との合同上演も含めて、部員が少なくて参加できなくなりそうなところは十分検討されてよいかと思います。とにかく、参加を続けることで部活動を続けていくことです。部員ひとりでも活動することはできますので。

●高知学芸高校 「One More Chance」

 ワンアイデア・ストーリー。着想の面白さを緻密に展開する時に気をつけないといけないところでちょっとつまづいて、ややご都合主義になってしまった。メインアイデアは、同じ状況の少しずつ違うループ。その違いが、シチュエーションの違いになって笑いを生む。ギャグの面白さでないところがいい。笑いの本質の 差異 を生かしていると思う。話は単純であるだけに、わかりやすい笑いでもあるが、その笑いを生むための無理筋がいくつかあるのが残念だ。殺しのターゲットの住所を通行人に殺し屋が聞く?殺し屋が拳銃が入ったカバンを忘れる?秘密がばれたと言って白昼堂々と公園で目撃者を殺す?しかも秘密を目撃した二人は、たまたまそのとき出会った幼なじみ?何回も生き帰るチャンスを与える天使(!?)うーん、なんぼいうたち今時マンガでもそれはないやろ。編集者にしばかれるで。はっきり言ってつっこみ入れたら成立しないお芝居。
それでも、大人の態度で笑って許してしまうと、それなりに面白い。けれど、それでも、何度目かに殺す時間はたっぷりありながら小芝居うって女の子を殺さない殺しやはやはりいかんでしょう。ま、殺してしまったらそこで幕が下りてしまい、芝居が続かないからだけど。
役者はがんばって面白かったけど、そもそも成立しないお芝居を無理矢理しても仕方がありません。ファンタジーといえばそれまでだが、それでも、合理的論理性は確保しましょう。お話の穴を徹底的に潰す努力をしてください。
あと、三輪車は何の意味もなく寂しげに最初から最後まで舞台のはしに無慈悲にも捨てられていました。もっと、装置に愛を込めましょう。いらない装置は最初から置かないほうが装置への愛に通じます。あれでは三輪車がかわいそうです。

● 中村高校「出停記念日」

 ゆるキャラ的に余計なことはしない役者の演技は好感が持てますが、それにしても不思議な学校です。停学(出席停止)をくらった生徒の机と椅子はいったいどこへいくんでしょうか。まさか、椅子と机を担いで反省のための色んな罰をうけているのでもあるまいし。(それはそれで、なんかものすごく面白いんですが)そういう指導とそれを担保する空間をもつ学校があるならばたぶん文科省の査察が入るでしょう。観客的に視てみると明らかにラストシーンで空間をカラッポにするための仕組みでしかないと思えます。それは、ちょっと許されない卑しい仕掛けではと私は思います。
等身大の空気感を醸し出しているのですが、現実としてこんな真面目なお話をあきもせず延々一時間もディスカッションしているというのは、どうにも本当のこととは思えない。劇だからそうだといわれればそれまでですが、もっともっとチャランポランで、断片的で、色々隠して、仮面かぶって迎合して、適当に流して、わらかして、盛り上がったかと思えば、なげやりで、逃げて、そのくせ意識してというふうに、時間は流れるのではないかなぁと思いながらみていました。そういう気配も有りながらほとんどは真面目なディスカッション。疲れる関係でないかいと心配になり、逆にそういう関係が本当にほしいのかもと思ったり。台本がそうなってるからしかたないけれど、こういう教室はちょっとご遠慮したいというのが私の正直な感想です。役者の皆さんに全く責任はありませんが、総体として、この教室はうそくさいと私は思います。だからして、演劇的にダメだと言うことではなく、表現としては成立していたと言うことです。
● 春野高校「カチカチ山~御伽草子より~」

 安定して見やすくしっかりした存在感のある舞台であった。何よりも役者がよく、集中力が際だっていたと思うし、それが視ていて気持ちよかった。私的には台詞が一番聞きやすかったと思います。
お芝居の眼目はタヌキとウサギの造形につきるだろうと思う。女子高生の軽蔑の対象たる中年親父のいやらしさや、こずるさ、だらしなさ、意地汚さ、できれば加齢臭まで表現できれば言うことないが、まあそれは無理か。それでも、その中に密やかにだが凛然として存在する純情さ。なかなかにというかむちゃくちゃ難しい役柄だが、かなりごとよく役をつかみ身体の表現としてものしていたとおもう。ヘタレの光より格段の進歩で、部活動の中で、役者の訓練の方法論が確立されている証佐であろう。
ウサギは新人さんで、結構よくやっていたがもう一丁こーいというところ。看護婦の衣装もまあいいけど、それでタヌキを最初から終わりまでしばきまくっているとたんなるSM関係ですわ。というか、いくら純情タヌキでも惹かれることはむつかしかろう(観客から見て)やはり、ツンデレではないけれど、所々に見える、少女のもつ聖性みたいなものがないと逆に残酷性がきわだたない。所詮は全ての現象は相対的比較です。光がないと影は生まれないと同様に、潔癖な処女性がもつ残酷さは、相反するコケティッシュな魅力がないと際だたない。またそういうところに、アホな中年親父が執着するという構図が浮き出てこないし、それがないとタヌキの純情さ、「惚れたが悪いか」という切ない台詞が浮き立たない。ハードな口調と甘い口調がころころと入り交じってタヌキを翻弄するところがほしかったと思います。あ、それから、櫂(木刀)でタヌキを殺す動作、姿勢がなんか不安定、ちょっと腰高で、田を耕す感じだったのはやや違和感がありました。
一番気に入ったのは、作家の衣装。これだよ、これと言うぐらいのつぼにはまったコーディネートでした。なんか、夏の避暑地で、いい加減なおだ上げながら書き飛ばしているしょうもない作家にぴったり。上着がだだくさにさりげなくおいてあるのがまたよかったと思います。本筋からあんまり関係ないところに楽しみを見つけるのも観客の特権ですので、舞台の上に一寸の隙もないように小道具等を配置するのも演出の役目です。
寓話ですので、様式的な動きがもっとあってもいいかなと思いました。もっとも、そうすると型にはまるのでそれもなんだか類型的ではありますが。ま、微妙なところです。衣装的に言うと看護婦の衣装にタビはうーん、やはりなんだかなぁ・・。というか何で看護婦?物語の枠組みを病院にシフトして患者と看護婦というところでしょうけれど、タヌキの正気さの喜劇=悲劇であるからして今少し納得いくようないかないような。患者になればタヌキの正気さといえば語弊があるが、ほら、あんたとおなじだろ、という普遍性が損なわれるので少し違和感がある。まあ、そういう枠組み便利だけどね。
●土佐女子高校 「お泊まり会議」

冒頭のダンス、久しぶりに目の覚める思いをいたしました。非対称でありながら全体としては統一感のある世界を表現していて、これはなんかとてつもないことをやってくれるなーと期待感が爆発。んで、次の瞬間、台詞きこえないし(これは私の耳がありよくない性もあります)、おさまれば非等身大の極致のダンスのテンションとエネルギーと無関係などこかでみたような等身大の世界がひろがる?! 意味もなくこけおどしかい。がっくしとその落差に残念無念、トホホ状態。まあねー、それはそれでいいんだけど、いささか安全運転ではないですかい。演劇祭なんだから、もっと冒険してほしい。私の個人的な志向ですけれどこのダンスのイマジネーションが広がるお芝居が切実に観たかったですよ。四国なんか目ではないのに。個人的にはこのダンスが今大会の一番の収穫だと思う。押し切れよなー、ガンガンに。台詞の秀逸さでなく、身体を張った「魅せる」お芝居を観たいですよ。今の高校演劇は語りすぎ。魅せるということを忘れてしまってます。それでは閉じてやせてしまうばかり、魅せる楽しさ、視る楽しさを味わわせてほしい。
しかしながら、語る部分の等身大のお芝居の展開はそれはそれでよくまとまっていました、たぶん。というのは、ごめんなさい台詞があんまり聞き取れなかったんで推量の世界になってしまいました。役者を鍛えましょう。台詞が聞こえなければいくら優れた台本でもただのゴミです。(私は審査するときあらかじめ台本は読みません。だって観客は台本読んでお芝居見るわけではないですからね)それでも、それぞれの役者の個性はそこそこ整っていたと思います。ただ、お話的にどうしても手続き的なところがみられ、本題にはいるのが遅く感じられること(結局の所本題のポイントは一つだけなんで、遅すぎる。あとは遊びといったら悪いけれど、本当に必要な台詞かどうかは少し疑問符)と、演技エリアが狭いので混雑してしまい、ばたばたしているのは否めません。
けっこうみんな大好きな等身大というのは呪いのような物でお約束が多すぎ、こうなればこうなるだろうというのが予測できすぎ、このお芝居もその呪縛から逃れてはいないようでした。もっと、観客を裏切るたくらみがほしいです。めっちゃ壊しちゃえばいいのに。和解なんて予定調和の見本でしょう。リアルな現実ではそんなもんほとんどありません。ほんとの等身大ならたぶん絶対あり得ないはず。
どうしてもまとめたくなるんですね。これは、高校演劇の病理といってもいいし固定観念といってもいいと私は思います。いい加減こういう作劇術からのがれてもいいのではないか。がんばれ。そういううそくさい等身大が幅をきかす高校演劇は畸形的だとすら思います。そしてそれを評価する「高校演劇」は、私には、「現実」に対して屈従を迫るなにものでもないと思われます。いくら、身近に感じられるものであったとしても、それによって感動してしまう「私」というのは、なんなのでしょうか。それは、「現実」への安住でしかないだろうと私は思います。「現実」に屈服している「私」が、肯定されるのは、甘美な慰めでありましょう。癒しでもある。でも、それは、何の戦略も、戦術も持たない、根拠なく未来を信ずる怠惰のいいわけでしかないでしょう。本当に、等身大の「私」ならば、戦略を持ち、戦術を練り、粘り強く「現実」に刃を向け続けることなくして、なんで未来が語れましょう。願望と希望は違います。戦略、戦術なき希望はただの願望、甘えでしかありません。
演劇は少なくても希望を灯してほしい。等身大でやるならば、通俗的地平を脱出できるお話を要請いたします。安易に手垢のついた等身大のスキームにたよらず、いま、ここにいる「私」、「私たち」の、現実に基づいた戦略を提示してほしい。これは全ての等身大をやる学校へのお願いです。金魚鉢の中の世界で泳いでいるだけでは、願望を乗り越えることは難しいと思います。希望につながる演劇を期待します。ここはそういう力があるはず。もっともっと苦い現実と対峙できるだけの、戦略と力を持った演劇的空間を構築できると思いました。
その他。ラストの処理は明らかにNG。時空間がめちゃくちゃになってしまいます。お話の根幹に関わるところなので工夫がほしいところ、雑な感じを与えてしまいます。
土佐女子は今まで等身大のお芝居が原則ぽかったけれどそうでもないぞという身体の可能性をひろげられたことは収穫だと思います。大きな武器ですね。是非是非、非等身大の無茶苦茶なお芝居、あのダンスの世界の妖しく、戦慄する物語をと、個人的には密かに期待いたします。まあ、観客は無責任なもんですから、額面通り受け取られても困るんですけど、とりあえず、がんばってね。


●高知南高校 「ヒトツタリナイ~米川の秘密~」

 これが小説か映画であれは、このアイデアは説得力を持ち得たかもしれないけれど、舞台で生身の人間が表現するとやはり嘘くさく説得力に欠けます。台本的にちょっと苦しい無理筋でしょう。
楽しくやっているのは伝わってきました。ただ、その楽しさを観客と共有するための工夫が今少したりなかったような気がします。たとえば転換の工夫をもう少し考えないと観客は置いてけぼりになります。
劇中の色モノといえば語弊がありますが、手品、ダンス、歌 はもっと徹底的にショーアップした方がよろしい。みていて、少し気恥ずかしくなります。やるならやらねばです。


●高知工業高校 「ある一人の書き手の一日」

 正直言えばしょうもないお話ですが、微妙に面白かったです。あくまでも微妙なのがポイントです。観念的なお話というか、ストーリーらしいストーリーもなくだらだらと続きます。会話に中味がないのでよけいいつらく、こういうのがねらいなのかなと思ったりしますが、そういうこともないので結構疲れてしまう。というか、会話ではない。
たらたらとお話が続くのはかまわないといえばかまわないがもう少し観客のことを考えてくれてもいいよなぁと思います。演劇は、自分たちがやりたいことをやればいいと言う物ではないでしょう。観客がいなければ成立しません。舞台は基本的に何をしても自由ですが、観客をなおざりにしてはいけません。私はけっこう許容範囲は広いですが、それでも、イラッと来ました。で、その次に、あー。こういうのもありかなとも思いましたが、やはり、基本的にはダメでしょう。
ふしぎな雰囲気はありますが、それを意識的に組み立てているわけではないので、結局ただ時間だけがいたずらに過ぎていくという結果になりました。役者的には面白い味を出していたり、衣装も死神?に気合いが入っていたり(他が手抜きなのでアンバランス)と力が入っているところもあるけれど、総合する力が少し足りないと思われる。
自分たちが演じる ということは それを見ている人がいてはじめて成立することであるということを今一度考えてもらいたいと思います。



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