第24回高知県高等学校演劇祭


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●全体に関して】

 三日間お疲れ様でした。今年もさまざまな舞台が表現され日頃の活動の成果が発揮されました。以下観客席から見ていて気づいた点をいくつか述べておきます。今後のご参考にしてください。
 全体を通して感じたことは、高知県の高校演劇の「演劇力」とでも言ったものが、残念ながら低下しつつあるように感じられ、ある意味危機感を持っています。
演劇を舞台で表現するときのさまざまな要素、脚本、演出、役者、装置、衣装、音響、小道具、それらを色々と選択しながら組み合わせ、一つの作品として仕上げていくときに必要な力、要素それぞれはもちろんそれを統合する上での力、いずれも微妙に弱くなっている点が気がかりでなりません。
 それらを通底する弱さが、さまざまな要素のパターン化・類型化として噴出していました。一言で言えば、マンネリ化、新しいものを作り上げる力の不足です。パターン的なものになれるのはもちろん円滑にすすめる為には必要なことですが、それ以上先へ進もうとするときは足を引っ張る大きな障害となります。たとえば、ありきたりな設定やキャラやエピソードがダラダラと続いていく脚本、こういう台詞やこういう感情はこういう風にやるという類型化された演技、これらはわかりやすくはありますが、新しいものを作り出す力はありません。今までにないもの、新しい表現を舞台上に作り出すという最も演劇的な醍醐味を味わおうとするには逆にマイナスに働きます。いつか見た、どこかで見た、誰かがやっていたような演劇にしてしまっては、せっかく何十日もかけた労力がもったいないと思います。
 では、そうでない、新しいものを作り上げる、自分たちでしかないものを作り上げるために何が必要か。どういうことが必要か。何をすればいいのか。それは、別にどえらい苦労をしなければいけないものではなく、特殊なことをすることでもありません。誰でも、どこの演劇部でもできることだと思います。簡単なことです。演劇をつくる大きな要素、「観客」をもっともっと意識すること。見られてナンボです。県外のコンクール、地区大会で観客席には審査員しかいなかったということを聞いたことがありますが、これほど虚しい舞台はないですね。観客がいてはじめて成立するものが演劇です。演技するものと見るものとがいればそれで十分演劇だし、それ以上も以下もない。客にどう受けるかと言うことを意識せよと言っているわけではありません。誤解がないように。どのように自分たちの演劇を見せようと意識するのか。演出も役者も装置も効果も衣装も、作る側の視点だけでなくて、見る側の視点を常に意識してください。自分たちだけ気持ちよくやっていても、観客が気持ち良く観ているかどうかは保証の限りではありません。もっとも、観客は心優しいからよかったよーっと言ってはくれますが。観客の目をもってお芝居を作っていくことを常に意識しているように。自分が観客ならこの演劇をどういう風にみるかなーっと思って、これじゃまずいと思ったら、では、どうしたらよいのかとその方策を必死で考えてください。きちんと観客の目でみると、多分誰でもこれでいいやとは思わないでしょう。
 では具体的にどうしたらいいのかというヒントは実は今回の優秀賞に選ばれた3校の舞台の中にあります。完全なものではありませんが、少なくてもそういう努力をしている。参考にしてみましょう。
 たとえば、岡豊高校の舞台。これは、ゼロからどうやって新しいものを作るかというとき技術的に参考になるでしょう。自校の演劇部にふさわしい既成脚本が見つからず、自分たちで脚本を書かねばならなくなったと時、あるいは書きたいことがある時、誰もがさっさと書ける力をもっているわけではありません。ではどうするかというと、三人寄れば文殊の知恵で寄ってたかってお話を考える。ただし、ただアーデモナイコーデモナイというのではなくて「冷蔵庫をあけるとうさぎがいた」という「縛り」を掛けたのが大事な点です。あとあと、一つの物語にくみ上げていくとき、大元の根っこを押さえているので、深さと連関が自然とできてくるのが利点ですね。ただし、下手な鉄砲数打ちゃ当たるのことわざ通り乱射することが絶対に必要です。4つエピソードがありましたがこの場合最低3倍できれば5倍のエピソードが絶対必要。一人で出来なければみんなで無理してでも作る。20の中から16捨てる。この捨てる作業の中で観客としての目を働かすといいでしょう。もちろん、これだけで全てうまくいくというわけではなくてこの後の作業が重要なのですが、それでもスタートとしてはうまくいくはずです。突飛な設定を「枷」「縛り」として、その中で苦労して頭働かせるだけで想像力と創造力の訓練になります。
 演出で新しいことをしようとするのは、かなり大変ですが、それでも単なる交通整理でなくて、他の学校と違う見せ方で「脚本」をどう表現しようかと考えたとき、ヒントになるのは春野高校の舞台でしょう。この場合、舞台を、リーディングの世界に組み替えた所に冒険があります。成功するかどうか成功したかどうかは問題ではなくて、そういう試行をするところに演劇的な魅力が生まれます。また、リーディングは演劇でない、あるいは演劇以下?の格下の存在という無意識の思いこみはありませんか。リーディングも立派な演劇だということ。単に台詞をただ台本に向かって読んでいるのではありません。組み替えた時点からリーディングの力が全体の演劇性を高めていくし、また高めなければ組み替えた意味もないでしょう。既成の優れた脚本を上演するのは役者を鍛えます。演出も鍛えます。なにせ、脚本に傾注する努力の時間が必要ありません。時間不足に悩まされる演劇部はもっともっと上質の既成台本に挑戦されると良いでしょう。もちろん、冒険に挑戦すべきだと言っているのではなく、台本通りにやっていっこうにかまいません。ただ、それでも隙をねらって自分たちなりに何とか観客に面白く見せようとする魂胆は持っていて欲しいものです。オリジナルを何が何でも超えたるで、という気概が必要です。春野のように世界を組み替えるというのは結構つかえるのですよ。最も玉砕するかもしれませんが、それはそれで演劇の冒険としてよし。もって瞑すべしです。
 私たちとてもそんなのできません。思いつかないし、という部には、高知中高校の取り組み姿勢が参考になるでしょう。この舞台は、特に、何が新しいとかいうものは見あたりません。パターン通りの作り方です。でも、パターンに徹しまくると意外とまた道は開けて来る場合もあります。それは、この舞台はとにかく何でもかんでも詰め込んで観客に見てもらおうという意識があるからです。当人たちが意識しているかどうかはわかりませんが、見て、見て私たちの舞台をという初心を徹底しているのが伝わります。なくてもいいダンス、無駄に凝った衣装、無理筋の早変わり、しかし、それらの裏には自分たちの持っている技量を裏方も含めて観客に向かって一生懸命に展開している方向性がみられます。成功しているかどうかは問題ではありません。一つの世界を観客にどうやって伝えるか、その他には何をしたらいいのだろうかと、どん欲に取り組む。そういう方向性が必要だと言うことです。時間に追われて十分なことができなくても、その縛りの中でとにかくもがく。演劇部の醍醐味ですね。苦しいけど楽しい。その苦労と努力に支えられて楽しさが観客に伝わり、観客を楽しませる。そういうことでしょう。
 そういうわけで、コンクールに向けて、観客にどう見せるか、何が足りないのか、どうすればいいのか、こうしたらどうかと、さまざまな演劇力の向上と冒険を切に希望します。道は遠くかなり険しそうで遭難するかもしれませんがあきらめず、しぶとく、一歩でも先へ歩いてみてください。へたりそうになったらいつでもご相談下さい。ライオンのように崖下に突き落としながら、這い上がれるように少しアドバイスをいたします。とりあえず、お芝居の土台となる脚本についてはお手伝いできると思います。土台がしっかりしていなければ安定した家は作れない。
 脚本が全てではありませんので、お芝居の問題をオールクリアできるわけではありませんが、少なくても崩壊することはないと思います。具体的には戯曲講座など開いてみても良いし、その中で既成脚本の分析、脚色、創作のヒントなど土台作りのお手伝いがそれなりにできると思います。事務局にお世話を願い形あるものにできればと思います。

●【全体に関して。補足】

 裏方関係についていろいろと気になることがありますので、まとめて書いておきます。今回は結構壁が多かったり、曲が多用されたりと、それはそれでいいのですがでは、それに演劇的な意味があるのかというと実はそれほどでもない。確かに豪華なセットはおおーっと思うし、音楽は楽しい。でもそれって果たして自分たちのお芝居を助けてくれている? 逆に足引っ張ってない? 実は残念ながら今回はほとんどの学校が足引っ張るか、せいぜいまあ無害に終わっていました。
 心当たりありませんか? 気の毒ですが無駄な努力です。部活動の裏方としては活躍の場があったので、意味もあるしそれはそれでよいことですが、舞台のためとしては残念ながらトホホなところが多かったのが現実です。
 ゼロベースで考えることと引き算することをおすすめします。台本がきまったとしましょう。演出と裏方が考える手がかりは何でしょう。作者の指定が色々あってそれを忠実に実行することでしょうか。違うと思います。それは作者の趣味であったり、あて書きされた事情によるものであったり、その時の予算であったり、ともかく、あなた方の現在の演劇部の事情とは関係ない要素が多々絡まっていることがあります。再度考えましょう。台本で一番大事なのは何でしょう。その台本がたとえば500年後まで語りつがれるとして、残っている要素はなんだと思いますか。
ギリシャ悲劇をみればわかります。それは台詞と人の出入りがほとんどです。実際そうですよね。古典といわれるものはそうでなければ逆に困ってしまいます。ギリシャ時代の音楽を指定されても。
 ゼロベースで考えましょう。作者の指定はあえて無視してください。高校演劇で500年、1000年生き残れる脚本なんて多分ないでしょうから。あればお目にかかりたい。それぐらいのもんです。虚しいと言えば虚しいですけど。それでウダウダ言うような作者のならやらない方がよろしい。この台詞のやりとりと、人の動きの中で、何を表現したいのか、そしてそれを効果的に表現していく上でなにが、自分たちなら本当に必要なのだろうかと。そうして、さまざまなアイデアをまずは過剰に盛りつけたらよろしい。
 次は引き算。それぞれについて、これは絶対必要なの? それともなくてもいいの? 予算と時間と労力提供が限られる高校演劇ではけちけちベースで行くしかありません。
たとえば装置は物理的な存在ですから、その空間を決めてしまいます。演技の場を不自由にしてしまう装置や不要なものがある装置はそれだけでどうにもバランスを崩してしまう。音楽は感情に強く働きますから、手垢のついた説明的な音楽は危ない。衣装はそれがドーン、と視覚に訴えますからどうしても印象を左右する。
 実例を挙げますと、追手前高校の装置。幕が開くと結構いい感じのバランスを配慮した風景があります。フムフムと見ているとやがて、ん? と思い始めます。おいおい、ちょっと広くないか、この部屋。実際、登場人物の人間関係の濃淡を表現するには少し広がりすぎていました。狭めればよいのに。広げた分役者が動きやすくなったのですがその分観客の視点が広くカバーしないといけなくなり観客の焦点がぼけやすくなります。でもって見ていくと、ここは装置としては、全体の空間と、引越の荷物の片付けが関係してくることがわかります。見事に本はありますね。片付け途中の本や、段ボール箱もころがっています。雰囲気出ていますね。でも、いつまでたっても片付きません。いくら話が進んでも片付かない。日付が変わっても片付いていない。それは、いくらなんでも……。リアルな話なだけにほとんど不条理の世界へ突入してしまいます。おまけに最後の方で、ワーッと荷造りするんですが、今まで丁寧にひもでくくっていたのにまとめでざっとそのまま段ボールに詰め込む。あなたねぇと言いたくなります。これは装置のご都合主義。お話にあわせて引っ張ったり縮めたり。装置は物理的空間です。話の進行に合わせて都合良く利用してはちょっとマズイ。微妙にシンメトリーな本棚も景観の良さを作る為に置かれていたようですが、むしろ人物の不安定なこころの揺れを表すならシンメトリーでない方がいいのでは。まあ、あの量では実際には時間あれば片付きます。この舞台の場合むしろ過剰なほどの本がある方がよいかもしれませんね。装置を絡ませていたのはいいけれど使い方がちょっと都合良く使っていたのが残念です。
 音響について言えば、これはもうどこの学校と言うことなく安易に使いすぎです。著作権料をがっぽりむしられるところ。技術的にも危ない。使いすぎるときっかけが多くなってミスの機会が多くなります。ミスは興をさまさせる。演劇の空間から現実の空間に引き戻させてしまう。多くの学校の裏方にとってこの劇場で演技ときっかけをあわせられる機会はリハーサル一発。非常に危ない。案の定壊滅状態。外すハズス、面白いように外します。消し方もすごーく雑。お芝居を思い切りもりさげました。
 しかし、これは裏方に全責任をかぶせるべきではない。さまざまな制約に縛られざるを得ない今の運営システムではそれを裏方に求めるのは酷です。裏方には習熟するチャンスは事実上与えられない。学校の稽古の時にいくらうまくいっても劇場の本番で失敗すればそれまで。裏方は失敗するのがあたりまえ状態にあることを出場校の皆さんは自覚する必要があります。
 音曲はできるだけ絞りなさい。カットイン、カットアウトでなくてフェードイン、フェードアウトならまだしもカバーしやすいですが。そういうところを考えるのも戦術です。選曲無謀さについてはもう言いません。有名な曲についてはよっぽどでないと手を出さないこと。これだけ。効果よりお笑いの元になる。まあそれがねらいならとやかく言いませんがそういう笑いは浅いです。
 しかし、そうした技術的なことよりも一番問題なのは、その音曲(効果音も含めて)がそのお芝居にとって本当に必要なものなのかどうかの点の検討が安易になされていることです。音楽を使うならできるだけ知られていない曲かオリジナル。有名な曲はそれの持つイメージに頼ることになり、それだけ手抜きということと、イメージを引きずられて逆効果になる危険性もあります。単に情調を刺激したり、ムードを作るのではなく演劇の構造上絶対に必要なのかどうか、使ったことでどのような意味を付け加えられるのかということをもっともっと考えてください。そうでないと音が単なるお芝居の彩りになってしまいます。それではこまる。演出のなかでよく考えることをお願いします。
 照明についても同じことが言えます。照明の役割は本来舞台の上の役者の演技をしっかり観客に見せるためにあります。顔が見えないままに台詞を言われても特別の場合は別として伝わるものが減ってきます。モノローグなど特にそうですね。凝るなつつくなです。基本は少なく色々と凝らない方がよろしい。凝るなら基本のバリエーションで勝負した方がまし。裏方がなかなか現場の機器の操作になれにくい状況があるので、ホリゾントを使う必要がどうしてもあるもの以外は大黒閉めてやったほうが操作も楽だし、芝居も引き締まりやすい。照明つつくのは楽しいけれども、散漫の危険性とミスの危険性がある。どうしてもという芝居以外は照明は絞ること。暗転に関しては、これは演出の責任範囲が多々あります。暗転可能な限りやらないように。芝居をとぎれさせたところが多すぎました。もう少し照明の係が習熟する機会がないと今の状態は変わらないでしょう。コンクールの時は色々やりたいところが多いでしょうから事務局にはできるだけ研修機会を多くとれるようお願いします。
 装置、音響、照明いずれも芝居を助けるものであって足を引っ張るものではありません。徹底的に引き算をしていって、舞台にとって本当に必要なものだけに絞ること。舞台には余計なものはいりません。過剰に使用することで効果を上げる場合もありますが原則はいらないものはいらないとするほうが良いでしょう。実際、裏方訓練としてやるのは別にしてその時間を稽古に当てた方がマシですしね。
 ある程度固まれば、そこではじめて作者の指定を考慮してもいいでしょう。すりあわせて、できるだけ自分たちで新しいものをつくることができるかどうかを考えたらよろしいと思います。

【各校への講評】

●高知追手前高校 「ホットチョコレート」

 リアルな情景の中淡々と話は進んでいくのだが、この世界を演劇として構築する際の重要な要素は役者のハーモニーだと思う。演技、声、動作、間、テンポなど、厳しく計算してはじめて「自然さ」が出てきて一つの小宇宙が作られる。そういう意味では、多分構築する時間が足りなかったようだ。集団の場面で、ともすれば台詞が混乱する。アンサンブルがとれない。音楽と同じで、全体のハーモニーが維持できない。それぞれに健闘するのだが、それが、「自然さ」を醸し出せなくなる。単なる台詞の応酬となり、「場」を形成できていない。目をつぶって聴いてみると、それぞれ個性ある登場人物の勝手なやりとりからできあがる空間を作り上げることに失敗していると思う。誰がその台詞をいってもよいような段取りになってしまった。「自然さ」を構築するのは実は難しい。日常の場ではなくて、非日常な場である劇場で、観客に日常の「自然さ」を感じさせるのは、観客の協力が必要になる。観客の身体感覚が覚えている「自然さ」と関わってくるからだ。現実の場ではない以上、その「自然さ」は、擬似の「自然さ」であり、役者の身体感覚と、観客の身体感覚を一致させる第二の「自然さ」といってもいい。役者と観客のそれぞれがもつ「自然さ」は個々の役者、個々の観客の身体感覚の中にしかない。まずは、役者間で組み立てていかなければならないが、それは台詞の中から浮かび上がる登場人物の(架空の)身体感覚を把握することが必要となる。そこがスタートだろう。なぜこの人物はこの台詞を言わざるをえないか、まずはそこから。
 「自然さ」を表現するには、たとえば、登場人物が均質にならないために、役者の声質やスピード、リズム、間、それぞれの個性化も確かに必要だろう(高校演劇の現実からは難しく、どうしても同質の役者を選ぶしかないのだが)。でも「自然さ」を形として表現するには、個々の役者の元々持つ身体感覚と、戯曲上からうかがわれる登場人物の身体感覚をうまくすりあわし(同じにするのは無理でしょうし、する必要もない)、その学校が上演するお芝居としての、身体感覚の「自然さ」をつくることがもとめられる。ややこしい言い方ですがそういうものだと思います。方言使えば日常の「自然さ」が生まれるとか言うことではありませんからね。
 その意味では、このお芝居の場合、どうも「段取り」先行の「不自然さ」が生まれていたような気がします。多分、登場人物の身体感覚をつかむことがそれぞれの役者にとって不十分だったということと、役者自身とのすりあわせがまだできてなかったところに原因があると思います。
 もう一つの問題です。こういう既成脚本はあるいみ不自由です。高校演劇の場合、多かれ少なかれオリジナルはあて書きされることが多い。作者が意識しようとしまいと。不特定多数の役者を想定して書かれた台本はまずないと思わなければならない。多かれ少なかれ自校のオリジナルな役者が前提として存在する。だから成功した作品であればあるほど、その表には出てこない影のファクターの力が劇の成功を支えている。後から上演する学校は実は最初からハンディキャップを負っているのだが、上演する側にはわからない。空気みたいなものだから。従って初めから演出力と役者の力がある水準以上でないと単なる薄いコピーに終わる危険性が多い。もちろん、好きだからやるんですというのは全くかまわない。かまわないが、では、なぜ自分たちはこれが好きなんだろということを深く掘り下げてもらいたい。オリジナル上演校とは自分たちとは違うから、絶対、その好きな理由はオリジナル上演校と違うものがあるはずだ。というよりなければならないだろう。オリジナル上演校と同じことをやるのでは上演する意味がない。稽古とは違うから。+アルファ、自分たちで発見した新しい意味、それをみつけるべきでしょう。既成脚本をやる意味は、人数合わせの消極的理由ではなくて、もとを作った人たちがみつけられなかったものをみつけてそれを自分たちが表現する、是非表現したいという積極的理由があって選ぶ時うまれるはずです。

●土佐高校 「”Love&Pinch"※ひと席空いてますよ、お嬢さん。」

 うーん、脚本は慎重に選びましょう。既成脚本を選ぶなら脚本の善し悪しを見抜くのも演劇力です。ショックを受けたら申し訳ないですが、正直に言ってこの脚本はグダグダで問題外です。いろいろな役者がいてもっと面白い演劇をつくれそうなのにまことにもったいない。
 生徒会と奉仕活動部、ふたつの対立。ありがちですが、持って行きようによればコメディーとして盛り上げるには都合がいい設定なんですが、肝心の奉仕活動部の内容がよくわからないし、本題に入るのが遅すぎる。事件はもっと早く起こらなければいけないし、異様な部活ももっと際だたせる必要があるでしょう。起こる問題も今ひとつ鮮明でない。芝居を動かす力が弱いと思います。戦隊モノならもっとドギツクやっていいけれど中途半端で、関西弁も活きていません。疾走感がないですよ。事件がショボイので誇張の力も働かないし、戯画的なキャラクターも生きてきません。こういうタイプはやるならやらねば。思いっきり嘘くさい法螺吹きミッションがないと生きてきません。ちまちました事件ではギャグ的なキャラも生きてきませんね。
 装置は、ない方が天衣無縫なアニメ的アホキャラをいかせると思います。ほとんど使わないし、場を狭めるだけでした。もっともっと暴れる必要があります。生徒会なんかもっと高慢というか傲慢に、衣装や履物、持物などこれでもかと言うほどに差別的にすべきでしょう。ほとんどやけでないかいというほどに。昨年の作品はもっと暴れていたと思いますよ。話のオチが、なんていうか「お涙ちょうだい」になっているので余計に。
 役者さんが十分生きる脚本をまず選定する努力をしてください。決して妥協せずに。なぜこの劇を上演しなければならないかということがまずはスタートです。

●岡豊高校「ネギ・ウサギ・ハカセ・ニンジン・レイゾウコ、ときどきスミオ」

着 想の出発点はまことに面白い。ちょっとドキドキします。しかし、4つのエピソードが並列的にただ並んでいるだけではドラマになりづらい。おでんの串がありません。おでんの種もあまり深くはなく、はー、そうですかー、で終わっています。やばいので最初と終わりにまとめが入りますが、エピソードに関連性や広がり深みがないために、で、どうよと。
 うさぎが何ナノかの提示は必ずしもなくても良いとは思いますが、それならそうで通底する、不安感、不条理、不気味さなどは最低限必要であると思います。「悪意」の種のような気もしますがそれでなくてもかまいません、うさぎだけでなくもう一つ何かが全編を覆わないと、怖くも不安にもなりません。これでは、あっ、そう、で、さっさと夜は明けてしまいます。それではいかんでしょう。エチュードのよせあつめにしかならない。劇の構造をしっかり生み出すには絶対的に不足です。ここで全力を尽くさなければならない。これでは細切れコントです。役者さんが頑張っていたのにもったいない。特に男の子。力演していましたね。黒衣的な衣装は少し疑問があります。ちとあいまい。どうせならすっぱり黒衣と+アルファの衣装替えでやればいいのに。中途半端です。
 全体を通した、「うさぎ」とは何か。なぜにみたらやばいのかに関する強固な論理と、各エピソードの連関性がないためにバラバラな舞台になってしまったのが痛恨の極みです。着想はホントに面白い。うさぎが冷蔵庫空けた時、何か言っていたらすごみがある面白さになったのだが。

●高知高校中学校「RDC」

 おでんの串をつくろうとして一生懸命努力した跡が見られます。ただ、その努力が成功したかどうかはまた別ですが、その努力は買いましょう。演劇を作ろうとする意思が伝われました。自分たちの持てる力をいろいろ駆使して物語を紡ぐ努力をしていました。
もちろん問題はあります。「夢」という場を設定したとき、まあ、異世界といってもいいですが、手続き的にいかにその空間に引き込むか、またその世界をどういう風に魅力的に するか、更に どうやって現実に帰還するか。なかなか苦労していました。
そのため、最初と終わりの説明場面、多分衣装替えのための時間稼ぎのダンス、お互いの主人公の役割入れ違え、工夫していました。ただ、それが成功していたかというと、努力は大いに買いますが、残念ながら少しうまくいっていなかったように思います。
 問題1.話が少し早く夢に突入してしまった。 主人公二人の抱えている問題があまり明らかにならないうちに、夢に突入してしまったので、夢の中で、あれこれ説明せざるを得なくなってしまいました。お話の作り方とすれば夢の中ではもっと夢に忠実にガンガンいったほうが面白い。その中で主人公の方向性を出せばいいのだが、説明に時間を取られ、夢の中のドラマがうすくなってしまった。
 問題2.夢の内容。過去の中世か何かの夢1では、どうも状況がよくわからない。人物が少ないので無理はないけれど、その分説明が入りすぎて、味が薄くなりましたね。ドラマというよりお互いの慰め合いになりました。夢2の未来の現実的な場面でも同じ。こういう構成では、実は夢の場面はもっともっとドラマ的に構築しないと面白くありません。 問題3.二人芝居だと言うこと。基本的にはこれは二人の芝居ですから現実と、夢1と夢2の3場面で連関しながら内容を深める必要がありますが、あまり深まらず並行的に話がくるくる回っていました。おしいなぁ。
 問題4.転換が問題です。衣装の早替えはなかなか難しい。たとえば中世?の衣装に主人公を帰させるためにダンスで時間稼ぐとか、ちと無理筋です。まあダンスも皆したいのだろうとは思いますが。制服のままでいっこうにかまわないと思います。その方が夢の中だと余計に強調できるのでは。話もスムーズに流れるドラマの時間もとれます。異世界への転換はできるだけスムーズに行くことが大事でしょう。
 ともあれ、主人公二人はがんばっていましたね。中学生ですから、来年のコンクールまで気合い入れでがんばってください。期待していますよ。夢前案内人の3年生お疲れでした。でも、少し出すぎです、最後の演劇祭ですから仕方ないですが、夢先案内人としてはもっとつつましく、さりげなく、むしろ出るか出ないかの方がよろしい。どうしても無理矢理「夢」にひきずりこむ手法はやはり手続き的に少し強引ですね。まあ、料金とらないボランティアみたいなお店ですからよしとしますか。しっかり強欲に取ればいいのに、それが多分夢の代償でしょうから。ある意味いろいろなサービス精神に富んだ舞台だと思いました。

●高知西高校 「ソワールの唄」

 幕が開くとビジュアル的にいい感じの装置が浮かびます。よく作られた壁です。が、よく見ると「場」がよくわからない。内なのか外なのか。廃墟とありますが、多分その内部でしょう。でもベンチがあるので外を意味する? ツタや外箒での掃除も外を表現するし。でも机やいろいろな置物もある、皆座るしやはり内か……、とつい余計なことを考えさせる装置は「場」の設定を決めるものとしてはちょっと問題があります。ビジュアルを決定するだけに慎重な計算を。
 さて、ドラマとしてみた場合、不在の先生が大きな位置を占めます。要は先生のドラマで、それを生徒たちが代わりに展開していく形になるんですが、こういう場合、生徒たち自身の中にドラマが展開されないとちょっと辛い。いない人は出て来られませんから、観客にとっては目の前の生徒たちのドラマが全てです。その意味で生徒たちのドラマが弱いので、背景の先生を浮き上がられるのに苦労していたように思います。結果「遺書」の手紙で全面展開という手段に頼らざるを得ない。それは、ちょっとね。あの中味を生徒たちの中で展開しなければいけないし、生徒たち自身の問題も展開しなければやはり唐突感は否めないでしょう。入れ子構造になっている劇の構成をもう一度ばらして展開し直す必要があると思います。遊びの部分が遊びでしかないのも残念。劇の全体と絡んだ遊び部分であるひつようがあり、問題自体の提出もちょっと遅すぎるというのが実感です。

●安芸高校「FAR!」

 ゆったりと展開する家族の情景はけっこういい感じなのですが、何が問題で何を目的なのかがなかなか明らかにならないため、見る方としてはもどかしくイライラしてしまいます。隠されている人間関係が過去現在にわたりちょっとややこしいために、それをできるだけ早く見る側に対して明らかにした方が、全体の内容を豊かにしたのになーと。全容をちょっと引っ張りすぎた感があります。座敷童みたいな幽霊の登場も、いくら夏のお盆の時期といっても出す必要があるのかなあと、台詞を言わさないのは正解ですが。二人の抱える問題も欲張って出したのはいいけれど、深める時間が少なくて切実感が出てくるには少し物足りない。全体を通して貫いている「少年と犬」のメタファーもそれだけが浮いてしまっている感があってもったいないなーと。
 暗転処理に結構問題があり不要な場面が劇の連続性を壊しています。できるだけ少なくすね工夫をしてください。全体として丁寧に作っているだけに、劇のテンポやリズムを壊さないよう常に意識する必要があるでしょう。

●春野高校「授業 喜劇的ドラマ」

 作品全体を女学生の台本のリーディングの世界に構築し直した荒技の成果だと思います。事情があったようですが、それを裏技ともいえる演出で切り抜けたのは非常に面白いと思いました。いつでも使えるわけでもありませんし、成功するわけでもありませんが。というか、できれば使わないのに越したことはないですね。役者の存在感もそれぞれ三人にあり(読んでいるだけでもそれはそれで演技としてやるには大変力量がいる。リーディングの演技は結構難しいです。)偏頗な世界の構成があまり気にならず普通のお芝居として見ることができました。
 女中さんの怪演、きびしい身体訓練の成果でしょう。早いスピードのすり足にもかかわらず着物の着こなしが乱れない。声の通りもクリアでよろしい。日常の不断の基礎訓練を単なる苦行やスケジュールとせず、演技が要求する身体を作り上げるためのステップと言うことをもっともっと多くの演劇部員は自覚しておくべきです。なんとなくやる基礎訓練は意味がないし疲れるだけです。
 教授役も初舞台にもかかわらず力演していました。もっとも途中でヘタレかかったのと、緩急の技を使える余裕がなかったのはいたしかたないところであろうと思います。努力に敬意。練習して次は観客としても心地よくゆったりと世界へ浸れる演技力を構築してください。やさしーく熱心で穏やかなはずの教授がだんだん悪鬼羅刹のごとくなっていく過程はやはり、強靱な体力としなやかさをものにしなければ難しい。と同時に、リーディングという組み立てをした結果、教授の一人芝居ということになりますが、それがもう少し徹底して演出しきっていたら、よりリーディングが生きてきたでしょう。
 ラストの「おしまい!」が効いていました。あれで幕が下りてもいいかなと思ったけれど、それではちょっと余韻がないかなぁとも。
 オープニングのくだものの色彩感と空位の玉座がビジュアルとして力があったと思います。くだもの(桃だそうです。リンゴなら握りつぶすとウヮーオですが、そうもいかないでしょうね)の生々しい果汁がとびちるのがエグかったですね。怖い。ではその怖さがどこから生まれるか。戯曲にはそういう指定はありません。演出がみつけたこの戯曲の意味を形として表現したものですね。終幕ですので全体の語るべきものが収斂されて行くとき、それを効果的に表現する小道具。
 逆算です。女中の持つ意味を劇全体の根本に据えようと考える。では、それを明確に表現するためにどうするか。当然伏線部分ではなく終幕で明確に表現するのが望ましい。台詞以外にどうしたらよいか。教授の全人生が女中の手に握られる。それを強調するためには何が必要か。というわけで、くだものをかじって握りつぶすという行為を導きだし、そのためには、後から持ち出すのではなくてテーブルの上に果物皿を置いて盛る。幕開きの見た目では、色彩感のある飾りのように見える。装置、あるいは小道具としての伏線です。必要なものを考えていく。劇の進行とは逆から見て最も効果的な時に焦点が合いやすいようにしていく、そのためには……という風にしたのかどうかはわかりませんが、まあそういうことです。戯曲に「書かれていない」ことを視覚化する。演出ということを考えるヒントになると思います。

●丸の内、高知工業高校 「居場所」

 合同の舞台はなかなか苦労がありますが、やはり出場してなんぼの世界ですので、人数がそろわなくてやばい学校は、次世代を育てる意味でも積極的に取り組んでください。かつては、この指止まれで合同形式でやったこともあります。交流をはかる意味でも運営に差し支えなかったら事務局で検討しておいてもらいたいものです。まあ夏季技術講習会の合同公演もありますけれど。
 さて、この舞台、演技のパターン化の罠にはまっているのが見られました。胸に手を当てて訴えるとか、手を広げて応答するとか、顔下向けて少し背を曲げてうなだれるとか、日常の生活の中で普通あんまし見ないですよね。舞台の上だけでのパターンのお約束演技は避けましょう。というか、それは「段取り」です。演技とは言いません。パターンではその役が持つ身体感覚が表現できません。工夫しなくても楽なのでどうしてもやりたくなるんですが、できるだけ台詞の気持ちになって、自分なら普段こういわなければならないなら多分自分はこんな感じで言うだろうとか、全体の講評で書きましたので省きますが、パターンはやらないという固い決意で望めば身体感覚の表現が少しでも前進すると思います。
 空間が少し広すぎて、役者が所在ない感じでふわーっと立っているのが気の毒ですね。空間を狭めるとお互いの物理的心理的距離感も取りやすくなり、役者同士の関係性が密になります。他校も空間を広く取りすぎているところが散見されました。無駄に広いとではけも間抜けになります。演出上必要でなければできるだけ狭めること。第一普段稽古している空間はもっと狭いはずで、そこでお互いの距離感にあわせて台詞を言っている訳ですから、本番に広くなると悲惨です。
 脚本的にはちょっと無理筋というか 唐突なところがあり、遊びの方に力入れすぎて肝心の本筋が甘くなりました。ラストの10年後の情景がだからしてほとんど意味を持たなくて余計なものになってしまったのが痛いですね。せっかく男の子がいるから、ハードな内容のお話でバカバカしく真剣に遊んだ脚本が適しているかもと思いました。とにかく男の役者は貴重なのだから、差別的な意味合いでなくて、男が男役として表現できる内容は何だろうかということをもう少し考えてください。

●高岡高校 「夢を喰う虎 ~『山月記』より~」

 全体の講評のところで言い抜かりました。小説などを脚本化するのも一つの新しいものを作るためには有効です。ただし、気をつけなければならないことがあります。
それは、小説ではなくて、演劇でなければ表現できない何かが見つけ出せるかどうかです。
 見つけることができなければ、それは舞台化する必要がないというか価値がない。無駄に労力です。わざわざ舞台にしてもビジュアル化しただけではご苦労様でしたーとしか言いようがありません。ええっ、山月記ってそうだったんだと観客に思われてはじめて舞台化する意味があります。特にみんな知っている名作は。
 さて、高校生におなじみの「山月記」。で、この舞台は全国の高校生が全てしっている、あるいは知らされる名作中の名作を以下に料理するかという挑戦であるはずでした。下ごしらえとして用意した材料は、李徴を女にしたこと。もう一つ「蝶」を用意したこと。結果はどうかというと加熱時間が不足で、味付け以前に生煮えになってしまったようです。 どういうことかというと、小説の方は芸術への妄念に食い破られていく自業自得の未練たっぷりな詩人の悲劇といえばかわいそうですが、まあそのようなもので芸術が持つ恐ろしさをひしひしと感じさせられ、演劇にはまって人生を漂流してゆく方々の幻がひしひしと浮かび上がるありがたい教訓を含んでいます。
 ということは、詩を扱っていてもそれを演劇に置き換えれば、実は本当に皆さんトラになってしまうほどの魅力を持つ演劇にどうやって対峙するかということになるはずですね。多分そのような意図で作られ、演劇は何か、私たちが演劇をする意味とは何か、私たちは演劇にどう向き合うのかというきわめてシリアスな問題作になってもおかしくなかったはずです。
 しかしその意図が形象化できなかった原因の大きな一つに李徴を女にしたことが上げられます。こういうのは博打です。うまくいけばいいんですが大体博打は儲からないことになっています。女の役者しかいないから女が李徴をやるというのではなくて、女として李徴を造形する。うまくいけばすごく面白いものになるのでしょうが、残念ながら焦点をぼけさせてしまう原因となりました。えんさんとの交情が芸術をめざすものではなくて男女の交情の要素が入り、しかもそれが余り連関せず深まらないし、「友情」と「男女」というやや違うふたつのベクトルをもつ設定を変えたことがほとんど意味を持たない結果となりました。実際あの時代科挙に女の人が合格するということは設定自体苦しい。唐の小説には女の人が科挙に潜り込む話はありますが男に化けてというファンタジー的な状況ですすめています。それは置いたとしても、女に設定する必要性とそれが芸術と絡んでいく合理性が明示されないと、余計なものでしかなくなります。だからして、トラでなくて、せっかく出してきた「蝶」が生きない。単なるあこがれみたいな存在としか見えてきません。トラと蝶、どうなりたいのか、どちらになるのか、なぜなるのかも説得力ある話が作りきれなくて、結局、原作をなぞるので終わってしまっています。それならば、女に設定してはいけないし、設定する以上はできるだけ上記を追求する内容が必要になるはずです。ラストのえんさんとあいたくなかったという方向性を表現するのに、女性にした設定が生きていないしむしろ邪魔になり結果的に自滅してしまったと思います。
 元のお話は短く、舞台化するためには、さまざまなものを追加して、中島敦の世界を再現するとしても、それを元にした新しい現代の山月記を構築するにも、材料が少なすぎ、料理として舞台に上げるには厳しくなりました。
 繰り返します。小説の戯曲化は舞台でしか表現できないものをその小説の中にみつけられるかが味噌です。この舞台は、その端緒はありましたが、育てきれず展開しきれなかったという意味で残念でした。ただし、挑戦することには十分意味がありますので、なぜ女でならないかを徹底的にやってみてください。多分中島敦のとは全く違う山月記の世界が顕れてくるでしょう。またそうでなくてはならないと思います。

●高知南「四十七」

 演技のキレと転換の鮮やかさが 絶対必要な舞台でしょう。まったりとしたふたつの世界がだんだん進行と共に緊張とブラックさを加えていって最後に統合されるまで、くるくるとふたつの世界が入れ替わっていきますので、転換や演技をまったりしていては、観客は何がなにやらわからなくなります。まあ脚本のせいでもありますが。途中で第三の世界が出てきたとき、私もよくわからず、あれー? 何なんだ? と思いましたが、後で脚本見て、ああねー、ということに。しかしあれじゃわからんで。
 赤穂浪士と近未来のニッポン? のふたつが交互に展開します。どちらも遊びながら核心へ進んでいきますが、この遊びは本当に計算して遊ばないとただの悪ふざけとしか見えなくなります。事実表面的には悪ふざけなんですから、演じている人たちが全体の流れで遊びのもつ意味を十分把握して、単なる異端を排除するという機能だけでは少し不足だろうと思います。日本の社会、今も昔もそうかわらない怖さを徐々に明確にしていく過程を頭に置いてやらなければならないのですが、少しそのあたり曖昧でした。まあ、脚本もかなり強引だからしょうがないのですが 。
 時代劇風の台詞回しはなかなかきついですね。これはもう練習するしかないでしょう。赤穂浪士たって演じる側も、観客の高校生の側も多分ほとんどしらないし、ギャグでしかわからないでしょうね。時代劇中でのきちんと言うところとまったりする台詞の使い分けを言われてもなかなか切り替えがききにくいですね。実は時代劇での遊びの部分が一番大事なところでこれが保証されないとなぜ時代劇の世界を出して来たかが活きてきません。 上演する上で多分悩んだのは衣装でしょうね。制服でやるのかどうするか。制服は記号です。しかもかなり明確な意味を持ちます。またそうでなくては制服ではない。警官、看護婦、軍隊。人はその人を見るのではなくて制服の意味を見ています。だから、高知県の観客は南高校の制服をみると南高校という意味をどうしても見ざるを得ない。この劇ではふたつの世界を行ったり来たりしますから(もちろん、ウェートは近未来ニッポン。時代劇はそれを浮かびあがらせるための手段)制服でやるのが楽なのですが、それにしても時代劇の中で南高校の制服をみるとちょっと苦しい。クラブの練習かなと最初は思ってしまいました。意味を余り持たない衣装の方がいいかもしれませんね。それはそれでまた処理が少し面倒かもしれませんが。
 この芝居の場合暗転はしないほうがよろしい。その方法を工夫しましょう。暗転しないで、ふたつの世界を行き来する。考えてみてください。方法はあるはずですよ。
最後に、ラストについて。見たときあれ? と思いました。ただ、ちょっと記憶があやふやだったこともあり講評時には言いませんでした。帰ってから調べてああ、やっぱりと思いました。私も赤穂浪士ってもうあんまり覚えていないんですよね。何のことかわかるでしょうか。ラストにテラサカが切腹しますよね。せっかく用意した花びらが一つしか落ちなく、それはそれで意味あるように見えてかまわないと言えばかまわないのですが、せっかく用意した籠ふたつの花びらが無念の討ち死にをしたのはかわいそうでした。仕掛けを仕込んだら必ずその正しい使い方一度チェックしといてください。泣きたくなりますから。
 話がずれました。ラストについては少し疑問があります。ヒントはテラサカのモデルになったのは寺坂吉右衛門。足軽で従者です。台詞にもありますね。この人がモデルで、テラサカは主人公なのですが、さてラストはこれでいいのでしょうかという話です。どういうことか気になる人はちょっと調べてみてください。ここでは触れません。
ともあれ面倒臭い脚本で、やや無理筋な脚本ですが、一生懸命やっていました。人数が多くなると大変ですが、全体の集団としてのキレを磨かれることを期待いたします。

●中村高校 「そんな僕らの青春」

 ラブコメということでどんなものかなーと思って見ていましたが、ちょっと類型化しすぎている感じがしました。まあ、よくありがちなパターンが多く、わかりやすいといえばわかりやすいですが、お約束が多すぎるとインパクトはその分減ります。観客の心に違和感、あるいは引っかかるものを提出しないと心に残りにくい。正直に言えば、コミックかアニメの総ザラエの感じかなぁ。
 先生は劇中でほとんど機能していません。ほとんど出詰ッパの必要はない。一時間授業しないで遊んでいるのは、実は結構大変。観客に疲れたり飽き足りさせないでそれを見せるのはかなりの計算と努力がいります。パターンがほとんど同じなので、単にしつこいだけになってしまう。それはやはりまずいでしょう。見る側のことを考えれば、同じ料理がひたすら出てくるフルコースを食べたくないのとどうよう、見る意欲をなくさせます。
変化です。質の変化。笑いでも、内容でも、登場人物でもいいです。キャラに頼らない。見る側の予測を次から次へ裏切っていく工夫を考えて。予想通りに進むのは面白くないのはすぐわかるでしょ。先が見えないのはワクワク感とドキドキ感を産みます。すなわち面白さですね。
 話の流れ、役者の演技、進む方向、パッパッとうまく切り替えることができればテンポが生まれ、観客は気持ちよくなります。観客はこう来ると思ってみるだろナーと思ったらそれをかるーく裏切ってやる。甘く見るんでないよ、私らのはそういうのとちょっと違うのよ。というのをめざしてみてください。

●土佐女子 「ジェンガ」

 脚本的にはパターン化されたものだけれど演技はできるだけ自分たちの演技を工夫していたのが伝わった。セットの関係で、微妙に動きが制限されるけれど、とりあえずしのいでいたように。
 脚本はもう少し掘り下げると、素直でケレン味のないよい脚本になれる。講評で指摘されたように、自分たちが演劇をやる意味、意志、をじっくり追求して、部活の情景、壁、どう突破するかを淡々と描いていけばいい。実際どこでも直面する課題だから。だからこそ、自分たちでしか語れないことを探しましょう。それをどれだけみつけられるかがカギになる。そうすれば、むやみに変なキャラを出してくる必要もない。たとえば、先生。たとえば放送部。これらはもっと普通のキャラでいっこうにかまわない。どうしても出したくなる気持ちもわかるけれど、ぐっと我慢して本当の面白さで勝負しましょう。第一こんな奴らがほんとにいたら蹴り入れたくなるでしょうし、蹴りを入れるドラマではないはずです。他校もそうですが、どうしても部活や学校生活を舞台にするとやたら変なキャラが出てきますね。初めから徹底して全編それをめざすなら別ですが、面白くしようとかいう考えならおやめなさい。演劇的おもしろさとはほとんど関係ありません。演劇の面白さのかなりの部分は、人間が、あるいは関係がどのように変化していくのかに負っています。現実ではなかなかそうはならないのだけれどもお互いが変わっていくのを短い時間で追体験する。まあ、願望であり、夢ですね。それがしあわせに見えると、見ている方もしあわせになれる。その過程を追求するのであれば、色物キャラに頼ってしょうもないこと喋り散らかせるには60分はあまりにも短すぎます。
 真っ向勝負をしてみて下さい。この演劇部はその力があるし、そういう脚本を自分たちで作り出せる力と演技する力があります。もったいないでないかい。それが出来んから色物で勝負ジャーっと走り出すところもあるというのに。
 ああ、でもユーモアは必要ですよ。観客の心を余計受け入れ易くします。くすぐりではなくてね。クスッとくる抑制されたユーモアというのは実はかなりよく効くスパイスです。ゲラゲラ笑うのもいいですが笑いに乗せて何かが飛んでしまう場合が少なくありません。次回期待します。